前述の守護の分布に関して目を惹く点がいくつかあります。
畿内のうち、乱後に六波羅探題に発展する京都守護が在京していた山城を除けば、大和は当初より不設置、河内も確証はありませんが不設置だったようです。和泉は紀伊と並んで当初は守護が置かれてましたが、1207年6月、後鳥羽が熊野に参詣する際に道中の諸負担がかかることを理由に廃止されています。
この事実はどういう意味を持っているんでしょう。
まず和泉・紀伊が不設置だったことは、一つは京から南海道諸国への連絡路が確保されていたことを意味していて、もう一つは不設置の理由にも現れている熊野、あるいは伊勢・伊賀方面への迂回路が確保されていることになるでしょう。
そうした観点からすると、この両国の守護廃止は、熊野詣に名を借りた倒幕への深謀遠慮だったのではないでしょうか。
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2006年10月24日
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