2006年10月26日

京方兵力の構成と戦後処理〜京方についた守護たち(4)

前述のような地域的な条件を考慮すると、乱の発端となった亀菊の長江・倉橋荘の一件も、別の角度から見えてきます。すなわち長江・倉橋荘の位置は、摂関家領の長江荘と接近する地域であることはほぼ間違いないようで、淀川の河口近くにあって畿内と瀬戸内海地方とを結ぶ交通の要衝でした。


1215(建保3)年5月、高陽院において後鳥羽が三七日の逆修を行うに当たり、人々が進物を捧げた中で、亀菊は「種々の唐薬八枝」を贈っていますが、このような珍奇な品を手に入れることができた背景には、そうした所領の交通の便があったとも推測できます。京都で軍事行動を起こすために各地の兵力を動員するさいには、この地域の持つ軍事的な重要性が浮上します。

ですがそうした重要地域が、一説に伝えられるようにこの両荘の地頭としての義時本人によって押さえられていたとすれば、言ってみれば京方にとっての目の上のたんこぶのような存在であり、地頭を廃止することの軍事的な意味はより増大します。

つまり長江・倉橋の件は承久の乱の発端となったというより、倒幕をすでに決意していた後鳥羽が軍事的な障害を取り除くために行った申し入れだったと考えた方が理解しやすいかもです。倉橋荘について、承久京方の主要人物の一人法印尊長が領有に関係したことも、この推定を裏付けている・・・かと思います。

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ニックネーム ちこりん at 00:59 | Comment(0) | TrackBack(0) | ■京都朝廷と承久の乱■
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