2005年03月02日

「摂津源氏」の人達

今回は「摂津源氏」についてです。
左メニュの「源氏系図」を参照して頂くとわかりますが頼光ー頼国ー頼綱ー仲政ー頼政となっています(本当は頼政以降まだ続くのですがここでは省きます)。
頼光は前に説明したので頼国以降を解説します。

1頼国・・・はっきりって文献や資料が見つかっていないためよくわからん人物です。ただ、蔵人所雑色を補任したり従五位下左衛門尉だったりと色々な学説があるようです。

2頼綱・・・下野・下総の国守などを経て、三河守従四位下へ。永長二年(1097)頃出家し、まもなく没する。歌人としての能力があった人。内親王歌合や高陽院殿七番歌合などにその歌が見受けられます。また、ここでは載ってませんが和歌六人党の一人頼実の弟でもあります。

3仲政・・・生没年不詳。下野守や兵庫頭、従四位下になった経歴あり。いずれにしろこの人も文献などが少ないため謎です・・・。

4頼政(NHKでは丹波哲郎が役)・・・母は藤原友実の女。白河上皇の判官代・蔵人を勤める。保元の乱では源義朝の下で戦い,平治の乱では平清盛側について平氏政権成立後も源氏の出身でありながら1166年(仁安1)に正五位下に叙せられ昇殿を許された。平清盛の推薦で1178年(治承2)従三位に叙せられ公卿に列することになるが,翌年出家し法名を真蓮とし三位入道と称された。後白河上皇の第2皇子以仁王(もちひとおう)に接近して平氏追討の令旨(りょうじ)を発給させてそれを全国の源氏に伝え挙兵を促そうと計画。がしかし露顕したため奈良に逃れる途中で1180年(治承4)5月26日宇治で以仁王とともに討たれる(橋合戦)。76歳で死す。歌人としても有名で,「新古今和歌集」にも収められている。

ひらめき和歌六人党・・・後朱雀天皇の長久年間(1040〜43)から、後冷泉天皇の永承年間(1046〜52)前後に活躍した歌人集団。歌道に精進し権門の主催する歌合に出詠し、また庇護者らの邸での歌合に出席、自邸でも歌合を開催する。晩年には家集を編纂するなど、精力的に歌作に励んだ。『藤原範永・平棟仲・藤原経衡・源頼実・源頼家・源兼長(範永の代わりに橘義清を加える説もある。また橘為仲も後に加わったようである)ら、和歌を得意とする中級貴族の受領・実務官僚6人(もしくは8人)

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この記事へのコメント
お待ちしておりました♪
源氏系図で『義経』を拝見しましたが、イメージとは随分ちがいますね。
このようにまとめて見る機会も少ないのでとても面白いです!
Posted by ダージリン at 2005年03月02日 23:25
はじめまして

頼政が朝廷に入り込めたのも、
摂津源氏と河内源氏の宗家争いがあるからでしょうね。
河内源氏の本家は失脚せさたけど、
武田、結城、足利などの他の河内源氏は未だに健在。
それらの押さえに、摂津源氏が必要だったのかな。

実際に源平合戦の源氏の主力は甲斐源氏だったし。

そう言えば、摂津源氏は、一番最後まで名字を名乗りませんでしたね。

河内源氏は戦国時代まで力を誇ったけど
摂津源氏は・・・道三に
Posted by htsgis at 2005年03月03日 09:46
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