2005年09月23日

●源義経●〜台風壇ノ浦合戦(19)

ハートたち(複数ハート)川柳の義経「八艘飛び」

余談になってしまいますが、江戸時代の演劇を含めた文芸には、「世界」と「趣向」という製作法があります。現在でもよく、歌舞伎でよく使われる言葉です。つまり、ある作品を製作するにあたって、『平家物語』の「世界」に設定すれば、おのずと登場する人物は決定されます。各世界の登場人物たちは、今日の言葉で言えば「キャラクター」として定着していました。
そこにドラマ性なり意外性を盛り込む=「趣向」を凝らすのが作者の腕の見せ所だったわけです。

例えば、江戸時代の川柳の中に、

      義経は 八艘飛んで べかこをし
                    (『誹風柳多留拾遺』五編)

というのがあります。
ちっ(怒った顔)教経(もしくは盛次)に対して「ここまでおいで、アッカンベー」をしているわけです。川柳という文芸の性格を差し引いても、この義経にはある種の軽さ・愛嬌がある感じです。これも『平家物語』から遠く隔たった時代に加えられた、義経像の新たな一画なのかもしれません。
もちろん、浮世絵に描かれた八艘飛びには勇ましい義経像が描かれているので、英雄であったことは間違いないのですが・・・。

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【源義経・平知盛の像】山口県下関市みもすそ川町・みもすそ川公園内
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【源義経像】↑クリックすると拡大画面が見れます
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【平知盛像】↑クリックすると拡大画面が見れます

上記3点の写真は、<花橘亭〜なぎの旅行記〜>様よりお借りしました。
ニックネーム ちこりん at 22:13 | Comment(3) | TrackBack(0) | ●源義経●壇ノ浦合戦

2005年09月22日

●源義経●〜台風壇ノ浦合戦(18)

CD「八艘飛び」が生まれた理由

では、何故時代が下るに連れ、「二丈」から「八艘」という飛距離の記録更新とともに、陸上競技に例えれば八段跳び(?)ともとれるような別種目も共存していたのでしょう。

文献上ではこれ以上の手がかりはありません。そこで思い切って仮説を提示してみる事にします。

ポイントは『平家物語』の義経の跳ぶところ、19日の記事(9/19の記事参照)で傍線を引いた「長刀を脇にはさんで」という部分ではないかと思います。長刀には「八双」の構えというものがあります。長刀から「八艘」が連想され『平家物語』は語り物、つまり口から口へと語り継がれてきた文芸ですので、「ハッソウ」という発音の連鎖が一人歩きをはじめ、それがいつの間にか‘船を八艘飛んだ’ことになったのではないでしょうか。この過程があったからこそ、1239/19の記事参照)に見られるような、複数の八艘飛びのイメージが生まれました。恐らく古くはシンプルな超人的跳躍だったものが、こうして成長していったと考えたいです。

ややこじつけめいた解釈ですが、ともかくこうした「八艘飛び」の成長は語り手・つくり手だけでなく、聞き手の期待感も関与していたに違いありません。できるだけドラマチックな物語を聞きたい、読みたいという願望は、いつの時代にも強いものです。元来の『平家物語』のままであったら、義経の活躍としてはやや物足りません。義経にとっては文字通り「命がけの跳躍」だったはずなので、ここでもそれにふさわしい英雄的エピソードが要求されたのでしょう。


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ニックネーム ちこりん at 23:26 | Comment(4) | TrackBack(1) | ●源義経●壇ノ浦合戦

2005年09月21日

●源義経●〜台風壇ノ浦合戦(17)

バー江戸時代に見る「八艘飛び」その2〜十八世紀

先に紹介しました島津久基氏の御本(『義経伝説と文学』)を参考に、「八艘飛び」の成長をさらに追ってみます。

八艘飛び」という言葉がはっきりと見える一番古い例は、1734(享保19)年8月豊竹座上演の並木宗助等作「那須与市西海硯」です。

六艘隔てて味方の船へ飛び越して。『盛次ここまでこい』と微笑んで立っている様子は、八島の浦で義経の。八艘飛びとはこれであるか」(ここでは、義経の相手が教経ではなく、盛次となっている。)

ここに至って、「八艘飛び」という言葉の、かなり定着していた様子が伺えます。
そして義経の浄瑠璃として名高い「義経千本桜」(延享4年<1747年>)には次のように見れます。

八島の戦で、義経を組み止めようとしたところ、船八艘を飛び越え。味方の船へ引き入れたのは、計略の底を探るため

こうした例を見ると、義経の「八艘飛び」は、もはや分かち難いほどイメージが定着していると言えます。
そして、ここまでの例を見る限り、先の問題(9/19の記事参照)の答えとしては1から3の全てがあてはまる、というのが結論となります。

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ニックネーム ちこりん at 17:18 | Comment(2) | TrackBack(0) | ●源義経●壇ノ浦合戦

2005年09月20日

●源義経●〜台風壇ノ浦合戦(16)

霧「八艘飛び」の研究

この「八艘飛び」誕生の問題については、島津久基氏が『義経伝説と文学』(明治書院 1935年)の中で詳しく考察しています。その結論から言うと、「何時頃から所謂八艘飛となつたかは明らかではない」、「『八艘飛び』の語が出来たのは室町末か(併し室町期の物には未だ所見が無い)或いは恐らく江戸時代に入つて後のことではあるまいか」としています。

残念ながら、室町期の文芸(もちろん文字として残されているもの)には、今のところ見出すことができていない状況です。しかし、少なくとも江戸時代初期にいくつかのヴァリエーションが生まれてきた痕跡をつかむことはできています。

バス江戸時代に見る「八艘飛び」その一〜十七世紀

八艘飛び」の古いかたちとしては、土佐浄瑠璃(1673〜1681)のころから江戸で流行した浄瑠璃の一派、「登八島」の中に、

判官は船八艘をお飛びなさった」 

という一節があります。話の展開は『平家物語』と同じですが、「二丈」という部分がそっくり、「船八艘」という言葉に変わっています。この作品は延宝6年の上演記録が残されているので、この時期には「船八艘の跳躍」の出現が確認できることになります。ただ、問題12のいずれにあてはまるか、はっきりしませんが、2の「八艘分の船の距離を飛ぶ」に近い印象をうけます。

もう一例は、江戸時代の連句・連歌の付合語集『類船集』に登場します。
この書には、「」という項目があり、そこに

義経は舟から船へ飛んで

とあります。ここには「八艘」という言葉はないですが、複数の船を次から次へ、という、これまた『平家物語』とは異なった飛び方になっています。
これによれば正解は1ということになるでしょう。

この『類船集』は延宝4年刊なので、先の土佐浄瑠璃「登八嶋」とほぼ同じ時期に成立しています。
つまり江戸時代前期に、義経が「八艘」を「飛ぶ」というイメージは定着しつつあったと言うことがわかってきます。

しかし、この時「八艘飛び」という言葉があったかどうか、まだわかりません。


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ニックネーム ちこりん at 17:20 | Comment(6) | TrackBack(3) | ●源義経●壇ノ浦合戦

2005年09月19日

●源義経●〜台風壇ノ浦合戦(15)

車椅子「八艘飛び」の飛び方

この壇ノ浦では、義経にまつわるエピソードとして御馴染みの「八艘飛び」ですが、さてここで問題。
八艘飛び」とはどのような飛び方をさすのでしょう。

1八艘の船を次から次へと渡る

2八艘分の船の距離を飛ぶ

3長刀(なぎなた)を持ちながら超人的な跳躍を見せる

ここでは問題の答え探しとして、いくつかの作品や資料の中に描かれた義経の「八艘飛び」について見ていきながら、八艘飛びの真実に(可能な限り)迫ってみたいと思います。

まずは『平家物語』。ここで「八艘飛び」がどのように描かれているか見てみると、意外なことに「八艘飛び」という言葉そのものは見当たりません。ひとまず、巻十一の「能登殿最後」見てみます。

奮戦する平家方の猛将、ちっ(怒った顔)能登守教経は用意した矢すべて放ち終えました。以下。大体の内容は下記の通りです。

ちっ(怒った顔)教経はこの日を最期とおもったのか、赤地の錦の直垂に、唐綾おどしの鎧を着て、いかめしい大太刀を抜いて、大長刀の鞘を外して、それを両手に持って斬りつけ回りました。面とむかって相手になる者は皆無でした。そして多くの者達が討たれました。しかし、牡羊座総大将平知盛からの伝言で、雑兵をいたずらに斬りまくることをたしなめられ、敵の大将をねらい、力をこめて刀を握り直します。ちっ(怒った顔)教経は源氏の船に乗り移って、大音声とともに攻め戦うのでした。

ちっ(怒った顔)教経義経をじかには知りませんでしたが、立派な鎧を着た武者を、これぞ判官かと目ざとく見つけ、近づいていきます。
一方、、義経の方も先から承知、面とむかって立つようにしていましたが、上手くやり過ごしてちっ(怒った顔)教経と組み合うことはありませんでした。しかしながら、たまたまちっ(怒った顔)教経は、義経の船に行き当たりました。いざ勝負、と突進するのですが、義経はかなわないと思ったのか、長刀を脇にはさんで、他の源氏方の船が二丈ほど先にいたところにゆらりと飛び乗りました。能登守はこれにはついていけず、呆然とするだけでした。

以上が『平家物語』における「八艘飛び」の一部始終です。いささか拍子抜けするぐらいあっさりしていますが、要は追い詰められた義経が、二丈先の船に飛び移るというものです。この場合、先の解答のうち3に当たると考えられます。「壇ノ浦合戦」(安徳天皇縁起絵図 赤間神宮蔵)はその場面を描いた物です。

これについて、安田元久氏の『源義経』(新人物来往社)では、

「もちろんそのままは信じられない。二丈といえば6.6メートル、重い鎧をつけての跳躍でこれだけ飛べれば、まさに神業であろう。ここでは、そうした神技よりも、むしろ懸命になって逃げた義経の姿を『平家物語』の作者は強調したかったのかも知れない」

としています。勿論二丈を飛ぶのですから超人的ではありますが、一体これが我々の知るところの「八艘飛び」と言えるのでしょうか。どうも視覚的なイメージとしては、物足りなさを感じてしまいます。

いやむしろ、そもそも考えの順序が違っていて、ここは発送を転換させて、「八艘飛び」というのは後世に作り上げられたと見るべきでしょう。イメージとしての「八艘飛び」、ならびにその言葉が、いつごろ生まれたのかをも探る必要があるようです。

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ニックネーム ちこりん at 17:23 | Comment(12) | TrackBack(6) | ●源義経●壇ノ浦合戦

2005年09月18日

●源義経●〜台風壇ノ浦合戦(14)

リゾート赤間神宮(2)

リゾート赤間神社境内には、安徳帝阿弥陀寺陵耳なし芳一の芳一堂・平氏一門を弔う七盛塚などの史跡があり、社殿横の宝物殿には重要文化財指定の『長門本・平家物語』『赤間神宮文書』などの貴重な資料が数多く展示されています。

また、毎年5月3日にはリゾート赤間神宮を中心に平氏一門を偲ぶ先帝祭が行われています(参考:http://www.tiki.ne.jp/~akama-jingu/)。花魁(おいらん)姿の五人の大夫が稚児官女を引き連れ、豪華絢爛に参拝します。


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【安徳天皇阿弥陀寺陵】〜「歴史の扉 〜史跡を訪ねて〜」様より〜
入水した安徳天皇の尊身体が漁師中島四郎大夫正則の網によって揚げられ、この地に手厚く葬られたのが始まりだと伝えられています。御墳墓は、明治22年宮内庁から御陵として定められ、中国地方では唯一の御陵と言われています。

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【耳なし芳一の芳一堂】〜「歴史の扉 〜史跡を訪ねて〜」様より〜
小泉八雲の死の年(1904年)に出版され、世界的に有名になった『怪談』の巻頭を飾るのが「耳なし芳一の話」です。『平家物語』を語る琵琶法師・ちっ(怒った顔)芳一台風壇の浦に没した平家の怨霊にさそわれて、赤間が関の墓所で、毎夜台風壇の浦合戦の悲劇を物語ります。そのことを知った和尚が体中に般若心経を書きつけ、怨霊から護ろうとしますが、耳にだけ経文を書くことを忘れ、その耳を怨霊が引きちぎって立ち去ったという物語です(原典では「耳きれ芳一」とあり、民話の世界では「耳きり団一」の名で伝えられています)。

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【七盛塚】〜「歴史の扉 〜史跡を訪ねて〜」様より〜
教盛、知盛、経盛、教経、資盛、清経、有盛など平家一門の14基の墓が並んでいます。二位尼の墓もあります。台風壇之浦の合戦から約400年後の1600年前後に建てられたと言われています。一説では、平家が滅亡して以来ずっと、関門海峡では海難事故が頻発し「平家の怨霊が騒ぎ出した」と恐れられていたとか。平家の怨霊を鎮めるため下関近辺に散在していた墓標をこの地に集約して供養するために建てられたとも言われています。

尚、赤間神社に関する詳細はなぎさんの旅行記に紹介されていますので御参照されるといいと思います。

【MAP】
赤間神宮(1)を参照
ニックネーム ちこりん at 19:11 | Comment(6) | TrackBack(3) | ●源義経●壇ノ浦合戦

2005年09月17日

●源義経●〜台風壇ノ浦合戦(13)

リゾート赤間神宮(1)

1185(寿永4)年3月の壇ノ浦の合戦で敗れた平氏一門とわずか8歳で入水した安徳帝の菩提を弔うため、63905後白河法皇の勅命で建てられた神社がリゾート赤間神社です。古くは阿弥陀寺と言いましたが、明治初めの神仏分離により、地名をとって赤間神社となりました。

鮮やかな朱塗りの外観は、非常に珍しい竜宮造り。二位尼の「波の底にも都の候ふぞ」の言葉の如く、安徳帝の御霊を鎮めるのにふさわしい建築となっています。


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【赤間神宮の外拝殿】〜「歴史の扉 〜史跡を訪ねて〜」様より
奥には「内拝殿」があり、さらに奥には 「御本殿」 が控えています。また、この西側にある 「宝物殿」 には、数々の重要文化財が展示されています。

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【赤間神宮の水天門】〜「歴史の扉 〜史跡を訪ねて〜」様より
安徳天皇が祀られている水天門は、「その玉体は水底にあっても、御霊は天上にある」ということから、その名が付けられたと伝えられています。

【MAP】
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ニックネーム ちこりん at 17:23 | Comment(1) | TrackBack(1) | ●源義経●壇ノ浦合戦

2005年09月16日

●源義経●〜台風壇ノ浦合戦(12)

もうやだ〜(悲しい顔)安徳天皇の入水

平家物語』では、ハートたち(複数ハート)二位尼安徳帝を抱いて入水したことになっていますが、今もその哀れにも悲しい幼帝の最後を、『平家物語』文によって偲んでみます。

主上ことしは八歳にならせ給へども、御年の程よりはるかにねびさせ給ひて、御かたちうつくしく、あたりもてかかやくばかり也。御ぐしくろうゆらゆらとして、御せなかすぎさせ給へり。あきれたる御さまにて、

『尼ぜ、われをばいづちへぐしてゆかんとするぞ』

と仰せければ、いとけなき君にむかいたてまつり、涙ををさへ申されけるは、

『君はいまだしろしめされさぶらはずや、先世の十善戒行の御ちからによって、今万乗(ばんじょう)のあるじと生れさせ給へども、悪縁にひかれて、御運既につきさせ給ひぬ。まづ東にむかはせ給て、伊勢大神宮に御いとま申させ給ひ、其後西方浄土の来迎にあづからんとおぼしめし、西にむかはせ給ひて、御念仏さぶらふべし。この国は心うきさかゐにてさぶらへば、極楽浄土とてめでたき処へぐしまいらせさぶらふぞ』

となくなく申させ給ひければ、山鳩色の御衣にびんづらゆはせ給て、御涙におぼれ、ちいさくうつくしき御手をあはせ、まづ東をふしをがみ、伊勢大神宮に御いとま申させ給ひ、其後西にむかはせ給ひて、御念仏ありしかば、二位殿やがていだき奉り、『浪のしたにも都のさぶらふぞ』となぐさめたてまつって、ちひろの底へぞいり給ふ。

悲哉(かなしいかな)無常の春の風、忽(たちまち)に花の御すがたをちらし、なさけなきかな、分段のあらき浪、玉躰をしづめたてまつる。殿をば長生と名づけてながきすみかとさだめ、門をば不老と号して、老せぬとざしとときたれども、いまだ十歳のうちにして、底のみくづとならせ給ふ。十善帝位の御果報、申すもなかなかをろかなり。

雲上の竜くだって海底の魚となり給ふ。大梵高台(だいぼんこうだい)の閣のうへ、釈提喜見(しゃくていきけん)の宮の内、いにしへは槐門棘路(かいもんきょくろ)のあひだに九族をなびかし、今は船のうち、浪のしたに御命を一時にほろぼし給ふこそ悲しけれ



思えば哀れな安徳天皇の一生でした。今をときめく太政大臣平清盛の女(むすめ)、高倉天皇に入内して中宮となった徳子(建礼門院)の腹に生まれ、幼くして即位したこの天皇は、その物心がつく頃、すでに斜陽の平氏と運命をともにして、西の海を漂う生活に入っていました。手(グー)屋島の内裏も仮のもので、しかもそこすら長くは安住できず、また船上での明け暮れとなりました。そしてついに、台風壇ノ浦の夕照のうち、金色に輝く波の底に、最後の安住の地を見出したのでした。



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【安徳帝御入水之処の碑】
ハートたち(複数ハート)二位尼がが、安徳天皇を抱き
今ぞ知る みもすそ川の御流れ 波の下にも都ありとは』と詠い、海に身を投げました。
【MAP】
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ニックネーム ちこりん at 17:11 | Comment(8) | TrackBack(0) | ●源義経●壇ノ浦合戦

2005年09月15日

●源義経●〜台風壇ノ浦合戦(11)

もうやだ〜(悲しい顔)平氏滅亡

女院の入水する様を見た大納言佐の局(重衡の妻、安徳天皇の乳母)が、続いて三種の神器の一つである鏡の入った唐びつを脇にはさんで飛び込もうとしました。しかし、袴の裾を矢で射られて倒れ、生き残りました。

女達に続いて、平氏の一族が次々と海に飛び込んでいきます。長老の教盛、経盛兄弟は、鎧の上に碇を背負い、手に手を組んで海に沈みました(教盛はこの戦いの前に一旦陸地に赴き出家を遂げたのち、再び戦場に引き返したと言われています)。資盛、有盛、行盛も同じように鎧の上に碇を背負い、手に手を組んで入水。人々が次々と海に飛び込む中、平氏の総帥ふらふら宗盛とその子がく〜(落胆した顔)清宗は、自殺する気もなく船端に呆然と立ち尽くしていました。その情けない様子を見るに見かねた平氏の侍が、二人を海に突き落としました。ところが、二人は泳ぎ上手で、すぐに浮かび上がってきて泳いでいるところを義経の郎党クリスマス伊勢三郎義盛が見つけ、水から引き上げて捕虜にしました。

一方、今日を最後と、射るべく矢を全て射尽くし、死に物狂いになって戦うちっ(怒った顔)能登守教経は、源氏の船に次々に乗り移り、義経を狙いますが果たせず、もはやこれまでと太刀・長刀を海へ投げ込み、甲も脱ぎ捨て、寄ってきた一人を蹴倒し、二人を両脇にはさんで海に身を投げました。又、『醍醐雑事記』という書物には、この海戦で戦死した平氏の人々の名が見られますが、その中に能登守教経がいます。これも身代わりなのか、一の谷で戦死したと記されている『吾妻鏡』が誤りなのか、真実は永久にわかりません。

そして最後に残ったのが牡羊座知盛です。
平氏一門の人々の最後をすべて見届けた牡羊座知盛は、

ぴかぴか(新しい)見るべき程のことは見つ、今は何をか期すべし

と言い放ち、かねてからの約束通り、乳母子の伊賀平内左衛門家長とともにお互いに鎧二両を身にまとい、手に手を組んで海に沈みました。

尚、ハートたち(複数ハート)二位尼の弟、ホテル平時忠とその子の時実は、元々武将ではなく、時忠の従弟信基も同様です。彼等は源氏に捕らえられ、ホテル時忠は能登、時実は周防、信基は備後に配流されました。

平家物語』は戦いの終末の様を、

海上には赤旗、赤印、投げ捨てかなぐりすてたりければ、龍田河の紅葉葉を嵐のふきちらしたるがごとし。みぎはに寄する白波も薄紅にぞなりにける。主もなきむなしき舟は、塩にひかれ、風にしたがって、いづくをさすともなくゆられゆくこそ悲しけれ

と記しています。海上には平氏の紅旗や赤印が一面に投げ捨てられ、その様はまるで龍田河の紅葉の葉を嵐が吹き散らしたようであったと言います。

源平の争乱はここに幕を閉じました。

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【御裳川碑】
二位尼の歌から、御裳川(みもすそがわ)という地名が生じたとも言われています。
〜「歴史の扉 〜史跡を訪ねて〜」様より〜
【MAP】
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ニックネーム ちこりん at 17:28 | Comment(8) | TrackBack(0) | ●源義経●壇ノ浦合戦

2005年09月14日

●源義経●〜台風壇ノ浦合戦(10)

ぴかぴか(新しい)義経、女院を生け捕る

「もはやこれまで」と、いよいよ最後の時が来た事を悟った知盛は、御座船に移り、掃除をはじめ、あわてふためく女房たちに軽口をたたいて、「その時」が来た事を告げました。このありさまを見た二位尼清盛の妻時子、建礼門院の母)は、三種の神器のうちの神璽を脇にはさみ、宝剣を腰に差し、まだ幼い安徳天皇を抱いて船端に歩み寄るや、海中に身を沈めました。

続いて女院(建礼門院)も、焼石や硯といった重い物を懐に入れ、海中へと身を投げました。しかし、女院の入水を知った源氏の侍、渡辺党の源五右馬允昵(げんごうまのじょうむつる)によって、その長い黒髪を熊手にかけられ、引き揚げられてしまいました。

後に女院は自身の半生を語り、この時のことを畜生道になぞらえて語っています。『源平盛衰記』では、

九朗判官(義経)に虜られて、心ならぬあだ名を立て候へば、畜生道に云ひなされたり。誠に女人の身ばかり、申すに付けて悲しけれども、我が身一人の事にあらず

と、より具体的に記されています。ことの真偽はともかく、戦争時の女性の身の上としては、このようないわゆる畜生道があったのもまた事実でした。



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【壇の浦古戦場址の碑】<花橘亭〜なぎの旅行記〜>様より
この地を舞台に最後の戦い台風壇ノ浦の戦いが繰り広げられ、平家武者の多くが海底に沈みました。


【MAP】
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ニックネーム ちこりん at 21:34 | Comment(9) | TrackBack(3) | ●源義経●壇ノ浦合戦

2005年09月13日

●源義経●〜台風壇ノ浦合戦(9)

船関門海峡の潮流(2)

この合戦の行われた陰暦3月24日の潮流の状態は、具体的には下記のようなものであったと推測できます。

この日を現今の暦に正確にあてはめて調査すればよいのですが、当時の暦は宣明暦と言って、かなり不完全なものなので、記録に24日とあっても、これを正確に現在の暦法による日時に換算するのは困難です。
ところが幸いに、当時の記録により、その月の15日に月蝕があったことがわかっているため、そのことかが手がかりとなって、その満月の日が明らかになりました。そこで、そのことから推して24日の潮流の動きも、ほぼ正確に把握することが可能となりました。その潮流の研究は、かつてとある博士が、旧海軍の水路部の調査をもととして行われたものですが、いまその研究結果を信じて、この海峡における3月24日の潮流の状態を見ると、次のようになります。

まず、この海峡での特徴は、高潮・低潮の時刻と潮流の方向変化の時間とが全く一致せず、潮流は、高潮・低潮の時刻から遅れること約3時間20分に始まり3時間ほど続くということです。そして二つ目の特徴として、漲潮(潮が満ちてくる時の潮流)・落潮の方向が瀬戸内海の他の海峡(鳴門・由良・豊後水道など)の場合とは逆に、漲潮が内海から日本海に向かって流れることです。

そして3月24日の潮流は、具体的には午前5時10分頃に高潮の時刻に成り、それから3時間20分後の、午前8時30分ころから潮が内海に東流しはじめます。そのはじめは潮流の速度もゆるいですが、次第に早くなり、午前11時10分ころ、もっとも急になり、前述したように時速八海里にも及びます。その後、次第に速度をゆるめつつ東流が続きますが、やがて潮流が止まると、次には外海へ向かって西流しはじめます。それが午後3時頃です。この西へ流れる潮流が、っもっとも急になるのは午後5時45分頃であり、それがやがて再び内海への東流に変わるのが、午後8時30分頃です。そして、東流する潮流は、午後11時10分頃に最急流となります。

ですので昼間で潮流の最も急な時刻は、午前11時10分頃(東流)午後5時45分頃(西流)で、ほぼ潮流のとまるのが、午前8時30分の頃と、午後3時ということになります。

こうした潮流の変化を背景として、源平両軍の決戦が展開されたのでした。

ぴかぴか(新しい)ここ最近の新説として、この時期は潮の流れが上記のように速くならず、実際に海戦の行われた場所は潮流に影響されなかったと言われています。

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【和布刈神社境内から見た壇之浦】<花橘亭〜なぎの旅行記〜>様より

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【和布刈神社の灯籠と関門橋】<花橘亭〜なぎの旅行記〜>様より

【MAP】
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ニックネーム ちこりん at 17:29 | Comment(8) | TrackBack(0) | ●源義経●壇ノ浦合戦

2005年09月12日

●源義経●〜台風壇ノ浦合戦(8)

船関門海峡の潮流(1)

源平両軍が交戦状態に入ったのは、赤間関沖の海上です。この海戦の経過を考えるには、どうしてもその戦場となった関門海峡の自然の条件を知る必要があります。

ここは言うまでもなく瀬戸内海の最西端であって、周防灘と外海の玄海灘とを結ぶただ一つの水路です。海峡はその西の入り口を扼する人影彦島から、東は企救半島の先端まで約十キロの間、極めて幅の狭い水路が続きます。そして潮の干満による内海と外海との潮位の差を、海水はこの狭い海峡によって調節しなければならないので、時刻によっては、海峡の潮流が非常な急流となります。

また当然のこととして(既に図でも表示したように)一日の間に潮流の方向は二度変わり、その潮流の変化に精通した者でなければ、思わぬ失敗をするという海上の難所でした。潮流の速さは、時速八海里(一海里は約1852メートル)にも達すると言います。

このような潮流の速度と方向の変化が、当時の小さな和船に大きな影響を与えることは勿論です。平氏の軍は、この海路によく馴れていたでしょうし、源氏軍もまたその点は研究していたでしょう。合戦の計画は、この潮流を巧みに利用することに基本が置かれたに違いなかったことでしょう。

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【和布刈神社】<花橘亭〜なぎの旅行記〜>様より
平家一門が戦勝祈願したと伝えられる神社です。

【MAP】
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ニックネーム ちこりん at 17:24 | Comment(10) | TrackBack(1) | ●源義経●壇ノ浦合戦

2005年09月11日

●源義経●〜台風壇ノ浦合戦(7)

携帯電話義経のタブー破り

続いて義経は、平氏方の船を操る水手(すいしゅ・【船乗り、漕ぎ手のこと】)・楫取(舵取り)を射殺するように命じました。
当時の船の構造では、漕ぎ手は全部船べりに立って船を漕いでいました。まったく防御設備のない舷外で、常に危険にさらされていた水手・楫取ら非戦闘員への攻撃は、陸上の騎射戦において敵の馬を射るのと同様に、当時の合戦ではタブーとされていました。

漕ぎ手と舵取りを失った平氏の兵船は、当然の事ながら機動力を失い、混乱を極め、ただ海上に漂うよりほかなかった状態でした。
これが源氏勝利の決め手と成りました。

正午以降は平氏の兵船は混乱したまま退却をはじめます。
しかも、3時頃からは外海へ西流する潮があるため、午後以降は、源氏軍が追撃する体勢となりました。源氏軍はこの西流する潮にのって平氏一門の兵船に肉迫していきました。

玉葉』の4月4日の条に、台風壇ノ浦海戦のことが見え、それには

去三月二十四日午刻、長門国において合戦す。午正より申時(午後4時頃)に至るまで、伐死(きりじに)の者といひ生取の輩といひ、其の数を知らず

とあります。これは午後、源氏軍が反撃にうつった後のことを示しています。この時刻にはすでに松浦党の水軍などは敗走して戦場を離脱し、平氏一門のみが、源氏軍の攻撃目標になっていたものと推定されます。
潮に乗った源氏軍は、潮の速力が加わるにつれて、いよいよ勝勢を高め、ついに平氏軍を壇ノ浦に追い詰めたのでした。
ここでは、陸地に陣取って、矢先を揃えて待ち構える源氏の陸上軍(範頼軍)に退路をはばまれているため、平氏は前後から挟撃されて、その敗北はさらに決定的となりました。またこの頃、九州や四国の武士達で平氏を裏切るものが続出しました。


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【文治元年3月24日 午後3時】
赤色点郡は平家軍、白色点郡は源氏軍。
水色線は潮流、赤色円は門司崎、紫色円は田浦周辺、緑色円は赤間崎、右上の赤色四角形は満珠島、水色四角形は干珠島。
ニックネーム ちこりん at 15:45 | Comment(9) | TrackBack(7) | ●源義経●壇ノ浦合戦

2005年09月10日

●源義経●〜台風壇ノ浦合戦(6)

もうやだ〜(悲しい顔)重能の裏切り

度重なる凶兆が、平氏軍の士気を衰えさせていったのは言うもでもありませんが、決定的だったのは、夜阿波民部重能の源氏への寝返りでした。夜重能といえば、ビール屋島の内裏を設営して平氏の四国経営に尽力し、この時四国の水軍を率いて平氏軍の重要な戦力をなしていた人物です。

平家物語』では、>重能の寝返りの理由として、子息の田内左衛門教能(のりよし)が義経に捕らわれたことを挙げています。寝返った夜重能は、平氏軍の作戦を次々にばらしました。平氏方では、高貴な身分の者を兵船に乗せ、雑兵(下賤の者)を唐船に乗せていると言います。

平氏の作戦は、源氏が唐船の方に大将が乗っていると思って攻め寄せたところを、中に取り囲んで討とうとするものでした。これを聞いた源氏方は唐船には目もくれず、雑兵に身をやつした平氏の公達らが乗った兵船を徹底的に攻めました。

こんなことなら重能を斬って捨てるべきだった

と、早くに夜重能の心変わりに気づいていた知盛は、後悔しますがもう時遅しです。そのうちに四国、九州の軍勢が、みな平氏に背いて源氏方に寝返ってしまいました。もう誰の目にも勝敗の行方は明らかでした。

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【文治元年3月24日 正午】
赤色点郡は平家軍、白色点郡は源氏軍。
水色線は潮流、赤色円は門司崎、紫色円は田浦周辺、緑色円は赤間崎、右上の赤色四角形は満珠島、水色四角形は干珠島。
ニックネーム ちこりん at 13:01 | Comment(8) | TrackBack(0) | ●源義経●壇ノ浦合戦

2005年09月09日

●源義経●〜台風壇ノ浦合戦(5)

モバQ凶兆

緒戦は勢いに勝る平氏軍が優勢で源氏軍は守勢となっておりました。さらに、源氏軍にとって事態は悪化します。潮流が東流(日本海から内海へと流れる潮流)しはじめたのです。この潮流を巧みに利用した平氏軍は、いよいよ勝ちに乗じて進み、源氏軍を圧倒しはじめました。
平家物語』に、

門司・赤間・壇ノ浦は、たぎりて落つる塩なれば、源氏の舟にむかふて、心ならず押し落さる、平氏の船は塩に逢うてぞ出で来たる。おきは塩の早ければ、みぎはについて、梶原、敵の舟のゆきちがふ処に熊手をうちかけて、親子主従十四、五人乗り移り、うち物抜いて、ともへ(舳)にさんざんに薙いでまはる。

とあるのは、恐らくこのときの状況であったと思われます。つまり、沖の急潮をさけて海岸寄りに位置した63814梶原が、目の前を過ぎて行く敵船に熊手をかけて押え止め、それに乗り移って奮戦したというのです。

しかし、義経以下源氏軍の本隊は、次第に速度を増す潮の流れと平氏軍の攻撃に抗しきれず、満珠島・干珠島あたりまで圧迫され、敗色が濃くなって行きました。

ですが、間もなく平氏の敗北を予感させる異変が次々と起こり、それに伴い次第に情勢が変化しました。

突然、持ち主もない白旗が源氏の船に舞い下がったかと思うと、沖からイルカが千から二千もの大群で、平氏の船の方に向かってきました。宗盛が陰陽師に占わせると、ここから泳いでイルカが戻っていけば源氏は滅び、このまままっすぐ泳いで通っていけば平氏が危うくなると言います。ですが、陰陽師が言い終わるか言い終わらないうちに、イルカは平氏の船の下をまっすぐ通り抜けていきました。

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文治元年3月24日 午前6時
赤色点郡は平家軍、白色点郡は源氏軍。
水色線は潮流、赤色円は門司崎、紫色円は田浦周辺、緑色円は赤間崎、右上の赤色四角形は満珠島、水色四角形は干珠島。
ニックネーム ちこりん at 17:29 | Comment(4) | TrackBack(3) | ●源義経●壇ノ浦合戦

2005年09月08日

●源義経●〜台風壇ノ浦合戦(4)

船開戦

さる程に源平の陣のあはひ、海のもて三十余町をぞへだてたる。門司、赤間、壇ノ浦はたぎりておつる塩なれば、源氏の舟は塩にむかうて心ならずおしおしとさる。平家の舟は塩におうてぞ出できたる」(『平家物語』巻十一「鶏合 壇浦合戦」)

海面三十余町を隔て、源平両軍は対峙しました。門司、赤間、台風壇ノ浦のあたりは狭い海峡なので、潮流が強いため、源氏の船は潮流に逆らう方向となって、後ろに流されました。
一方の平氏軍は千余艘を三手に分け、潮の流れに乗って、第一陣の山賀兵藤次秀遠が五百余艘で先陣として漕ぎ出しました。これに二陣の松浦党、三陣の平氏の公達が続きました。秀遠は九州で一番の強い弓の射手で、すぐれた兵でした。平家の総指揮官知盛は、舟の屋形に立ちあがって、

天竺(てんじん)・震旦にも、日本わが朝にも双(なら)びなき名将勇士といへども、運命尽きぬれば力及ばず、されども名こそをしけれ。東国の者共によはげ(弱気)見ゆな。いつのために命をばをしむべき。これのみぞ思ふこと

と大音声をあげ、平氏軍の士気を励ましました。
やがて精兵五百人を船端に立たせ、一斉に矢を放ちました。

これに対して義経は、真っ先に進んで戦っていましたが、平氏方かた次々と放たれる矢に、楯でも鎧でも防ぎきれず、散々に射られて圧倒されました。緒戦は圧倒的に平氏方に有利に進みました。


映画遠矢合戦
戦いを前にして遠矢の応酬がありました。どちらが強く、しかも遠くまで矢を届かせることができるかを競いました。まずは源氏の63723和田小太郎義盛が、十三束二伏の矢を平知盛の軍船に打ち込んで弓勢を誇りました。
これに対して、平氏の新居紀四郎親清(にいのきしろうちかきよ)がなんと十四束三伏の矢で応酬し、63723義盛に恥をかかせます。すると今度は源氏方から、甲斐の阿佐里(浅利)与一が十五束の矢を射返し、四町余り向こうの船上に立つ親清の胸を射抜きました。源氏雪辱の瞬間です。壇ノ浦合戦の前哨戦とも言える遠矢合戦に、源氏は勝利しました。


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文治元年3月24日 未明
赤色点郡は平家軍、白色点郡は源氏軍。
水色線は潮流、赤丸は門司崎、紫色円は田浦周辺、緑色円は赤間崎、右上の赤色四角形は満珠島、水色四角形は干珠島。
ニックネーム ちこりん at 17:30 | Comment(4) | TrackBack(3) | ●源義経●壇ノ浦合戦

2005年09月07日

●源義経●〜台風壇ノ浦合戦(3)

船史料に見る戦いの様子

最後の決戦は、3月24日の卯の刻(午前六時頃)と決まりました。

源氏の船は三千余艘、平家の船は千余艘、唐舟少々あひまじれり

船の数は源氏が三千艘であったのに対して、迎える平氏はわずかに千艘でした。もっともこれは『平家物語』によるものです。この数にはかなりの誇張がありますが、平家側の水軍には、唐船すなわち中国風の大型船が若干混じっていたことは事実でしょう。安徳天皇をはじめ、平宗盛や一門の女房たちは、こうした唐船に乗って後陣についていたものと思われます。

一方『吾妻鏡』によれば、戦いの始まりはわからないものの、終わったのは午の刻(正午十二時頃)で、船の数は源氏が八百四十艘であったのに対して、平氏は五百艘であったと言います。
又、『玉葉』では船の数は不明ながら、正午に始まり、申(さる)の刻(午後四時頃)に終わったとされています。

さてこうして両軍が接近するわけですが、合戦が始まるころは、むしろ平家側が積極的であって、手(グー)上総悪七兵衛景清が、
坂東武者は馬のうへでこそ口はきき候とも、ふないくさ(船軍)にはいつ調練し候べき、魚の木にのぼったるでこそ候はんずれ、一々とって海に浸け候はん

と高名したと伝えられているように(『平家物語』)、海上の戦に不馴れな源氏軍を一挙に粉砕せんとする気迫に満ちていました。

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ニックネーム ちこりん at 11:17 | Comment(4) | TrackBack(1) | ●源義経●壇ノ浦合戦

2005年09月05日

●源義経●〜台風壇ノ浦合戦(1)

爆弾再び衝突!

決戦の当日、またもや義経63814梶原景時がぶつかりました。
ことの発端は63814景時義経に対して、その日の先陣を願い出た事によります。
これに対して義経は、

水瓶座自分がこの場にいないのならばともかく、ここにいるのにそれはできない

と譲りません。63814景時が、

猫あなたは大将軍ではないか

と言うと、義経は、

水瓶座自分は大将軍などと思ってもいない。大将軍といえば、頼朝殿一人であって、自分はその命令を受けて事を行っているにすぎないのだ

と言い返します。

これにあきれた63814景時は、

猫生まれつきこの殿は武士の主にはなれない人だ

とつぶやきました。義経はこれを聞きつけ、

水瓶座日本一の大馬鹿者めが

と言って、太刀の柄に手を掛けました。一方の63814景時も負けてはいません。

猫どこがおかしい。自分にとっても主人は頼朝殿以外にはいない!

と、63814景時もまた義経の言葉を逆手にとって言い返し、自分の太刀の柄に手を掛けました。

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ニックネーム ちこりん at 17:29 | Comment(8) | TrackBack(1) | ●源義経●壇ノ浦合戦