知盛は生きていた〜「義経千本桜」中世以来、人々の間で広がっていた、
知盛は怨霊となって
大物の浦で
義経の船を襲い
弁慶に調伏されたのだという共通認識を下敷きに、江戸時代人の想像力は、今度はそれをひねった形で、物語を作り上げます。
壇ノ浦で入水したはずの
安徳天皇や
知盛の遺体が上がらなかったのを利用して、

知盛たちが実は生きていて、
義経に報復するチャンスを虎視眈々とねらっているとのストーリーを考え出したのです。それが「
義経千本桜」の二段目、「
渡海屋」と「
大物浦」の場です。
1747(延享4)年の大坂(大阪)で初演された人形浄瑠璃「
義経千本桜」は、「
菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)」「
仮名手本忠臣蔵」と並ぶ時代狂言三大名作の一つで、翌年にはすぐさま歌舞伎化され、今日、文楽・歌舞伎両方の重要なレパートリーとなっています。
「
渡海屋」「
大物浦」のあらすじを記してみます。
尼崎大物の浦で船問屋の渡海屋を営む、真綱の銀平(ぎんべい)と女房は、九州へ渡るために、日和待ちで滞在している
義経主従を欺き、一刻も早い乗船を勧めて荒れる夜の海へと送り出します。銀平は実は
知盛、女房は
典侍(すけ)の局、娘・お安は
安徳天皇の世を忍ぶ仮の姿で、
壇ノ浦で海底に沈んだと思わせておいて、二年あまりの間、庶民にまじわって生活しながら、ひたすら怨敵
義経を討ち取る機会をひそかに狙っていたのでした。
知盛は敵の目をくらますため、白装束、白柄の長刀を構えた幽霊のいでたちで、
義経のあとを追い、海上へと向かいます。渡海屋裏手で沖の戦況を見守っていた
典侍の局は、
知盛討ち死にの知らせを聞いて、
安徳天皇を抱き入水を図りますが、
義経の郎党に助けられます(渡海屋)。
深手を負って戻ってきた
知盛は、
安徳天皇の守護を誓う
義経の言葉に耳を貸さず、
弁慶が出家を勧めて首へ投げかけた数珠を捨て、なおも
義経にいどもうとする。しかし、
安徳天皇に、
「
義経の情けを仇に思うな」
と論され、
典侍の局も自害して、我が身の命運尽きたのを知ります。
義経に、
「
大物の沖で判官に仇をなしたのは、知盛の怨霊だと伝えてくれ」
と言い残し、岩上にのぼって大碇の綱を身体に巻きつけ、碇を海中に投げ込み、綱に引かれて海底へと壮絶な入水を遂げます(大物浦)。
壇ノ浦で
義経に滅ぼされたはずの
知盛が、船問屋のあるじとして親子三人、平凡で幸せな家庭生活を営んでいるように見せかけて、恨み重なる
義経への復讐の機会を、ひそかにうかがっていました。
しかし、機会を見て本望を達しようとした時には、計略はすべて見破られており、結局
義経に一太刀も浴びさせることなく、海中へ我が身を投じることになりました。
通称「
碇知盛(いかりとももり)」と言われるこの幕は、運命の前の如何ともしがたい人間の虚しさを描き出し、印象的な幕切れともあいまって、強く心を打ちます。
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