2006年02月02日

義経北行伝説(13)

手(チョキ)人々の願望〜義経は死なず

これまで、義経が平泉で死なずに北海道へ、さらには中国大陸へと渡った説の数々を見てきましたが、これでも全ての書について言及できたわけではありません。

でも、おおよその流れとしては、17世紀後半、江戸時代に、蝦夷に渡った説が出て、18世紀に、金や清にかかわる説が、19世紀半ばになって、ジンギスカン説が登場するという感じでまとめられます。その根拠などは限りなくゼロに近いものの、これだけ多くの書物に「義経は平泉では死ななかった」と取り上げられていることは、義経に生き延びてほしいと思う、人々の願望が極めて根強かったのだということを、改めて思い知らされました。

【義経とジンギスカンの共通点】

水瓶座源義経<ゲンギケイ>

新月生誕・・・1159年
やや欠け月体型・・・150cmぐらいで痩せ型
半月生活習慣・・・酒は飲めず、緑茶を好んだ
三日月数字・・・義朝の九男だったため「九朗」と呼ばれた
満月旗/紋所・・・源氏の象徴である白旗え「笹りんどう
犬戦術・・・逆落しなどのように奇襲戦を得意とした



魚座成吉思汗<ジンギスカン>
※蒙古語の場合「ジ」「ゲ」「ギ」の発音は微妙

新月生誕・・・1162年(1155、1158年説もあり)
やや欠け月体型・・・一見大柄に見られるが実は小柄だった
半月生活習慣・・・義経同様酒が飲めず、緑茶を好んだ
三日月数字・・・生涯にわたり「9」という数字を好んだ
満月旗/紋所・・・即位の頃より白旗を掲げ、紋所は「笹りんどう
犬戦術・・・義経同様に奇襲戦を得意とした


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2006年02月01日

義経北行伝説(12)

雷義経、中国大陸へ!(3)

前回の続きです・・・。

1義経は金に逃れ、義経の子が金の将軍になった。

2清王朝の先祖は義経で、清という国号も清和源氏からとった。

3モンゴル帝国の創始者ジンギスカン(ジンギスハン)となった。


3ジンギスカン説は、123の中でも最も有名な説です。
ジンギスカンは、西暦で言うと1162年頃に生まれ、1227年に没。在位期間は1206〜27なので、時期的には義経と符合します。もっとも、この説は明治時代になって盛んに取り沙汰されるようになったもので、12の二つの説が江戸時代からあったものに比べると、歴史は浅いです。

1823(文政6)年に長崎にやってきた、シーボルトの著した『本日本』に書かれているのが最初と言われています。やがて明治時代になって、末松謙澄(すえまつけんちょう)が英語で記した、ケンブリッジ大学の卒業論文「Identity of the Great Conqueror Genghis Khan with the Japanese Hero Yoshitsune(邦訳、征服者成吉思汗は日本の英雄義経同一人物也)」にもその説が唱えられ、その邦訳を、内田弥八が『義経再興記』として出版したのが1885(明治18)年のことです。そののちも、小谷部全一朗成吉思汗ハ源義経也』(富山房、1924<大正13>年)が大きく取り上げられ、戦後にも高木彬光(あきみつ)『成吉思汗の秘密』(光文社、1958年。最近ではハルキ文庫に収められた)が話題になりました。

恐らくは、明治時代に、中国大陸進出をもくろむ日本社会に理論的根拠を与えるため、というより、単に盛り上げるため、登場してきたものかもしれません。松山巌氏が「英雄生存説と日本起源異論説」(「ユリイカ」1989年9月)で指摘しているように、太平洋戦争以前の日本人が、大陸に進出することを勢いづかせるためにも都合よく持ち出されています。

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2006年01月31日

義経北行伝説(11)

美容院義経、中国大陸へ!(2)

義経が中国へ渡ったという伝説では、大きく分けて、

1義経は金に逃れ、義経の子が金の将軍になった。

2清王朝の先祖は義経で、清という国号も清和源氏からとった。

3モンゴル帝国の創始者ジンギスカン(ジンギスハン)となった。

という三説です。

まず1ですが、は西暦で言うと、1115年から1234年に存在した中国の国号で、遼の国を滅ぼし、宋を攻めましたが、に滅ぼされました。
加藤謙斎が、『鎌倉実記』(1717<享保2>年刊)に、『金史別本』という書を根拠として、1のことを書いています。しかし、漢学者篠崎東海が、この『金史別本』は本物に見せかけた偽の書であると見破りました。このことは、東海の著書『東海談』(1740<元文5>年)に述べられています。

2ですが、は、西暦で言うと、1616年から1912年まで存在した中国の王朝。森長見という人が『国学忘貝』(1783<天明3>年)という書の中で、
で編纂された『図書集成』の中の『図書輯勘(しゅうかん)』という書の、帝の序文に、『自らの姓は源氏で、義経の子孫であり、その先祖は清和天皇より出たので、清国と名づけた』とある」と書きました。これも、オランダ医学を学んだ医者の桂川中良(かつらがわちゅうりょう)が、「『図書集成』を見たが、その中に『図書輯勘』という書はなかった」と、自分の著書『桂林漫録』(1800<寛政12>年)で述べ、『国学忘貝』の説を否定しています。

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2006年01月30日

義経北行伝説(10)

美容院義経、中国大陸へ!(1)

義経が、北海道だけでなく、さらに中国大陸へ渡ったという説も、まことしやかに語られ始まります。

新井白石安積澹泊の往復書簡『新安手簡(しんあんしゅかん)』の中で、寛永年間(1624〜44)に韃靼(だったん)に漂着し、帰ってきた越前(現在の福井県)の人の話として、義経が大陸へ渡った説が紹介されています。

文学作品では、福内鬼外(平賀源内)の『源氏大草子』(1770・明和7年)に、

猶又韃靼へ押し渡り、切靡(きりなび)けんとの御催

とあるものが早いです。「韃靼」は、モンゴル系部族の一つ。
今度はこの「韃靼」について考えてみようと思います。

dattann.jpg
【北海道産 韃靼そば茶】
※ちょっとずれてしまいますがこんなものもあるということで♪


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2006年01月29日

義経北行伝説(9)

ペン義経は利用された!?

もう一つは、北海道を中心としたことですが、江戸時代以降、その時々で、先住民であるアイヌ民族に対する同化政策の一環として、アイヌ英雄義経とが同一視されていったという経緯があります。先述した、寛政十一年に、近藤重蔵らが義経像を平取に安置させたことの背景にも(もしそれが事実なら)、和人がアイヌ人を支配する際の理論的根拠として、義経が海を渡って彼らの英雄となったという伝説を利用しようとしたことが考えされます。

まずは当時の日本の中央地域では、義経が北海道に渡ったという伝説ができ、その後、それが北海道地方に「輸入」されます。その地である程度広まると逆に中央で「北海道ではこのように語られている」と言い伝えられるようになる。そのような繰り返しの中で、この伝説が広く定着していったのかもしれません。

江戸時代には、1669(寛文9)年に静内を拠点として起きたシャクシャインの戦いなど、中央の人々が北海道に関心を持つ機会が何度かありました。そのたびに、大きく振り子が動くように、上記の義経渡海伝説形成の往復運動が行われていったと想像されます。

英国人宣教師ジョン・バチラーの『アイヌの伝承と民俗』(青土社・1995年)でも指摘されているように、アイヌ人の側が喜んで義経伝説を受け入れたのではなく、北海道への移住を進める和人側が。一方的に押し付けたものだったのでしょう。

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2006年01月28日

義経北行伝説(8)

カメラ伝説のつくられる背景とは?


義経が蝦夷ヶ島へ渡ったという伝説の背景には、どのような事情があったのか東北と北海道に分けて考えてみようと思います。

東北地方での義経が人気は結構根強いものがあって、おそらく中央に対抗して、東北のすばらしさを主張する時の象徴的存在でもあったでしょう。東北の地芝居における義経の圧倒的な人気の高さは、その代表的なものでしょう。

昔から東北地方では、地芝居の中に、判官義経が登場しないとおさまらないという風習がありました。たとえば、『忠臣蔵』や『菅原伝授手習鑑』のような、義経とはまったく無関係な狂言の最中でも、一時、芝居の進行を止めて、御大将の装束を美々しく着飾った判官が花道から舞台に登場し、客席に向かって大見得を切り、

かかるところへ義経公、ひと間のうちより出で給い、さしたる用事もあらざれば、ふたたび奥へと入り給う

という床の義太夫で退場するというようなことが、比較的最近まで実際に行われていたと言われています(戸板康二「役者の田舎わたらい」より)。
必然性がないにもかかわらず、とにかく義経を登場させるわけです。

東北地方には奥浄瑠璃というものが伝承されていました。戦国時代から江戸初期にかけて、義経の一代記を扱った奥浄瑠璃を語りながら、東北地方を歩いた人たちがいました。彼らの足跡が後年になって、義経自身の落ち延びた経路とされた可能性が有ります。

思うに、東北には、中央である京都や江戸とは異なった、神秘的で力強い風土があって、その力強さが義経伝説の形勢・定着に寄与しているのではないかと・・・。
関敬吾『日本昔話大成』(角川書店)では、同じような話を取り扱った民話でも、東北地方のそれには独特な工夫が施されていて、とりわけおもしろいです。柳田国男の『遠野物語』にしばしば注目が集まるのも、同様の魅力による物かもしれません。東北という風土が持つ、強い力について、まずは注目しておきます♪


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2006年01月27日

義経北行伝説(7)

本蝦夷渡り関連の文学作品

関連した文学作品には以下のようなものが有ります。

義経が蝦夷ヶ島へ行くということなら、すでに、室町時代に成立したとされる御伽草子の「御曹司島渡」があります。
しかしこれは、蝦夷ヶ島に渡った義経が、天女の手引きで兵法の巻物を学び、その兵法によって、世の中は源氏の時代となったという話なので、義経が生きのびて渡ったという事とは違います。

義経が、平泉で死なずに蝦夷ヶ島へ渡ったとする江戸時代の作品例は極めて多いです。最も古いものの一つである、近松門左衛門の「源義経将棋経」(1711年・正徳元年以前)の中では、義経高館から63869弁慶とともに脱出して蝦夷ヶ島へと渡り、恩愛によって、広く蝦夷bの人々の心をつかんだとなっています。ところが、近松より約百五十年後の『義経蝦夷勲功記』(永楽舎一水箸、1857<安政4>年刊)では、義経は蝦夷を力で征服した者というイメージが強まっています。

義経像も変化していると言えます。

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2006年01月26日

義経北行伝説(6)

野球義経伝説の数々(2)

北海道を見てみます。

日高地方平取にある義経神社は、1799(寛政11)年に幕府蝦夷地調査隊の近藤重蔵らがこの地を訪れて、義経像を寄進したのが始まりとされていますが、これについては異説も多く定かではありません。
yositunejinjya.jpg
【義経神社】

渡島地方知内の矢越岬には、義経が魔神を矢で射たという伝説が有ります。
檜山地方の乙部岳の別称は九朗岳で、義経の名にちなんでいます。
十勝地方本別には、義経の居館や63869弁慶らの住居があったという伝承があります。
胆振地方壮瞥(そうべつ)には、弁慶温泉、義経湯がありました。
後志(しりべし)地方岩内の雷電岬は刀懸岬とも称されていて、岬の先端に63869弁慶が刀を掛けたという伝説のある刀掛岩があります。寿都(すっつ)にも、弁慶岬という名の岬が有ります。

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【弁慶岬の弁慶像】
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2006年01月25日

義経北行伝説(5)

野球義経伝説の数々(1)

東北から北海道にかけては、義経の名の付いている寺社がいくつかあります。また、義経の遺品も伝えられています。

三陸沿岸にある鵜鳥神社(岩手県下閉伊郡普代村)は、平泉から脱出した義経が、この地で金色の鵜鳥に祈念したところ、ウガ草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)と玉依姫(たまよりひめ・神武天皇の両親)、海神(わたつみのかみ)の三神が現れたとの伝承を持ちます。
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【鵜鳥神社】


また青森県八戸のおがみ神社は、義経が八戸にまでやって来た事が記されていると言う「由来記」を所蔵しています。
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【おがみ神社】


津軽半島の先端、三厩(みんまや)には義経寺(ぎけいじ)があり、義経はここから北海道へ渡ったという伝説があります。激しい風波が止むように観音に祈ったところ、白髪の老人から、海岸の洞窟に三頭の龍馬がいると教えられ、それに乗って義経は北海道へ渡ることが出来ました。その際、義経が海辺の岩に安置した一寸(約三センチ)の観音像が、義経寺の本尊になったといわれています。


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2006年01月24日

義経北行伝説(4)

新月義経蝦夷入り伝説の発祥

義経伝説の物語は、以上のように東北・北海道・満州・モンゴルそれぞれ別説が一つにつながったものです。義経高館で討たれた当時から生存説の風聞はありましたが、蝦夷地入りの話が語られたのは1670(寛文10)年、林春斎が編纂した歴史書『本朝通鑑』が初めてでした。寛文期(1661〜1672)に蝦夷地で漂流民とシャクシャインとの蜂起という二つの大きな事件が起こり、このことが中央へと伝えられ、蝦夷地への興味・感心を呼んだのは疑いないでしょう。
この頃から蝦夷地に関する書物が出始め、『蝦夷島漂着記』『蝦夷島漂着』にはいろいろな蝦夷地の情報が記されるなかに、蝦夷地で義経を崇拝していることが見えます。

この伝説は1717(享保2)年編纂の『鎌倉実記』では、ついに満州に渡ってしまい、維新を経て明治時代に入ると、とうとうモンゴルで成吉思汗になってしまいます。義経信仰が時代を超越した証でしょう。

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2006年01月23日

義経北行伝説(3)

ピラトウルでの暮らし

義経が蝦夷ヶ島(北海道)で最初に到着したのはマトマイ(松前町)でした。名もない小山に番所を置き、島の情報を集め、到着の証として「義経山(ぎけいざん)」と刻んだ石碑を置きました。数日間、周囲の探索を続けましたが、危険な様子がないことがわかると、義経はピラトウル(平取町)を目指して再び旅立ちました。
松前から陸地沿いの航路をとり。函館を経由して恵山岬を回り、ウシヨロ(伊達市)、ぺケシラウオイ(白老町)、シノタイ、ハイ(ともに門別町)に寄って飲水を補給しながら、ビポク(新冠町)に上陸し、そこから陸路をピラトウルへ向かいました。


ピラトウルではコタン(集落)の首長ラムアンに迎えられ、義経は当地で三年余りを過ごしました。この間に本州から持ってきた稗や粟の種を蒔いて、アイヌたちに農耕を教え、さらに文字や武芸なども教えたりして、「ハンガン様」と親しまれました。そのうちに首長の姪オペリとも恋仲になってしまいます。

首長ラムアンは「蝦夷ヶ島全体を治めてほしい」と懇願しましたが、義経はさらなる北の大国めざして、ピラトウルを去り、シュプキ(寿都町)から西海岸伝いにソーヤ(稚内市)に向かいました。ここから樺太に渡り、沿海州、満州を経由してモンゴルへ行き、成吉思汗(ジンギスカン)と名を改め、広大な蒙古帝国を建国することになります。


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2006年01月22日

義経北行伝説(2)

蝦夷ヶ島へ!

平泉を逃れた義経一行は、宮古の黒森山(岩手県宮古市)に入って、ダッシュ(走り出すさま)行信の菩提を弔いながら般若経の写経に専念し、三年余りを過ごしました。しかし、ここもついに63904鎌倉の追手が追ってきました。

義経一行は九戸郡久慈(くのへぐんくじ・岩手県久慈市)で63732畠山重忠の軍と遭遇しますが、情深い63732重忠はわざと弓をはずす空矢を放って見逃しました。さらに八戸高館(青森県八戸市)に至りました。義経は津軽十三湊(つがるとさみなと・青森県市浦村)の領主藤原秀栄秀衡の弟)に使者を送り、秀衡の遺志を伝え蝦夷への渡海を願いましたが、「時を待て」との返事があり、しばらく八戸にとどまりました。

この間に京都からずっと一緒だった北の方がなくなったとも言われています。1194(建久5)年、秀栄死後、家督を継いだ秀元が遺志を継いで渡海を援助。
翌年春、義経一行は龍飛岬(青森県三厩村)から出航し、本州を後にしました。


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2006年01月21日

義経北行伝説(1)

ダッシュ(走り出すさま)杉目太郎行信

義経頼朝に追われて奥州へ落ち延びた際、再会を約束していた人物がいました。ダッシュ(走り出すさま)杉目太郎行信です。
行信は義経が奥州の藤原秀衡のもとで青年期を過ごした時、日々の鍛錬を共に過ごした仲で、兄頼朝が挙兵して参陣する際に同行を願いました。しかし、義経は、
「この地にとどまり指示を待て」
と言って別れました。あれから十年近くの歳月が過ぎ、ダッシュ(走り出すさま)杉目は奥州の出城で頼朝の侵攻に備えました。義経の奥州入りを聞いたダッシュ(走り出すさま)行信は出迎えに上がりましたが、ここで初めてダッシュ(走り出すさま)行信を見た63869弁慶をはじめとする郎党たちは驚きました。「世に瓜二つ」という諺があるように、ダッシュ(走り出すさま)行信義経は容姿がそっくりだったからです。

やがて秀衡が死去し、63904鎌倉から義経追討の院宣が、家督を継いだ泰衡のもとに届くと、義経をめぐって泰衡兄弟が対立。

ある日、泰衡義経を呼び、
「蝦夷ヶ島(北海道)へ落ち延びよ。さもないと討つ」と打ち明けました。義経泰衡の腹をの中を悟り、高館退去を決意しました。このときダッシュ(走り出すさま)行信を断り、

館に人がいなければ、逃亡したことが明らか

と当地に留まる旨を語り、義経の鎧、兜などを形見に所望しました。

こうして泰衡高館襲撃の二日前に平泉を去り、身代わりとなったダッシュ(走り出すさま)行信は自害して果てました。


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