さらに1200(正治2)年12月には、
頼家が政所に命じて諸国の田文などを召し出して計算させた上に、治承・養和以後に与えられた新恩の地で一人当たり五百町を過ぎる者は、その超過分を没収して所領の無い
頼家の近仕らに与えるよう
大江広元に命じました。ですがこれには宿老たちが大いに慌てて、
三善康信が諌めたため、とりあえず来春まで延期になったとあります。
「
人の愁い、世の謗り、何事かこれにしかんや」と評されていますが、これは御家人支配の基礎となる恩給制の大前提にかかわる問題で、しかも対象が
頼朝による恩給地であるだけに、
頼朝時代に地歩を築いてきた宿老たちにとって絶対に認めることのできない決定でした。結果的には延期され、おそらくその後うやむやになってしまったのだと思いますが、新たに給与されるはずだったのが
頼家の近仕たちであることは、既述した直断の制限という一件と重なります。したがって、もしこれが事実だとするれば、むしろこの事件の結果、
頼家の直断が停止されたと考えた方が自然で、『
吾妻鏡』に記述の方に疑問が残ります。
以後、
頼家の将軍としての不適格性を物語る挿話を『
吾妻鏡』の中に拾えば、ほとんどきりがない・・といった感じです。特に1201(建仁元)年のころから、そうした挿話が目立ってきます。
例えば、鶴岡の臨時祭・放生会などに参宮しなかったり、またあるいは随兵もなく
八葉の車に乗って出かけるという新儀で古老の眉をひそめさせたという事件など・・・。また、
頼家がことのほか好んだのは狩猟と蹴鞠であったようですが、これについてもその行き過ぎた熱中ぶりが記されています。犬を飼って、狩猟を好む側近たちに毎日交代で餌を与えさせたとか、連日、政務をなげうって御所で蹴鞠に耽っていたといった類です。特に蹴鞠にまつわって、母の
政子に諌められたという話が伝わっています。
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