2006年05月07日

畠山氏の滅亡

畠山氏は武蔵国秩父地方の豪族で、63732重忠の代に頼朝に従って大いに武功を立てたのは既述の通りです。63732重忠に対する頼朝の信任はひときわ厚く、死に臨んで頼朝からとくに遺児頼家の行末を託されたほどでした。


北条氏との関係も浅くはなく、63732重忠の妻は63699北条時政の娘、つまり63919政子の姉妹でした。従って畠山氏は御家人中有数の名族といって良いでしょう。

そんな名族畠山氏をして滅亡への道を歩ませることになった原因は、いたって些細なことから始まりました。
63732重忠の子重保が、酒宴の席で、63699時政の後妻牧ノ方の婿である平賀朝雅を激しく罵りました。酒席での口論はよくあることですが、そのよくある口論が結果的に畠山氏を滅亡と導きました。


朝雅は、さっそく牧ノ方へ告げ口します。牧ノ方に頭があがらない63699時政は、それを知って重保誅戮を決断。・・・というのが表向きの筋書きで、実を言うと北条氏専権を狙う63699時政にとって、御家人の間に信望のある畠山氏は、前々から目障りで仕方のない存在でした。理由が些細であろうとなかろうと、いずれは適当な口実のもとに畠山氏を滅ぼすつもりでいた63699時政が、このチャンスを見逃すはずはありません。

畠山父子の最期は、既述(63732畠山重忠)の通りです。
鎌倉幕府創業の功臣畠山氏一族はここに全滅しました。


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2006年05月04日

頼家の失政と廃位〜景時追放(8)

頼朝の死後、63814景時の威勢が失われたのは、63814景時の権力が将軍からの直接的な権力委譲に基づくものであって、頼家への代替わりよって根本的な将軍権力の衰退がもたらされたことが、即時に63814景時の権力の弱化を意味したからでしょう。したがって将軍権力の強化という一点に関しては、63814景時頼家とは協力しあわなければならない立場にあったにもかかわらず、頼家がその重要性を理解していなかったことに、63814景時の悲劇の真の原因があったというべきでしょう。


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【梶原景時館跡】〜神奈川県高座郡寒川町

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2006年05月03日

頼家の失政と廃位〜景時追放(7)

慈円は『愚管抄』(巻第六)で頼家が暗殺された事件に触れた中で、「正治元年ノコロ、・・・・63814景時国ヲ出テ京ノ方ヘノボリケル道二テウタレニケリ。子供一人ダモナク、鎌倉ノ本体ノ武士カチハラ皆ウセニケリ。コレヲバ頼家ガ不覚二人思ヒタリニケル二、ハタシテ今日カカル事(暗殺)出キニケリ」と記し、梶原一族の滅亡を見過ごしたことが、頼家自らの破滅につながったという見方をとっています。

この見方は、‘鎌倉ノ本体ノ武士’という言葉と相俟って、63814景時の役割に対する慈円の高い評価を物語っていますが、慈円には63814景時の滅亡が頼家実朝の死、また北条氏による幕府の実権掌握への途を準備するものと見えたのかもしれません。

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2006年05月02日

頼家の失政と廃位〜景時追放(6)

前述の『保暦間記』の記事を見る限り、恐らく頼家から見放された63814景時が、代わりに源氏の血を引く人物を擁立しようとしたことは事実なようです。そして擁立する以上、何らかの正統性の保証を求める意味で京都朝廷との連絡を持とうとすることは大いに考えられます。

ですが、そうした謀叛事件の成否は別として、むしろ問題なのは、63814景時という謀臣を見捨てた頼家が、その結果、自分の権力の基盤をいっそう弱体化させ、ひいては強制的な将軍廃職と暗殺という悲劇への途を歩むこととなった点であり、この時期の政治史の一つの分岐点ともなった事件でありました。

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2006年05月01日

頼家の失政と廃位〜景時追放(5)

保暦間記』は、頼朝の時代には63814景時が讒言をしても頼朝ガ心得て、63814景時の言を取捨していましたが、頼家は若くて無思慮なため、63814景時の言をそのまま容れたので被害を受けるものが多く、皆が連判をして、63814景時を追い出したものである、ところが63814景時は、その後も源家に心を寄せていたので、頼家に代わって武田有義を将軍に取り立てて天下を覆そうと企てたのだと説明しています。ここでは63814景時よりも、63814景時からの進言を受ける頼朝頼家との器量の差に事件の原因を求めていることになります。

一方『玉葉』は、63814景時が他の武士達に嫉み悪まれるあまり、逆に武士達が実朝を擁立しようと準備していると頼家に讒言した、ところが頼家が他の武士らに尋ねて、63814景時と対決させたところ、63814景時は弁論できずに虚偽が現れてしまい、その結果、63814景時一族は63904鎌倉を追われたのだと伝えています。


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2006年04月30日

頼家の失政と廃位〜景時追放(4)

翌1200年正月20日、頼朝の一周忌があけた直後に、63814景時が一族をともなって一宮の本拠を密かに脱出したという飛報が届きました。この63814景時の行動は謀叛を企てて京都へ赴くのだということになって、追討軍が派遣されましたが、その前に駿河国清見関の辺りを通ろうとした63814景時の一行と近隣の武士達との間で合戦が行われ、63814景時景季景高・景茂・景国・景宗・景則・景連ら、一族のほとんどが討ち取られてしまいました。

この事件に連座して、加藤次景廉・能勢高重らが処罰されますが、その後、さらに広範囲におよぶ事件であったことが判明。甲斐国の伊沢信光が参上して、兄の武田有義63814景時との約束で京都に赴こうとしているという噂を聞き、確かめる為に訪ねましたが、すでに逃亡していて、後には、有義を大将軍に立て、朝廷の許可を得て九州の武士たちを誘う為に京都へ向かうという63814景時の手紙が残っていたと報告しました。そして頼家のもとに仕えていた勝木則宗63814景時の仲間として逮捕されましたが、則宗によると、九州の支配を命じる院宣をもらうので、早く京都にくるよう九州の同族たちに触れるよう、63814景時からいわれて九州へ手紙を書きましたが、63814景時のいうことが本当かどうかは知らない、と言うのでした。

63814景時追放のきっかけや、その後の追討の手際よさなどを見ると、どうも『吾妻鏡』の記事が真実か否か疑問ですが、いずれにせよ、なぜ63814景時がこのような形で追い込まれることになったかは謎です。

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2006年04月29日

頼家の失政と廃位〜景時追放(3)

そして28日、有力御家人たちが鶴岡の神前で一同で63814景時に対決することを誓って、中原仲業が自ら作成した訴状を読み上げました。この状に著判を加えた者は66人に達しました。訴状は63723和田義盛・三浦義村らが63899大江広元に渡し、頼家に披露するように要請しましたが、63899広元頼朝に対する63814景時の忠節を考慮して躊躇し手許に留めていたので、11月10日に63723義盛63899広元に面会して早く披露するよう重ねて強請したため、12日に63899広元頼家に訴状を提出しました。

訴状を見た頼家は、そのまま63814景時に渡して是非を陳ずるように命じましたが、63814景時は陳弁しないまま翌13日に子息・親類らを連れて相模国一宮(現在の神奈川県寒川町)の所領に引き下がってしまいました。その後、12月9日に一旦、63814景時63904鎌倉に戻りましたが、18日、再び63904鎌倉から追放されて一宮に赴き、住宅は解体されて永福(ようふく)寺の僧坊に寄付され、播磨国守護には小山朝政が任命されるという措置がとられました。ここに至って63814景時は最終的に失脚したことになります。

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2006年04月28日

頼家の失政と廃位〜景時追放(2)

その後、8月16日の鶴岡八幡宮の恒例神事に際して、63814景時63723和田義盛らと共に宮寺の警固に当たり、9月17日には63899大江広元と共に、京都大番役を怠らないよう諸国守護に催促を加える件を奉行しているので、この時点まで63814景時の地位に際立った変化は無かったようです。

ですが、10月末になって騒動が起きます。

10月25日に御所で結城朝光が頼朝の死を悼んで、忠臣は二君に仕えずという言葉を口にしたところ、63814景時がそれを頼家に対する不信の表明であるかのように頼家に注進したため、朝光が誅殺されそうだという話を、27日になって女房阿波局が朝光本人に伝えました。朝光がその件を三浦義村に相談すると、義村は「およそ文治以降、景時の讒により命をおとして職を失うの輩、あげて計うべからず」と述べ、放置できない問題というので、他の宿老たちと協議して63814景時と対決することに決めました。

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2006年04月27日

頼家の失政と廃位〜景時追放(1)

頼朝の側近押として多方面に活躍していた63814景時は、頼朝の死によって活動の場を狭められ、果ては政権の中枢から追放されて、頼朝の一周忌明け直後に、孤立無援の形で一族もろとも追滅されてしまいました。頼朝死後、滅亡に至るまで63814景時の記事を『吾妻鏡』にたどって見てみます。

まず1199(正治元)年4月12日、諸種の訴訟について頼家の直断を停止し、今後は63699北条時政・義時以下、有力御家人の合議によると決定された際には、63814景時もこの合議の一員として名が挙げられています。ところが20日に63814景時は中原仲業らと共に奉行として政所書下を発していますが、この書下は頼家の近臣五人の鎌倉中における自由な振る舞いを許し、彼らへの敵対行為を禁じ、許可なしに他の人間が頼家の御前へ参昇することを禁じたものです。内容的には、12日の書下は、むしろ頼家の側近勢力の権限を強化する意味合いがあります。そしてこの短期間に抗争の中で両方に関わっている点で、、63814景時の態度は曖昧で不明確なように見えます。あるいは、63814景時自信が、いずれの側に就くべきか迷っていた結果かもしれません。

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2006年04月26日

頼家の失政と廃位〜頼家の悲劇(3)

一見愚行を繰り返しているように見えた頼家の行動を貫いているのは、将軍に権力を集中させ、御家人連合の長から自立したものとして将軍権力を確立しようとする試みだったと言えるかもしれません。それは東国政権の首長から、さらに全国政権へ展開しようとすれば、東国御家人達の意向を抑える必要があることから、全国政権への展開を視野に入れれば直面せざるを得ない問題で、すでに頼朝の時代に提起されていた課題でもありました。またその解決に当たっていたのが63814梶原景時でした。しかし、頼朝にとっても、自らの出発点であった東国御家人たちの掣肘を完全に離れることは一大難事であって、妻63919政子やその実家の北条氏を始め、有力御家人はことごとく反対の立場に立ったと推測されるので、まして若年の頼家が同じ事を企てても一蹴されてしうまうのは致し方が無い・・・と思います。

頼家の武人としての力量は優れたものだったと言われていますが、そうした肉体的力量に対する自信が、そのまま政治的力量への過信につながったことが、頼家の悲劇を生んだのかもしれません。ですが、頼家が将軍への権力集中化を意図したとすれば、頼朝以来の将軍側近であった63814梶原景時を見殺しにしてしまったことは大きな誤りだったと思います。

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2006年04月25日

頼家の失政と廃位〜頼家の悲劇(2)

放蕩・遊興に耽ったという部分を除いて、頼家の行動を理解すれば、要件は2、3の点に絞られるかと思います。

頼家と愚行を共にした側近たちの登用というのは、反対勢力からの見方で、将軍権力に直属する軍事力の養成というのが、頼家の狙いだったのかもしれません。この側近達の話に関しては、『吾妻鏡』で頼家の側近として処罰されてたことになっている中野五郎能成が、別の文書によると比企氏の滅亡直後に63699北条時政によって所領安堵を受けていること、また63699北条時政の子時房頼家の側近として行動している事など、『吾妻鏡』の既述には疑問が残る部分もあります。

これらに関連して、側近勢に鎌倉市中で行動の自由を保障する頼家の命令を奉じたのが63814景時であたことは見逃せません。そしてまた、直属の者達を養成するためには経済的な基盤の整備が不可欠であることを考慮すると、所領の再配分で側近に所領を与えようとした頼家の意図も理解できるかもです♪

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2006年04月23日

頼家の失政と廃位〜頼家の悲劇(1)

頼家の最後に関して『吾妻鏡』は詳細を伝えていませんし、一幡の殺された時期、もしくは頼家の死のありさまなどについても、必ずしも記録は一致していません。ですが記録や物語類によると、病死ではなく殺されたものだということがほぼ明らかです。『愚管抄』は刺客が頼家を討ちあぐねて、首に紐を巻き、陰のうを取って殺したという凄惨な場面を紹介していますし、『増鏡』は、病気治療のため湯治に出かけた頼家が修善寺で討たれましたが、これは実朝義時とが同心して頼家を謀ったのだと記しています。

既述した以上が『吾妻鏡』の語る将軍頼家滅亡の物語です。ですがこの物語を単に頼家の個人的な資質の欠如と、それによる失政の物語として受け取るだけでは不十分で、その背後に潜む政治的な路線の対立を読み解く必要があるかと思います。 そうした対立の一端を担うのは今でもなく頼家で、他方が北条氏・三浦氏などの有力御家人を中心とする幕府開創以来の東国武士達です。

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2006年04月19日

頼家の失政と廃位〜敬神の念の欠如(6)

以上のように頼家が神意を失って没落への道を歩み始めているところへ、足下を揺るがせるような形で起きたのが阿野全成の謀叛事件です。

全成頼朝の異母弟にあたりますが、1203年5月、突然、謀叛の疑いがあるということで武田信光に生捕りにされ、宇都宮朝業(ともなり)に預けられます。そして常陸国へ配流、ついで八田知家によって下野国で誅殺されてしまいます。また7月には、京都にいた全成の子息頼全(らいぜん)も、全成の縁類として在京御家人によって東山延年寺で討たれました。この事件は史料が乏しく、果たして本当に全成が謀叛を企てたのか否かもはっきりしていません。

一方、このような経過で重病に陥った頼家は、1203年8月27日、関西三十八カ国の地頭職を弟の千幡実朝)に、関東二十八カ国の地頭職と惣守護職を息子の一幡(いちまん)に譲ることとなりました。幕府の基盤となる東国については、かろうじて頼家の支配が一幡に引き継がれる形になったと言えます。一幡の外祖父である比企能員は、この処置に関して、実朝とそれを擁立する北条氏に対して不満を抱き、頼家を巻き込んで北条氏追討の謀議を巡らします。ですが事前に露見し、9月2日、能員は仏像供養にかこつけて63699北条時政に招き寄せられ、その場で誅殺されました(比企の乱)。残る一族は小御所と称する一幡の御所に立て篭もって63919政子の命で発せられた追討軍を迎え、しばらく防戦の後、館に火を放って一幡もろともに滅亡したのでした。

その後、病気が持ち直した頼家は、9月7日、63699時政を討とうとして密かに63723和田義盛仁田忠常らを召集しますが、これも露顕して失敗。病気の上、家門を治めることについて、その力量が危ぶまれるということで、63919政子の命によって、にわかに剃髪・出家することとなります。そして10日に千幡が将軍に立てられる一方、頼家は伊豆修善寺に送られ、翌1204(建仁4=元久元)年7月18日そのまま世を去りました。

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2006年04月18日

頼家の失政と廃位〜敬神の念の欠如(5)

さらに前述の頼家一行の行状に関する話には、すでに頼家の幼少時にまで遡る伏線があったようです。

頼家がはじめてその武勇を示したのは1193(建久4)年5月に頼朝が富士の裾野で催した大規模な巻狩で、鹿を射止めた時であって、頼朝が過剰なほどにこのことを喜んだのは、頼家が武家の後継者として神意に叶うものであることが、それによって示されたからだという説があります。この時、やはり猪を仕留めるという抜群の武勇を示したのが仁田忠常であり、その二人が共に非業の死を遂げるということは、両者の死もまた神の意志であることを、結果として示していると言えます。

祭祀は将軍にとって重要な任務でした。頼家に比べると、実朝は鶴岡をはじめとする神事に関しては勤勉であったようですし、実朝の死後は京都から下った将軍頼経でなく、頼家の血を引く竹御所が分掌する形で祭祀を受け継いでいることは、63904鎌倉の祭祀は源氏の人間が勤めるのが本来の姿であったことを示しているのかもしれません。


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2006年04月17日

頼家の失政と廃位〜敬神の念の欠如(4)

前述の二つの事件で頼家に命を受けた和田胤長・仁田忠常らも、胤長は後の和田合戦の張本人として配流先で斬られ、忠常は比企氏の乱に絡んで不可思議な経緯の中で討たれるという形で、共に非業の死を遂げています。これらも『吾妻鏡』は明確に記さないまでも神の祟りとして捉えたほうがいいかもしれません。

ここに物語られた神は、いかにも東国的な自然神の姿で、自然に抱擁された生活態度と結びついた神らしいです。『吾妻鏡』には、狩猟のはじめに武士達が矢口祭という山の神祭を行った話なども載っていますが、東国の武士達の中に残る、そうした自然への畏敬を持たない頼家には、そもそも東国武士の棟梁になる資格がないということを、これらの話は語っているのかもしれません。


その意味では、説話の形で東国御家人たちの価値が、そのまま表現されていることが注目されますし、それは同時に『吾妻鏡』の根底を流れる価値観でもあったといえます。


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2006年04月16日

頼家の失政と廃位〜敬神の念の欠如(3)

吾妻鏡』に記されている前述の二つの記事ですが、どちらもなんとなく似たような内容です。

一つは六月一日条の、伊東崎と呼ばれる山中の大洞を探るため和田胤長(たねなが)を中に使わしたところ、行程数十里もあって、暗黒で、一匹の大蛇がいて胤長を呑み込もうとしたので剣を抜いて斬り殺したというお話。もう一つは三・四日条に見られる、有名な富士山麓の人穴を究明するため、仁田忠常(にったただつね)主従に重宝である頼家の剣を与えて潜らせたところ、一日一夜を経て忠常が帰ってきて語ると、中に大河があり、川向こうに不思議な印を見たため主従四人はたちまち死亡し、忠常だけは霊の訓(さと)しによって与えられた剣を川に投げ入れることで命を全うして帰る事ができたという話です。

後者の記事には、古老の言として、ここは浅間大菩薩(せんげんだいぼさつ)の御所在であり、昔からこのかた、あえてその所を見ては成らないとされてきており、こうした行為はもっとも恐るべきことだという評言を載せていますが、これは神罰による頼家の滅亡を語る伏線で、単なる奇瑞譚ではないようです。それを側面から補足するものとして、この事件以降、6月30日、7月4日・9日と続けて鶴岡に怪異が見られたという記事が載せられています。

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2006年04月15日

頼家の失政と廃位〜敬神の念の欠如(2)

以上のようない因果を典型的に物語るのは、頼家が地頭職・惣守護職を譲る直接のきっかけとなった1203(建仁3)年7月20日に始まる大病についての記述です。


頼家がにわかに発病し、心身の苦しみ方がただごとではなかったので、占いをしたところ「霊神の祟り」ということになったと『吾妻鏡』には記されています。『吾妻鏡』はこの霊神が何を指すか明記されていませんが、それと結びつくのは、直前の5月末から伊豆の狩場に出かけた頼家一行の行状に関する二つの記事です。


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2006年04月14日

頼家の失政と廃位〜敬神の念の欠如(1)

頼家の不品行を語る挿話には、ある共通性があるように思われます。

1取り巻きを引き連れて蹴鞠・狩猟・酒宴などの遊楽を好む。

2当然政務には熱心ではない。

3祭・神事を疎かにする。

(あくまでも個人的な見解ですが)上記のように挙げてみました。

このうち12は暗君に共通することとして、いつの時代でもよく言われる事柄ですが、3に関しては、それが頼家の悲劇に直結するものとして『吾妻鏡』に描かれているように見えました。

祭・神事を疎かにするということは、つまり頼家に敬神の念が欠如していると言うことです。
天変地異その他の異変や頼家の不調、巫女の予言など、不吉な変事の発生を予見させる記事が連々と載る一方、頼家の乱行がこれまた延々と述べ立てられる中で、『吾妻鏡』が示していることは、敬神を疎かにした‘天罰’として頼家が将軍職を追われ、命を失う結果になったのではないか・・・と思います。

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2006年04月13日

頼家の失政と廃位〜「人の愁い、世の謗り・・・」(5)

頼家の蹴鞠にまつわった話は二つほど伝わっています。

一つは、新田義重が死んで間もない1202年正月末、頼家が蹴鞠の会に出かけようとしたので、63919政子が義重は「源氏の遺老、武家の要須」であるから、そうした興遊は人々の謗りを招くから止めるようにと言い遣わし、頼家は当初これに逆らう気配でしたが、結局は中止したという話です。

二つ目は、同年六月、頼家御所での蹴鞠を見物するために出かけた63919政子が、頼家の傍らにいた壱岐判官知康の傍若無人の振る舞いを見て、知康義仲63905後白河法皇御所襲撃の原因を作り、義経にも同意をした人物で、頼朝の憤りも深く、官職から罷免して追放するよう朝廷に申請したという経緯があるにもかかわらず、それを忘れて頼家が寵愛するのは、頼朝の本意に背くものだといって不興を示したという話です。


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2006年04月12日

頼家の失政と廃位〜「人の愁い、世の謗り・・・」(4)

さらに1200(正治2)年12月には、頼家が政所に命じて諸国の田文などを召し出して計算させた上に、治承・養和以後に与えられた新恩の地で一人当たり五百町を過ぎる者は、その超過分を没収して所領の無い頼家の近仕らに与えるよう63899大江広元に命じました。ですがこれには宿老たちが大いに慌てて、三善康信が諌めたため、とりあえず来春まで延期になったとあります。
人の愁い、世の謗り、何事かこれにしかんや」と評されていますが、これは御家人支配の基礎となる恩給制の大前提にかかわる問題で、しかも対象が頼朝による恩給地であるだけに、頼朝時代に地歩を築いてきた宿老たちにとって絶対に認めることのできない決定でした。結果的には延期され、おそらくその後うやむやになってしまったのだと思いますが、新たに給与されるはずだったのが頼家の近仕たちであることは、既述した直断の制限という一件と重なります。したがって、もしこれが事実だとするれば、むしろこの事件の結果、頼家の直断が停止されたと考えた方が自然で、『吾妻鏡』に記述の方に疑問が残ります。

以後、頼家の将軍としての不適格性を物語る挿話を『吾妻鏡』の中に拾えば、ほとんどきりがない・・といった感じです。特に1201(建仁元)年のころから、そうした挿話が目立ってきます。

例えば、鶴岡の臨時祭・放生会などに参宮しなかったり、またあるいは随兵もなく八葉の車に乗って出かけるという新儀で古老の眉をひそめさせたという事件など・・・。また、頼家がことのほか好んだのは狩猟と蹴鞠であったようですが、これについてもその行き過ぎた熱中ぶりが記されています。犬を飼って、狩猟を好む側近たちに毎日交代で餌を与えさせたとか、連日、政務をなげうって御所で蹴鞠に耽っていたといった類です。特に蹴鞠にまつわって、母の63919政子に諌められたという話が伝わっています。

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2006年04月11日

頼家の失政と廃位〜「人の愁い、世の謗り・・・」(3)

前述した一件の要点は、単に頼家に直断を制限したのみではなく、「その外の輩」、つまり頼家の側近である、小笠原弥太郎・比企三郎・比企弥四郎・中野五郎・細野四郎・和田朝盛らが政務に口出しすることを止めることにあったと見ることができます。さらにその後、頼家安達景盛の妾を奪い、果ては景盛がそのことを恨んでいるという讒言によて、逆に景盛を討とうと企て、63919政子によって制止されるという、無道ぶりを露呈するような事件を起こします。


ですが実際には、全ての決定から排除されたわけではなかったようで、『吾妻鏡』の記事にはいささか疑問点が残ります。
たとえば『吾妻鏡』自体の中にも、1200(正治2)年の5月に頼家が陸奥新熊野社の社僧の坊領に関する訴訟を親裁したという記事と、6月に梶原景高の未亡人に所領を安堵したという記事が見られるからです。


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2006年04月10日

頼家の失政と廃位〜「人の愁い、世の謗り・・・」(2)

頼家が正式に征夷大将軍に任命されるのは1202(建仁2)年7月23日ですが、幕府の最高権力者としての地位は家督を継いだことで確定しているので、将軍職を襲職するのは頼家以外に考えられないので、これは言ってみれば追認とも言えるような措置です。

しかし、頼家の政治家としての前途は、早くから多難を予想させるものでした。
すでに頼家の家督継承直後の4月には、さまざまな人々の訴えを頼家が直に裁断することを停止して、63699北条時政北条義時63899大江広元三善康信・中原親能・63728三浦義澄・八田知家・63723和田義盛比企能員・安達蓮西・足立遠元・63814梶原景時・二階堂行政らが話し合って決定することとし、「その外の輩」が訴訟のことを執り行うことはできないと決められました。

頼朝の跡を継いでから、まだ日は浅く、頼家の為政者としての適否を論ずるにはいかにも早過ぎる印象があるので、この決定には唐突的な感じがします。ですが、これが単に頼家が弱年だったせいだとは考えられないし、他に、政権掌握を狙った北条氏以下の陰謀と即断するのも難しいです。


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2006年04月09日

頼家の失政と廃位〜「人の愁い、世の謗り・・・」(1)

頼朝の死によって、その後は長子の頼家が継ぐことになります。

頼家は1199(正治元)年正月20日付で左中将となり、ついで26日付で家督を継ぎました。数え18歳となります。この1、2月の頃、武士達が大勢京都に来て警戒態勢をとっていたようですが、これは頼朝の死と急な政権交代に乗じて不穏な動きが生まれるのを未然に防ごうとしたものでしょう。

事実、この時、一条能保・高能父子の郎等だった後藤基清・中原政経(まさつね)・小野義成の三人が、一条家の衰勢を憤って源通親の排訴を企て、襲撃を恐れた通親が院中に立て篭もるという三左衛門の変が起こります。三左衛門というのは張本の三人がともに左衛門尉だったためですが、この事件の真相は明らかになっていません。


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