源義仲(NHKでは小澤征悦が役)・・・
義賢の次男で武蔵国に生まれる。母は遊女小枝御前。幼名は
駒王丸。
祖父・
源為義と伯父・
源義朝が対立的関係になった時、為義派の父
義賢は甥の
源義平に討たれました。
幼い
義仲は
畠山重能、斎藤実盛らの助言で信濃(長野県)に逃れ、木曽谷の豪族・
中原兼遠の元で育ち、通称を「
木曽次郎」「
木曽義仲」と名乗りました。妻(若しくは愛妾)は兼遠の娘(
巴御前(NHKでは小池栄子が役))。
1180年(治承4)、
後白河法皇の皇子
以仁王が全国に令旨を発令し
新宮十郎行家がこの令旨をもって全国の源氏達に挙兵を促しました。それに
義仲も呼応し挙兵。1181年(治承5)、越後の城助茂(じょうすけもち)を千曲川
横田河原の戦いで撃破し、北陸道に進軍(頼朝とは合流せず)。自分の父・
義賢は
頼朝の兄・
義平によって殺害されているので両者の仲は不仲に。そこへもってきて
頼朝と仲違いした
新宮十郎行家や
志太義広が
義仲の元へ走った事で溝が深まり、
頼朝は
義仲追討の為十万余騎で信濃・善光寺へ進軍。これに対して
義仲は
今井兼平を使者に出し長男・義高を人質として鎌倉へ送りました。
頼朝の長女・大姫との政略的結婚でした。
後方の憂いが取り除かれた
義仲はその後京へ進軍。
1183年(寿永2年)五月、越中国・砺波山の倶利伽羅峠で
平維盛・平通盛率いる追討軍を撃破(
倶利伽羅峠の戦い)、さらに逃げ行く平氏を追撃(
篠原の戦い)、同年京都に進軍し平氏を敗走・都落ちさせました。
倶利伽羅峠の戦い・・・1183年(寿永2年)5月11日、
義仲軍約4万が、
平維盛、
通盛を将とした約10万の平家軍を撃破した戦い。倶利伽羅峠で野営中の平家軍を、数百頭の牛の角に松明(たいまつ)を結びつけ四方から太鼓、法螺、大声などを上げて源氏軍が襲い数多くの平家軍の死傷者で埋まったとされています。これは
火牛の計として有名です。
ですがこれには真偽疑わしいものがあり牛の角に松明をつけたりすると牛は興奮状態になって敵味方区別無く狂乱するのでむしろ尾や後ろ足にくくりつけたのではないか・・という説が有力視されています。
篠原の戦い・・・砺波(となみ)山を越えて加賀に入った
義仲は、平岡野(金沢市)に兵馬を止めて、陣様の整備をはかると共に、じっと平家の動静を見極めようとしました。
大半の兵を砺波山で失った
維盛らは、辛うじて囲みを破って後方に逃れ、河北潟の西端で海岸よりの宮越(金沢市金石)で、一応敗軍の集結にあたりました。海岸沿いに能登から退却してきた搦手の
盛俊らの軍も、ここで落ち合いました。
平知度(とものり)をはじめかなりの主だったものの姿はもう消えてしまっていましたが、とにかく
義仲軍の追撃を警戒しながらも、留まること十日余り。一応敗残兵をまとめえた
維盛らは、この地が守るに適しない地と見とって、5月25日、宮越の陣を引き払いました。南の安宅・篠原の線で
義仲軍の進撃を食い止めようとしたのです。
しかし、その兵力は『
源平盛衰記」によれば北国下向時の十万が三万騎に激減していたと言われています。しかもその大半は、無傷のものではなかったということです。
6月1日、十分に休養をとり整備しきった
義仲軍は、矢叫びの声もすさまじく、平家の屯する安宅・篠原の陣へ襲い掛かりました。
この地は、今江・木場・柴山と三つの潟が連なっていて、その三湖の水が梯川の下流に注いでいる中に包まれた、天然の要害です。攻撃側は糸口を見つけにくいですが、守る側にしてはまことに好都合の所でした。しかも戦いは昼間で、戦場は小起伏の砂丘と平原です。
ここで食い止めねば、一大決心のもとに全兵力を投入して北国へ下向した平家の運命は完全に没落することになります。さきの
倶利伽羅峠の恥辱を雪ぐだけではなく、文字通り絶体絶命の関頭に立たされたことを自覚した平軍は、死に物狂いでこの線を確保しようとしました。
しかし、
義仲軍には、この辺りの地理に精通している林・富樫をはじめ倉光・匹田・安江などの加賀武士団が加わっています。しかも、彼等は一ヶ月前とは違って、すぐる大勝によって勇気百倍な状態です。
義仲より先陣を命ぜられた林六郎光明は、かねてより勝手知ったる浅瀬を選んで一気に梯川を押渡り、敵の先鋒
平有国の陣に突入し、さんざんにこれを打ち破ったと長門本『
平家物語』にあります。
突破口を開いたと見るや、
義仲は全軍に進撃を命じました。
今井・
樋口・落合五郎兼行らの猛将が、わき目もふらずに安宅・篠原の陣営に切り込みました。戦いは凄惨を極めました。互いに名を惜しむ武士は、三百騎五百騎に手兵が、七騎六騎となるまで戦いました。平家の侍大将
武蔵三郎左衛門有国は、三百騎の郎党がみな討たれて自分ただ一騎になり、その馬も倒れたため徒歩立ちになって奮戦しましたが、ついに、7、8本の矢を全身に射込まれて、立ちながら死んでいったと言いいます。これは『
平家物語』の伝える所です。
同じく
高橋判官長綱も、引続く奮戦でまったく力尽き、わずか18歳の越中の若武者入善小太郎行重に首を討たれました。
備中の豪族
瀬尾太郎兼康は、平軍中にとどろいた豪のものでしたが、ついに加賀の土豪倉光三郎成澄(なりすみ)の手で生け捕りにされてしまいました。治承4年の
石橋山の合戦で
頼朝に弓引いた東国武士の中には、
頼朝が関東で覇をとなえるや故郷に留まることができず、京へ上って平家に加わる者がかなりいました。
俣野五郎景久・
斎藤別当実盛・
伊東九朗祐氏などはその代表的なものと言えます。彼等はあげてこの北国下向に従軍しておりましたが、華々しく戦っていずれも討死を遂げています。なかでも
斎藤別当実盛の最期は壮烈なものでした。かくて敗残兵の集結にしては平軍もよく戦いましたが、暮色がようやく戦場を覆う頃には、ついに壊滅し、平軍の姿は全く認めることができませんでした。
篠原の戦いで敗走する平氏の中で最後尾にいた
斎藤実盛が、たった一騎で
義仲軍に立ち向かいましたが
手塚太郎光盛に討ち取られ壮絶な死を遂げました。享年73歳。
実盛は
平宗盛から賜った大将用の赤地錦の直垂を着用し年老いた武士だとわからないように白髪を墨で黒く染め最後まで名を明かさずして討死しました。討ち取った首を池で洗い
実盛だと判明された時、命の恩人であった
実盛公の変わり果てた姿に
義仲は泣き崩れたと言われています。
斎藤実盛ゆかりの地として‘
首洗い池’(石川県加賀市手塚町)、
実盛誕生時にこの池の水を産湯(うぶゆ)に使ったという‘
実盛池’(福井県坂井郡丸岡町)があります。
斎藤実盛・・・越前河合斎藤氏の出身。その後、武蔵国長井に移り住み、
源為義・源義朝に従いました。
保元の乱、
平治の乱で活躍。
源義平が
義仲の父・
義賢を殺害し、
義仲をも殺害しようとした時、間に入って助命してくれた命の恩人的人物。
平治の乱後は、平家に仕えその豪勇さは一騎当千とまで言われました。
1183年(寿永2年)に源氏軍の
手塚太郎光盛により討死。

【篠原古戦場跡・実盛塚】

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