2005年03月25日

●源義仲●〜巴御前の消息〜

義経には静御前という妾がいたように義仲には水瓶座巴御前がいます。
『平家物語』では、色白で髪が長くて器量もよし。それでいて一騎当千の兵と書かれていますが、実態は炊事のために従軍した「飯を炊く女」であり御前という身分ではありません。

『源平盛衰記』(巻三十五)では・・・源頼朝の命で鎌倉へ下向した水瓶座は斬首される所を三日月和田義盛の請いにより助かりました。その後は、三日月和田義盛の側室となりパンチ朝比奈三郎義秀を出産。剛勇で名の知れたパンチ義秀が1213年(建暦3)のむかっ(怒り)和田合戦三日月義盛と共に討死すると越中石黒(富山県)の知人を頼って剃髪し尼となって91歳まで生きたとされています。

が『吾妻鏡』では、むかっ(怒り)和田合戦で敗れたパンチ義秀は当時38歳だったことにより年齢的に矛盾が生じます。実際は、義仲主従の最後を語る女として、全国の各地にその伝説が残っています。


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巴御前<矢先稲荷神社蔵>さんより
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2005年03月24日

●源義仲●〜義仲寺(ぎちゅうじ)〜

位置情報義仲寺・・・ 所在地は滋賀県大津市馬場。義仲の墓と俳人・松尾芭蕉の墓があり、他に木曽八幡社、巴地蔵堂、朝日堂、芭蕉の像が安置されている翁堂などがあります。

義仲討死後、一人の尼僧がこの地へやってきて義仲の供養を心をこめて行いました。その尼僧が水瓶座巴御前の後身であったとする言い伝えがこの地の残されています。
義仲寺は室町時代末期に近江の佐々木六角氏によって寺を再興され江戸時代(元禄期)に松尾芭蕉が境内の草庵へ幾度も滞在しました。その後、芭蕉は自らの遺言により為この地に埋葬されました。

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       義仲寺
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2005年03月24日

●源義仲●〜義仲尽き果てる〜

こうして敵方の軍を打ち破った義仲でしたが気が付けば自軍はたった五騎しかいませんでした。その中には女ながら男勝りの武勇で知られた水瓶座巴御前もいました。

ここで義仲は自害を決心し、最後まで女を連れていたとあれば後世の恥じと考え水瓶座巴御前に落ち延びるようすすめました。義仲が執拗に論するので致しがたく水瓶座巴御前は三十騎ばかりの敵陣に切り込んで東国へ落ちていきました。

そして義仲今井四郎兼平の進言で粟津・松原で自害しようと松原へ向かう途中、深田に馬ごとはまってしまいもがくところを弓で射られ倒れたところを相模の武士石田次郎為久(ためひさ)にその首を討ち取られてしまいました。享年31歳。
一方、敵を食い止めるため奮戦していた今井四郎兼平義仲が討ち取られた事を聞くと「今は誰をかばはむとてかいくさをもすべき。これを見給へ、東国の殿原、日本一の剛の者の自害する手本」と言って太刀の先を口に含み、そのまま馬から真逆さまに飛び降り太刀に貫かれる壮絶な最後を遂げました。

肉親の縁には恵まれず、薄幸の境涯に成人した義仲でしたが今井四郎兼平樋口次郎兼光水瓶座巴御前の兄弟妹たちこそ何物にも代えがたい‘絆’であったに違いなかったのでしょうね。
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2005年03月23日

●源義仲●〜宇治川の戦い

1184年(寿永2)、頼朝義仲が後白河法皇を幽閉された事を義経から聞き先発隊として義経・中原親能を含む500余騎を都へ出兵させ、その約二ヵ月後には総大将として範頼を出陣させました。

一方、義仲は平氏にならい後白河法皇を奉じて既に室泊の津まで進軍している平氏と交渉しともに協力して頼朝の東国勢を打ちのめすための和平工作を開始。しかし義仲のこの工作を成功させるに必要な時間を与えなかったほど義経率いる東国勢は猛スピードで進出していました。
義経範頼軍(数万騎)は近江(範頼軍)と大和(義経軍)の二方面から京都へ進軍し、近江にいた義仲軍は押し寄せる東国勢に圧迫されて京都へ退却。ここで、平氏との和平工作は実現不可能な状態にお陥りました。そのような中で河内に逃げ込んだ新宮十郎行家が不穏な動きを見せていた為義仲樋口次郎兼光を行家討伐のため河内へ派遣せざるおえませんでした。同時に瀬多へは今井四郎兼平800騎、宇治へは三郎先生源義広根井行親等約800騎を向かわせました。

一方、宇治から京へ迫ってきた義経軍は宇治川に差し掛かっていました。宇治川は雪解け水で増水していた為義経をはばむかと見えましたが、後に有名な一説となった佐々木高綱梶原景季による先陣争いに坂東武者達は刺激されこの川を突破しました。この時の義経軍には河越太郎重頼(しげより)、同小太郎重房(しげふさ)、佐々木四郎高綱畠山次郎重忠渋谷庄司重国(しげくに)、梶原源太景季(かげすえ)、一条次郎忠頼(ただより)などの勇猛果敢な坂東武者達がおりました。
そしてみるみるうちに義仲軍は圧倒され散りぢり状態に打ち破られました。義経は洛中の戦闘を一条次郎忠頼らに任せて、高綱・景季・重忠らを引き連れて院の御所に至り幽閉されていた後白河法皇を救出しました。

宇治・瀬多の敗戦を聞きながらも松殿関白基房の女との別れを惜しんで出陣しなかった義仲は越後中太能景(かずかげ)や津波多三郎の死によっていよいよ死を覚悟し武将の最後を飾らんとするため水瓶座巴御前と瀬多で合流した今井四郎兼平以下数十名の手勢で六条河原に構える一条次郎忠頼軍・六千余騎を中央突破し、続いて土肥実平軍・二千余騎と交戦。ここも戦いぬけ山科を経て近江に向かいました。

ちなみにこの戦いは義経にとっては初陣でした。



ひらめきわーい(嬉しい顔)佐々木高綱もうやだ〜(悲しい顔)梶原景季による先陣争い・・・この時両者は戦いの前に頼朝から名馬を授かっていたと言われています。高綱は「生喰」(いきづき)、景季は「麿墨」(するすみ)をそれぞれ従え宇治川の先陣争いをしたのですね。
結果は、わーい(嬉しい顔)佐々木高綱が先陣争いに勝ちました。

わーい(嬉しい顔)佐々木高綱・・・佐々木源三秀義の四男で、頼朝に仕え、上記宇治川の戦いで勇猛果敢に義仲軍と戦い、後の屋島の戦いでも戦功をあげました。後世は長門守護職を就任後出家し高野山にその身を任しました。

晴れ佐々木源三秀義については左メニュー‘お気に入り’の歴史学者・佐々木先生のサイト(佐々木哲学校)でも詳しく紹介されています。

もうやだ〜(悲しい顔)梶原景季(かげすえ)・・・梶原景時の長男。若くして騎射の達人として知られ、特に1184(寿永3)年の宇治川の戦いで、佐々木高綱と先陣争いを展開したことは有名。1185(文治元)年、平氏縁者の配流と新宮十郎行家追討を義経に伝える使者として上洛。義経の動向を探り、頼朝義経の対立の原因をつくりました。頼朝没後、父63814景時の弾劾に伴い、駿河国爪崎で父とともに討たれました。


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2005年03月21日

●源義仲●〜入京・そして苦難の道を〜

1183年(寿永2)7月28日、義仲は都へ入京しました。入京後、後白河法皇から御所をはじめ院殿などの警備を命じられます。越えて8月10日には行賞として従五位下左馬頭越後守に就任。8月16日、従五位下左馬頭伊予守に変更。

京都は天皇不在状態(安徳天皇が西海に落ちたため)であった為、義仲以仁王の御子・北陸宮の即位を強く法皇に要求しましたが却下され法皇は後鳥羽天皇を即位させることに。この決定に義仲は露骨にちっ(怒った顔)不満の意をあらわにしまたがこの事で法皇をはじめ公家達は義仲に不快感を抱き、さらに嫌悪感が増幅され忌避される立場に。逆に頼朝の上洛を期待する声が高まりつつありました。

そのような状況で法皇は、義仲に平氏追討を催促をしますが義仲にとってみれば自分が西国へ行っている留守に頼朝が入京して自分の今までの成果をことごとく反故してしまうのではないか・・との不安が大きかった為なかなかその催促には応じられませんでした。ですが、平氏が四国・讃岐で勢いを盛り返している情報を聞き致し方がなく四天王の一人樋口次郎兼光に留守を託して平氏追討の白旗を播磨に進軍。しかし、義仲より先発していた梅野四郎幸広と矢田判官代義清の軍が備中の水島で平重衡、通盛の軍に大敗して両名ともたらーっ(汗)討死するという大打撃を受け、京にいる樋口次郎兼光から京都の政情不安を伝えられたこともあり平氏追討を中止し再び京都へ帰りました。

義仲軍再入京の報に、都人はその横暴さを恐れて右往左往状態。又、留守中に完全に頼朝一辺倒に固まってしまいました。院との関係も最悪状態で険悪さがまたまた増幅する事に。法皇は再度出兵を命じましたが義仲は頑として聞き入れないため院は彼を非難。
この時、新宮十郎行家とも不仲になり行家は後に河内へ逃亡する事に。
さらに義経範頼軍が都に迫ってきている事、西国の平氏が更に勢いを盛り返してきている事など等で義仲は苦境に立たされてしまいます。
ここにおいて義仲は最後の覚悟を固め、どんっ(衝撃)法皇御所の法住寺殿焼き討ちを敢行。法皇・天皇は義仲軍に幽閉されて、仁和寺宮守覚法親王・山門の明雲座主以下多くの人が兵刃に倒されました。

以後、権大納言藤原兼雅(かねまさ)、以下四十余人の院の近臣を解官しその所領を没収、また摂政・近衛基通を解任させ叔父の近衛基房の子師家を摂政に就任させました。そしてさらに法皇に強要して頼朝追討の院宣を出させ同様に奥州藤原氏にもそれを送らせ、1184年(元暦元年)に、武門最高の名誉である魚座征夷大将軍に就任しました。この時に「晴れ朝日将軍として称されましたが『平家物語』の中では従五位下左馬頭越後守就任時に称号として授与されています。晴れ朝日将軍は他の文献の中では見られない点から逸話的要素が大きいものとされています。
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2005年03月19日

●源義仲●〜平家都落ち〜

篠原の戦い後、義仲は越前の国府(福井県武生市)に入り京までの道のりを歩みますがここで一つ問題がありました。
それは、「山門」と呼ばれた比叡山延暦寺の動向でした。ここは平安時代から厚く尊崇されていて叡山東塔、西塔、横川(よかわ)の各堂坊には「大衆」と称された数千の僧兵がたむろしており近江から京に入るためにはどうしても通らなければならない地でした。

義仲にとってはこれを撃破して京に入る自信はありましたが、数百年の歴史がある霊場を馬足で踏みにじったという汚名を蒙ってしまうため何としても避けなければなりませんでした。
幸運にも義仲の家来の一人に晴れ最乗坊覚明(さいじょうぼうかくみょう)という元興福寺の僧がいましたので晴れ最乗坊覚明の進言に従って山門への牒状をだしました(木曾山門牒状)。山門側は苦悩の末、源氏に味方する事を決定し義仲へ同心の旨を返牒しました。こうして京への大道は広々と開けました。
これが義仲の全生涯を通じて外交政策の成功した唯一の例となります。

これに対して平家方も山門へ同様に働きかけます。公卿十人(平宗盛・頼盛・教盛・知盛・経盛・清宗・重衡・維盛・資盛・通盛)の連署をもって起請文(きしょうもん)を延暦寺・日吉山王社に捧げ、大衆三千を平家に加勢する事を確約してくれと悲痛の願いを吐露しています。ですが時既に遅しで山門からの返事は一向になく平家はいよいよ叡山大衆の来援をあきらめざるおえない状況になりました。
義仲が叡山にのぼり東塔の惣持院に本営を構えた事が京中で取沙汰されここに至って平宗盛ら平家首脳は後白河法皇、6歳になる安徳天皇を擁して一門都を脱出する決心を固めますが後白河法皇は忽然と姿を消してしまったので致し方がなく三種の神器(八咫鏡・やたのかがみ、草薙の剣・くさなぎのつるぎ、八尺瓊勾玉・やさかにのまがたま)を伴い建礼門院に抱かれた安徳天皇を輿に乗せ都落ちしました。又、これに付き従う公卿は平大納言時忠、その子讃岐中将時実、甥の内蔵頭信基のわずか三人だったと言われています。

晴れ最乗坊覚明・・大江広元中原親能の従兄弟にして中原兼遠の甥にあたります。
父は海野幸親で当初は名を海野通広としていました。が、出家して興福寺で最乗坊信救と改名。

以仁王の令旨による反乱で以仁王支援派の園城寺から救援依頼が来たのでその返事を園城寺におくりましたがその内容が有名な「清盛は平氏の糟糠(かす)・武家の塵芥(ちり)」というものだった為、清盛は当然むかっ(怒り)激怒し出兵。宇治・平等院で平家により以仁王が討たれた後、信州に逃亡。

新宮十郎行家と共に義仲の部下となり大夫坊覚明と改名。義仲では、その長けた学才を発揮し書記係・参謀格として従軍しました。

義仲が討死した後は、円通院浄寛と再々改名し比叡山に入り、浄土真宗の開祖・親鸞と出会い信州で布教活動をしたといわれています(異説もあり信憑性はないですが)。
ニックネーム ちこりん at 21:02 | Comment(0) | TrackBack(0) | ●源義仲●

2005年03月17日

●源義仲●=木曾四天王=

ぴかぴか(新しい)木曾四天王・・・義仲には木曾四天王と言われた最強の家臣達がいました。
1今井四郎兼平2樋口次郎兼光3根井行親4楯六郎親忠(根井行親・六男)の四人です。

1今井四郎兼平・・・通称は四郎。義仲とは乳兄弟で、最後まで義仲と共に戦いました。義仲の死を見届けた後、自害。詳細な文献・資料が残っておらず謎に満ちた人物。謡曲『兼平』が知られています。
目謡曲『兼平』・・・木曾の僧が、木曾義仲の霊を弔いに行き、義仲が討死した粟津に行く途中に矢橋の浦で年老いた船頭の船に乗せてもらいます。
すると粟津に到着した矢先船頭が消えてしまいますが、それは、義仲と共にに命を落とした今井四郎兼平でした。その夜、僧の前に甲冑姿の兼平が現れて主君である義仲と自分の弔いを依頼し、また自害の手本として兼平自身の壮絶な最後について語り始めます。

2樋口次郎兼光(NHKでは堤大二郎が役)・・・信濃国筑摩郡樋口谷に住したので樋口次郎
と称されました。中原兼遠の次男で1今井兼平巴御前の兄。兼平同様、義仲とは乳兄弟で信頼の厚い家臣でした。

倶利伽羅峠の戦いなどで活躍。
1184年(寿永3)、義仲が討たれた後京へ戻り武蔵児玉党に降伏しましたが
頼朝の命よって斬首。(義経らは助命を嘆願しましたが聞き入れてくれませんでした。)
後世で上杉謙信の従兄弟である長尾政景に仕えた樋口兼豊が子孫となります。

3根井行親(ねのいゆきちか)・・・信濃豪族出身。
義仲に仕え、宇治川の戦いで(義経・範頼軍と京都・宇治川で交戦)畠山重忠らを打ち破り大きく貢献しました。こちらも詳細な資料が見つからず謎多き人物。
長野県佐久市に根井行親屋敷跡がありそこに根井行親供養塔があります。

4楯六郎親忠(たてろくろうちかただ)・・・根井行親の六男で通称・六郎。
横田河原の合戦倶利伽羅峠の戦いなどに参戦し、六条河原で討死とされていますが現存する史料ではその名は(詳細には)見当たらず事実関係は明らかになっていません。

ひらめき中原兼遠(なかはらかねとう)(NHKでは森下哲夫が役)・・・信濃豪族出身。妻は義仲の乳母。子として長男:1今井四郎兼平、次男:2樋口次郎兼光、長女:水瓶座巴御前らがいます。

義仲の育ての親で挙兵に協力し、近隣の豪族達に打倒平家を呼びかけましたがこの時期のの詳しい史料がないため謎となっています。

水瓶座巴御前(NHKでは小池栄子が役)・・・義仲の愛妾。父はひらめき中原兼遠、兄は1今井四郎兼平とされています。

義仲の幼少の頃から仕えていて挙兵後は女武者として従軍し奮戦。義仲が近江・粟津で討死する直前まで従っていたと言われています。
その後、捕縛され鎌倉に連行。それ以後の消息は不明ですが一説によると和田義盛(NHKでは高杉亘が役)に嫁いだとされていますが定かではありません。
ニックネーム ちこりん at 23:05 | Comment(6) | TrackBack(0) | ●源義仲●

2005年03月16日

●源義仲●=いざ、京へ!=

ぴかぴか(新しい)源義仲(NHKでは小澤征悦が役)・・・義賢の次男で武蔵国に生まれる。母は遊女小枝御前。幼名は駒王丸


祖父・源為義と伯父・源義朝が対立的関係になった時、為義派の父義賢は甥の源義平に討たれました。
幼い義仲は 畠山重能、斎藤実盛らの助言で信濃(長野県)に逃れ、木曽谷の豪族・中原兼遠の元で育ち、通称を「木曽次郎」「木曽義仲」と名乗りました。妻(若しくは愛妾)は兼遠の娘(巴御前(NHKでは小池栄子が役))。

1180年(治承4)、後白河法皇の皇子以仁王が全国に令旨を発令し新宮十郎行家がこの令旨をもって全国の源氏達に挙兵を促しました。それに義仲も呼応し挙兵。1181年(治承5)、越後の城助茂(じょうすけもち)を千曲川横田河原の戦いで撃破し、北陸道に進軍(頼朝とは合流せず)。自分の父・義賢頼朝の兄・義平によって殺害されているので両者の仲は不仲に。そこへもってきて頼朝と仲違いした新宮十郎行家志太義広義仲の元へ走った事で溝が深まり、頼朝義仲追討の為十万余騎で信濃・善光寺へ進軍。これに対して義仲今井兼平を使者に出し長男・義高を人質として鎌倉へ送りました。頼朝の長女・大姫との政略的結婚でした。

後方の憂いが取り除かれた義仲はその後京へ進軍。
1183年(寿永2年)五月、越中国・砺波山の倶利伽羅峠で平維盛・平通盛率いる追討軍を撃破(exclamation倶利伽羅峠の戦い)、さらに逃げ行く平氏を追撃(exclamation篠原の戦い)、同年京都に進軍し平氏を敗走・都落ちさせました。

exclamation倶利伽羅峠の戦い・・・1183年(寿永2年)5月11日、義仲軍約4万が、平維盛通盛を将とした約10万の平家軍を撃破した戦い。倶利伽羅峠で野営中の平家軍を、数百頭の牛の角に松明(たいまつ)を結びつけ四方から太鼓、法螺、大声などを上げて源氏軍が襲い数多くの平家軍の死傷者で埋まったとされています。これは火牛の計として有名です。
ですがこれには真偽疑わしいものがあり牛の角に松明をつけたりすると牛は興奮状態になって敵味方区別無く狂乱するのでむしろ尾や後ろ足にくくりつけたのではないか・・という説が有力視されています。

exclamation篠原の戦い・・・砺波(となみ)山を越えて加賀に入った義仲は、平岡野(金沢市)に兵馬を止めて、陣様の整備をはかると共に、じっと平家の動静を見極めようとしました。
大半の兵を砺波山で失った維盛らは、辛うじて囲みを破って後方に逃れ、河北潟の西端で海岸よりの宮越(金沢市金石)で、一応敗軍の集結にあたりました。海岸沿いに能登から退却してきた搦手の盛俊らの軍も、ここで落ち合いました。平知度(とものり)をはじめかなりの主だったものの姿はもう消えてしまっていましたが、とにかく義仲軍の追撃を警戒しながらも、留まること十日余り。一応敗残兵をまとめえた維盛らは、この地が守るに適しない地と見とって、5月25日、宮越の陣を引き払いました。南の安宅・篠原の線で義仲軍の進撃を食い止めようとしたのです。
しかし、その兵力は『源平盛衰記」によれば北国下向時の十万が三万騎に激減していたと言われています。しかもその大半は、無傷のものではなかったということです。

6月1日、十分に休養をとり整備しきった義仲軍は、矢叫びの声もすさまじく、平家の屯する安宅・篠原の陣へ襲い掛かりました。

この地は、今江・木場・柴山と三つの潟が連なっていて、その三湖の水が梯川の下流に注いでいる中に包まれた、天然の要害です。攻撃側は糸口を見つけにくいですが、守る側にしてはまことに好都合の所でした。しかも戦いは昼間で、戦場は小起伏の砂丘と平原です。
ここで食い止めねば、一大決心のもとに全兵力を投入して北国へ下向した平家の運命は完全に没落することになります。さきのexclamation倶利伽羅峠の恥辱を雪ぐだけではなく、文字通り絶体絶命の関頭に立たされたことを自覚した平軍は、死に物狂いでこの線を確保しようとしました。
しかし、義仲軍には、この辺りの地理に精通している林・富樫をはじめ倉光・匹田・安江などの加賀武士団が加わっています。しかも、彼等は一ヶ月前とは違って、すぐる大勝によって勇気百倍な状態です。
義仲より先陣を命ぜられた林六郎光明は、かねてより勝手知ったる浅瀬を選んで一気に梯川を押渡り、敵の先鋒平有国の陣に突入し、さんざんにこれを打ち破ったと長門本『平家物語』にあります。

突破口を開いたと見るや、義仲は全軍に進撃を命じました。今井樋口・落合五郎兼行らの猛将が、わき目もふらずに安宅・篠原の陣営に切り込みました。戦いは凄惨を極めました。互いに名を惜しむ武士は、三百騎五百騎に手兵が、七騎六騎となるまで戦いました。平家の侍大将武蔵三郎左衛門有国は、三百騎の郎党がみな討たれて自分ただ一騎になり、その馬も倒れたため徒歩立ちになって奮戦しましたが、ついに、7、8本の矢を全身に射込まれて、立ちながら死んでいったと言いいます。これは『平家物語』の伝える所です。
同じく高橋判官長綱も、引続く奮戦でまったく力尽き、わずか18歳の越中の若武者入善小太郎行重に首を討たれました。

備中の豪族瀬尾太郎兼康は、平軍中にとどろいた豪のものでしたが、ついに加賀の土豪倉光三郎成澄(なりすみ)の手で生け捕りにされてしまいました。治承4年の石橋山の合戦頼朝に弓引いた東国武士の中には、頼朝が関東で覇をとなえるや故郷に留まることができず、京へ上って平家に加わる者がかなりいました。俣野五郎景久斎藤別当実盛伊東九朗祐氏などはその代表的なものと言えます。彼等はあげてこの北国下向に従軍しておりましたが、華々しく戦っていずれも討死を遂げています。なかでも満月斎藤別当実盛の最期は壮烈なものでした。かくて敗残兵の集結にしては平軍もよく戦いましたが、暮色がようやく戦場を覆う頃には、ついに壊滅し、平軍の姿は全く認めることができませんでした。



満月篠原の戦いで敗走する平氏の中で最後尾にいた斎藤実盛が、たった一騎で義仲軍に立ち向かいましたが手塚太郎光盛に討ち取られ壮絶な死を遂げました。享年73歳。

実盛平宗盛から賜った大将用の赤地錦の直垂を着用し年老いた武士だとわからないように白髪を墨で黒く染め最後まで名を明かさずして討死しました。討ち取った首を池で洗い実盛だと判明された時、命の恩人であった実盛公の変わり果てた姿に義仲は泣き崩れたと言われています。

斎藤実盛ゆかりの地として‘首洗い池’(石川県加賀市手塚町)、実盛誕生時にこの池の水を産湯(うぶゆ)に使ったという‘実盛池’(福井県坂井郡丸岡町)があります。

ぴかぴか(新しい)斎藤実盛・・・越前河合斎藤氏の出身。その後、武蔵国長井に移り住み、源為義源義朝に従いました。保元の乱平治の乱で活躍。
源義平義仲の父・義賢を殺害し、義仲をも殺害しようとした時、間に入って助命してくれた命の恩人的人物。

平治の乱後は、平家に仕えその豪勇さは一騎当千とまで言われました。
1183年(寿永2年)に源氏軍の手塚太郎光盛により討死。

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【篠原古戦場跡・実盛塚】


満月MAINへ満月
ニックネーム ちこりん at 21:10 | Comment(8) | TrackBack(0) | ●源義仲●