2006年08月10日

比企能員〜政権争いで散った頼朝の側近

比企尼の養子。比企尼が頼朝の乳母であった関係で早くから頼朝に使え、平氏追討などに従軍しました。

頼朝の側近として幕府設立時は行政事務に関与。
頼朝没後は、十三人の合議制に加わり、娘の若狭局を二代将軍頼家に嫁がせると、外戚として権勢を振るいましたが、比企氏の勢力に危機感を感じた63699北条時政により、一族郎党すべて謀殺されました(比企の乱)。


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2006年05月28日

源頼朝の墓〜石碑

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63904鎌倉頼朝の墓
は鎌倉駅から徒歩約20分くらいで行けます。また、鶴岡八幡宮からは徒歩15分。歩いてみると意外と距離があって多少つかれます♪また、墓へは結構な数の階段を上がっていかないと到着しません。これがまた意外に疲れる・・・。

その階段を上がる前に大きな石碑が立っています。意外と見過ごしちゃう石碑かもしれません。石碑には「君士で、民もしづまり・・・」と書かれています。

この石碑誰が立てたものか忘れてしまいましたが、恐らく墓の再建者島津氏のものではないかと思います(違っていたら御免なさい)。


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2006年04月08日

頼家の失政と廃位〜頼朝の死(3)

権力者の不幸の背後に、その人物によって敗亡した人々の怨霊の祟りを見るのは、当時の社会にあってはごく当然のことでもあったようです。
とりわけ大量の犠牲者を生んだ、保元・平治から治承・寿永にかけての争乱期には、こうした噂が広く行われ、治承・寿永の争乱自体が、崇徳上皇・藤原頼長ら魔道に落ちた保元・平治の乱の敗者たちの怨霊のせいだとまで考えられていました。


この争乱の時代を生き延びて天寿を全うした63905後白河法皇さえ、死を前にして痢病に苦しみ、怨霊の恐怖に怯えながら、崇徳安徳をはじめとする戦乱の犠牲者たちの菩提を祈る措置を講じていたりします。

頼朝もまた生前、崇徳の怨霊や、奥州合戦の死者の鎮魂に努めたりしましたが、死の数年前からの『吾妻鏡』には、怨霊の祟りをうかがわせる怪異についての記事が散見されます。そうした時代にあって、平氏を追い、源氏一族を静粛し、弟達をも滅ぼした頼朝の死に関して、怨霊の出現が取り沙汰されるのは必然だったとも言えるのではないでしょうか。

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2006年04月07日

頼家の失政と廃位〜頼朝の死(3)

頼朝の死について『保暦間記』は次にような話を載せています。

橋供養の帰途、頼朝が八的ヶ原にさしかかると、志田義広義経新宮十郎行家などの亡霊が現れて頼朝とにらみ合いになり、さらに稲村ヶ崎に至って、海上に十歳ばかりの童子姿で安徳天皇の亡霊が現れ「今こそ(頼朝)見付けたぞ」と叫びました。その後、63904鎌倉に帰って頼朝は病について亡くなりましたが、こえは老死ではなく平家の怨霊のせいで、多くの人を滅ぼしたためだというものです。八的ヶ原というのは現在の藤沢市辻堂付近の海岸に当たりますが、この場所は、生虜になった平家関係者が63904鎌倉への生き帰りに通った道筋で、頼朝63904鎌倉入りを拒まれた義経が弁明の状を捧げた腰越にも近いです。

さらに頼朝の本拠である63904鎌倉の西端から出たところで、頼朝を狙う怨霊が出現する場所として条件は揃っています。

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2006年04月06日

頼家の失政と廃位〜頼朝の死(2)

頼朝の急死はいずれにせよ確かだったようで、とりわけ京都の人々が驚いた様子は、『愚管抄』に載せる「夢か現(うつつ)かと」人々は思ったという慈円の形容や、『名月記』に藤原定家が残した「頓病(急病)か」という言葉に表されています。そして急死であり、その意味で尋常ではない死であったがゆえに、頼朝の死は彼によって滅ぼされた人々の怨霊と祟りだとする見方もあったようです。

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【鎌倉・雪ノ下〜頼朝の墓】



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2006年04月05日

頼家の失政と廃位〜頼朝の死(1)

1199(正治元)年正月13日、頼朝は数え53歳で世を去りました。『吾妻鏡』は詳しい事情に触れることを避けるかのように、直接、死を伝える記事は載せていませんが、読書の記事から、死没の年月日について疑う余地はありません。


死因は、稲毛重成が亡妻の追福のために相模川の橋を新造し、その供養が前年の10月に行われたので頼朝も列席しましたが、その帰りで頼朝は馬から落ち、その後しばらくして亡くなったとされています。でも落馬そのものが単なる事故なのか、それとも脳溢血のような急病だったのか、或いはまたそれ以上に暗い背後の事情があったのかは判断できません。


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2006年04月03日

鎌倉幕府の組織〜幕府の秩序原理(3)

社会と密接に結びついた政権としての鎌倉幕府ですが、この点で実は頼朝と東国武士達との間に微妙な感覚の違いがあったのではないかと推測されます。

吾妻鏡』の1186(文治2)年正月の記事に、この日の鶴岡参拝に際して、頼朝に付き従っていた御家人達が庭に左右に分かれて着座しましたが、その中で千葉胤頼(たねより)が、多少は座の下方よりだったとはいえ、父親の63652千葉常胤に相対して着座したため、人々の評判がかんばしくなかったとあります。これは長幼の序列を重視する立場からの批評でしょう。ところが、胤頼がこの座を占めたのは、63652常胤は父親であっても六位なのに、胤頼は子供であっても五位であり、官位は天皇の授けるものだから尊重しないわけにはいかないという、頼朝の命令によるものだったという・・・。

ここは長幼・年齢という原理を重視する御家人達と、朝廷の官位を尊重しようとする頼朝との感覚の差異を読み取ることができます。もちろん、御家人達と言えども、その多くは官位に憧れ、官位を得ることを念願していたのは事実ですから、これはあくまでも相対的な違いではありますが、頼朝の中にある貴族的な側面の現れといていいでしょう。

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2006年04月01日

鎌倉幕府の組織〜幕府の秩序原理(1)

これまで頼朝という中心から放射状に広がる個々の御家人の相互関係を、対等な関係としてみてきました。


それを反映して鎌倉幕府の法においても、武士と庶人、御家人と非御家人という扱いの差はありますが、御家人同士については、古代国家のような位階・官職による細密な区別はありませんし、そうした地位の相違が具体的にどのような差別をもたらしていたかも明確にはわかっていません。また鎌倉幕府の最高決議機関としての評定衆内部の規定も、保持する位階・官職や所領規模の大小といった基準による差別はありません。


総じて言うと幕府体制にあっては、それまでの京都朝廷の政治形態に比べて、政治を担う階層内の各員の平等性が確立されていたということができると思います。

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2006年03月31日

鎌倉幕府の組織〜人間関係の体系(5)

以上のように簡素な幕府の官職ではありますが、それに就いた人間は、その費用を幕府によって給されるのではなく、基本的には自己の所領から得るもので活動を賄わなければなりませんでした。それは自分の所領を保証してくれたり、または何かの功績に対して新たに所領を与えてくれた将軍に対する臣下としての返報の一部です。

一方で、幕府財政そのものは、行政機構が人格的な将軍と切り離せないことに対応して、所領からの収入その他の、将軍に集中する収入によって賄われることになっていました。

そうした収入としては、下記のようなものが挙げられるかと思います。

1;関東御領と呼ばれる、鎌倉将軍が荘園の本所として直轄した荘園からの収入。

2関東御分国といって、将軍が知行国主であった諸国からの収入。関東御分国は時代に応じて変遷がありますが、幕府体制が確立した文治年間以降で考えるなら、駿河・相模・武蔵という鎌倉幕府の膝下ともいうべき東海道の諸国と越後は、ほぼ一貫して含まれていました。

3関東御公事と称する、鎌倉幕府の御家人の負担する費用。これには将軍御所の造営費、鶴岡八幡宮の修繕費、諸行事の費用などが含まれ、もともとは臨時に課されるものでしたが、後に恒例化しました。
その賦課決定の基準は、国内のすべての田地面積や領有関係を記載した大田文です。

古代国家はその末期に、朝廷の行事や造営事業の費用を、成功(じょうごう)という一種の売官制度または勧進という民間からの費用調達によって賄うようになっていました。それは律令国家本来の財政制度が破綻していたことの極端な表現です。なので、そうした財政破綻の後に出現した幕府が、このような簡素な体系の上に立たざるを得なかったということは、一つの必然であったともいえるかもしれません。

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2006年03月30日

鎌倉幕府の組織〜人間関係の体系(4)

この評定衆が制度として合議制であっても、その構成員が北条氏もしくはその意向になびく勢力によって占められれば、結果として合議制の実質は損なわれてしまいます。
事実、ある歴史学者の指摘によると時宗執権期の文永・弘安年間から、若年でにわかに評定衆に任命されるものが増加しており、これは北条一門による上級官職の独占化傾向と幕府裁判の理念変化と結びついていますがそれはあくまでも幕府政治の変質として捉えるべきと言います。

評定衆設置以前に、幕府の合議制がもっとも早く現れるのは、頼家が親裁を止められるという事件で、ついでに63814梶原景時追放の決議です。63814景時の追放に際しては、六十六人に上る御家人の連署が集められたと『吾妻鏡』では記されています。つまりこれは連判状であり、一味神水の一揆です。
このような定則化されていない形で、幕府の有力者の追放という問題に対等の立場で御家人が署名して意思表示をし、それによって将軍の意思をも動かすことができたということ自体、幕府の意思決定は御家人の参与が実質的な意味を持っていたことを物語っています。それはまた頼朝が作り上げた御家人制のフィクションの一つの結実だった・・・とも言えましょう。

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2006年03月29日

鎌倉幕府の組織〜人間関係の体系(3)

評定衆の構成を見てみます。

そこには理念としての御家人の平等・対等がすくなくても初期の時代については貫徹しているようです。鎌倉時代全半期の構成員には、有力御家人以外に、京から鎌倉に移ってきた官人の系譜を引く吏僚層、中小御家人など、出身階層を問わず、北条氏の意思から相対的に独立した勢力が少なくありません。有力御家人が中心を占めるといても、単に家柄だけでなく長老として政務に通じていたり、判断能力の点で評定衆を務めるに足ると判定された人間だけが選ばれ、また仮に一度選ばれても不適格と判断されれば外されてしょうまうし、北条一族でさえ必ずしも優位を占めるというような状況ではなかったようです。


しかも彼ら評定衆と執権との間に目立った対立事件も伝えられていないことは、実質的にも合議制としての機能が活きていたことを示すものでした。


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2006年03月28日

鎌倉幕府の組織〜人間関係の体系(2)

北条氏が人格の結合として中心となりえなかったことにより、鎌倉幕府が実質的に北条政権であったという否定し難い事実にもかかわらず、北条氏は表面には清和源氏・九条流藤原氏・親王という正当性の象徴を掲げて、自ら歴史の表舞台に立とうとはしませんでした。このような北条氏の観念上の地位を間接的に示しているのは、鎌倉幕府滅亡後、江戸幕府倒壊までの武士社会の中で政権を執ったものは勿論、政権の奪取を企てた者の中にも、自己の正当性を鎌倉北条氏の末裔であると仮称して基礎づけようとしたものはいなかったという事実です。
(後北条氏のみは例外といえるかもしれませんが、この場合は全国の主権者ではなく、武蔵・相模の支配者としての正当性の基礎づけに用いたのであって意味が違います。)

ですが、北条氏も周囲の武士達も北条氏自体を政体の中心に据えることができないとすれば、形式的には最終決定権は常に将軍にあるわけで、将軍に実質的な政務の力がない場合は、御家人の中からそれを補佐する人間が必要になります。

それが北条氏執権・連署という地位でした。しかもその補佐が将軍や他の御家人達との関係で、単独で補佐を務めるほど強力でなければ、複数の御家人達が合議制で補佐するという体制を取らざるを得ないということになるでしょう。それが泰時の代に設置された、鎌倉幕府の中心的な政務組織である評定衆という制度の意味でした。

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2006年03月27日

鎌倉幕府の組織〜人間関係の体系(1)

この簡素な構造の根底には、鎌倉殿が御家人を支配し、御家人はまたその家人・所従を支配し・・という人間から人間への連鎖が支えていたわけで、言ってみれば人間関係の体系が鎌倉幕府体制でありました。鎌倉幕府の支配の領域が、exclamation承久の乱からどんっ(衝撃)蒙古来襲の時期を経て、当初の東国から全国政権へという拡大を見せるに至って、さすがにその支配機構も複雑にならざるを得ません。ですが、根底には将軍〜御家人関係であると言う点は不動のものでしょう。

従って頼朝が死んだ後、かなめとしての頼朝の欠如をどうやって埋めるかが幕府最大の課題とならざるを得なかったのは当然のことです。幕府の本質が人間関係の体系にある以上、将軍の地位を空白にはできません。頼朝の系譜につながっている人間が将軍の地位にある間はまだしも、その系譜が途絶えてしまえば、執権・連署という地位を独占していた北条氏の権力が突出して、いやでも幕府が実質的には北条氏の政権であることが目に付きますが、かといって北条氏が将軍の地位を埋めることはできないでしょう。
なぜなら摂関家や源氏といった貴種ではなく、東国のそれも一小貴族に過ぎない北条氏では、正当性を主張することはもとより、周囲の武士たちの同輩意識を否定することさえ容易ではなかったからです。北条氏鎌倉幕府も下るにつれて、守護・地頭といった地域の支配にかかわる所職億を次第に一門で形成し、その点では最高権力に成り上がりましたが、人格的な結合として中心とはなりえませんでした。

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2006年03月26日

鎌倉幕府の組織〜担当者の非固定化(2)

討手の例ばかりでなく、京都への使節や幕初の守護のように、特定の職務に就く人間がかなり頻繁に代わる背景には、人材難や草創期の不安定さだけでなく、頼朝の意図も存在したように考えられます。つまり頼朝には、特定の人間が長期間一つの役職に留まることに対して、警戒感が強かったのではないでしょうか。
職務に対する緊張感の喪失、役得・利権への感覚麻痺、世襲化などの現象は、どれも新たな組織の根底を侵蝕する危険を含んでいるものと考えます。そうした弊害を避けて、担当者に緊張感を保持させるには、できるだけ職務の固定化を行わない方が有利です。


しかも担当者が固定することによって、それが御家人相互の優劣の位置付けになることは、御家人同士は対等という理念にも反することになります。現実には役職に就ける御家人は限られているにしても、その選任の基準が個々の能力だけに置かれ、しかもそれを判断するのが頼朝という人間の能力を見抜くのに極めて優れた統率者であってみれば、御家人の間に不満の生じる可能性は少ない・・と考えます(多少なりとも不満はあるにしても)。

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2006年03月25日

鎌倉幕府の組織〜担当者の非固定化(1)

職務につく人間も、おおざっぱに文筆に携わる人間と武力行使に当たる人間の区別はあっても、当初は必ずしも一定していなくて、必要が生じるたびに随時決定あれていた感があります。
事実上、京都では幕府代表の役を勤める使節でさえ、63699北条時政をはじめ何人かの人間がそのたびに任命され、安定するのは承久の乱以降のことです。


有力御家人たちは必ずしも特定の職務に縛り付けられることなく、臨機に職務を命じられると言うのが少なくとも初期の鎌倉の実態でした。
一つ例を挙げれば、謀叛のその他の理由で討たれたり処刑されたりする人間が出たとき、その討手は専門の人間がいるわけではありません。そうした際、頼朝はいつも特定の討手によらず、御家人の中から、その時その時の討手を選んでいました。討手も、また罪人を預かる人間も、便宜の人間がその時の状況に応じて任命されていました。

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2006年03月24日

鎌倉幕府の組織〜簡単な機構(2)

鎌倉幕府の簡素さの理由を尋ねるなら、初期に関してはいうまでもなく人材も不足し組織的な整備も行き届いてなかったと言えますし、新たな政権の発足時にはつきものの現象を指摘することもできます。でも本質的な理由は、幕府がその名称の起源通り本来は戦時の将軍の本営という軍事的な組織であり、何よりも軍事的な機能性と迅速性を優先させる組織であったことに求めなければならないでしょう。


頼朝は実質的な支配の効力を上げることを第一の目標に、支配下に入った地域を組織化していったため、守護の場合にも各地域ブロック別に対応が異なっていましたが、古代国家の機構をそのまま利用したり、名称にはこだわらず実効性のみを考えていたようです。そうした指向は幕府のすべての面に共通していて、式目以下の幕府の法律についても同様のことがいえるかと思います。


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2006年03月23日

鎌倉幕府の組織〜簡単な機構(1)

鎌倉幕府の職制は、将軍のもとに機関として政所・問注所・侍所などが置かれ、後に評定衆・引付が加わりましたが、全体としては著しく簡素で、八省百官に令外官まで加わった律令国家の職制とは比べものにならないほどです。

幕府の機関としてもっとも早く記録の上に現れるのは、1180(治承4)年に設置された侍所です。これは別当(長官)・所司(次官)をはじめとする職員を持ち、御家人の統制などを任務としていました。1184(寿永3=元暦元)年10月に設置された問注所は、訴訟のための機関で、執事(長官)以下の職員を置きましたが、当初の幕府裁判は将軍による親裁が基本でしたので、その役割はあくまで訴訟の準備や事務手続きに限られていました。

問注所と同時期に公文所という役所も置かれ、これが政所に転化したとされていますが、両者の関係は必ずしも明らかになっていません。政所というのは、関東御領と称する将軍直轄の管理や、将軍一家の生活上の充足といった将軍の私的な経済管理を中心に、その延長上で、将軍の直轄支配でした鎌倉の市政や、将軍直轄社寺の管理、またさらに将軍に従属する御家人たちの所領の給与・安堵の事務などを管掌しました。

地方の職制も六波羅探題鎮西探題のような出先機関は、それぞれ幕府を縮小したような職制を持ちますが、それ以外には守護・地頭が挙げられるだけでした。

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2006年03月22日

守護・地頭の設置〜基盤としての地頭職(2)

地頭は本来の趣旨から言えば、従来から持っていたものの承認であろうと、新たに与えられたものであろうと、とにかく土地所有権の一部が武士階層の手に与えられたもので、その設置の趣旨から言えば、頼朝政権の成立に協力した武士階層に対する恩賞です。もちろん、在地の治安や警察機能の充実、年貢の収取の円滑化という具体的な目的もありましたが、それを担う者はあくまでも武士、それも鎌倉殿に従う御家人達たちが中心であったと言えます。従ってそうした恩賞としての地頭職は、謀叛その他の犯罪行為によって没収されない限り、代々受け継がれるべきものでした。

それに対して守護は、(恐らく)頼朝に代わって軍事・行政活動で地方の御家人を指揮する、いわば代官という役割に起源するもので、あくまでも幕府による一方的な任命によりました。また一度任命されたからといって、それが代々継承されるわけではなく、後には特定の家に固定化する傾向があるといっても、それはむしろ守護制度の本旨からは外れた姿です。事実、幕府の開創当初から承久の乱ごろまでの守護は、かなり短期間で交代しているようで、これは任命による行政職としての守護本来の性格によるもののようです。

こうした地頭と守護との性格の違いから、一貫して幕府を支える基盤は地頭職の上に据えられていたと見るべきでしょう。

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2006年03月21日

守護・地頭の設置〜基盤としての地頭職(1)

頼朝による御家人制の確立と守護・地頭の設置と言うのは、それまでの古代の行政の枠組を根本的に変えるものであったことは否定できませんし、それ以後、南北朝の反動期はあっても、室町から江戸幕府に至る武家政権の歴史が、この頼朝が設定した枠組によって規定されていたことも、やはり同様に否定できません。

御家人制が「人格の組織」だったとするならば、他方で、新たに展開した守護・地頭制は「地域の組織」であり、ここに鎌倉幕府は二重の組織原理によって支配を徹したと言えます。ですが、守護・地頭という二つの職制は、それがどのように継承されていったかと言う点で、大きく異なります。


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2006年03月20日

守護・地頭の設置〜ブロック支配と守護(5)

京都周辺の地域については、もともと朝廷の膝元で寺社勢力も強かったことから、頼朝としては当初から個別的な国単位での把握は意図していなかったようです。

でも他方では、この地域は平氏にとっての基盤でもあり、軍事的にも放置しておけるわかはなく、結果的には京都に駐留する幕府の代表者がブロック全体について監視するという役割を担うことになります。1185年には中原久経・近藤国平が、1187年には下河辺行平・63652千葉常胤が、それぞれ京都へ派遣されていますが、これらの臨時の使節が、京都守護を経て承久の乱後に六波羅探題へと移行したと言えるでしょう。

一方で、平氏や義仲勢と戦っている頼朝にとって、背面の敵となる可能性を持つ奥州藤原氏の支配地域である陸奥・出羽両国は、しばらく手を付けることはできないわけで、その処置を奥州合戦の後まで残さざるおえなかったのは当然のことでしょう。また、奥州合戦の後、奥羽は奥州藤原氏の支配機構を急速に変化させることは止めて、守護も置かず、むしろ植民地として特化させる方向が取られていきました。

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2006年03月19日

守護・地頭の設置〜ブロック支配と守護(4)

平氏の勢力下から奪った中国・四国・九州についてはどうだったでしょう?この点についても同じことが言えます。

この地域の頼朝による支配のさきがけは、1184(元暦元)年2月18日条の『吾妻鏡』に見えるように、63814梶原景時63730土肥実平の二人が播磨・美作(みまさか)・備前・備中・備後の五ヶ国を守護するように命じられた時に始まります。


そして翌年5月には、追討使として派遣された頼朝の二人の弟、範頼義経が、それぞれ範頼は九州、義経は四国を管領するように定められていました。

つまり、これらの地域でも、まず大づかみなブロックによる把握が進んでいたわけです。特に九州は、1185(文治5)年12月に天野遠景が鎮西九国奉行人に任命され、鎮西の御家人の統括に当たったように、他の地域に比べて後までブロックとして扱われる傾向が強かったと言えましょう。


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2006年03月18日

守護・地頭の設置〜ブロック支配と守護(3)

頼朝地域に応じた支配政策が進む中で、自身の挙兵の地であり最大の根拠地でもある東国が、行政的にもっとも早く整備されるのは当然のことで、1180(治承4)年のころからすでに国単位での組織化のため、昔の律令国家の支配機構でもある国衙機構をそのまま利用することも行われました。

それに対して義仲や平氏との攻防の中で次第に頼朝の支配下に属するようになった北陸道や中国・四国、北九州の地域では、国単位で支配することにこだわる余裕はありませんでした。そうした地域では臨時的かもしれないし、もしくは大きな単位になるかもしれませんが、とにかくある地域を掌握することが緊急の課題であって、指揮者の任命も国単位とは異なったブロックに対して行われたと見ることができるかと思います。こうしたブロック支配の先例は、平家が治承・寿永の争乱の中で非常の職として設置していた総官職(そうかんしき)にあります。その点では頼朝は平家を真似した・・・と言うこともできますが、一般的に新しい制度を作る時は模倣から始まるのが常で、平家の総官職も731(天平3)年に設置された官職の復活と見なされるでしょう。

そうした経緯によって、北陸道について言えば当初は比企朝宗(ともむね)がブロックの指揮者として設置され、守護は設置されていません。これは北陸道が義仲頼朝との覇権争いの中で、双方の奪い合いの対象となったことが反映されて、地域権力の掌握が軍事的支配のためのブロック化から始まったことを示しています。


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2006年03月17日

守護・地頭の設置〜ブロック支配と守護(2)

この時に置かれた総追捕使がどれだけの権限をもっていたかについては多くの議論がありますが、荘園・公領を問わず一反あたり五升の兵糧米の徴収権と諸国の在地官人・荘園下司・総押領使の支配とが許されていたことは認められるかと思います。
ただし、その後の過程で、この権限を頼朝はすべて行使はしていなかったようです。

その後、確立してからの守護の任務は、管轄する国内の地頭・御家人に幕府の命令を伝えることと、国内の犯罪(叛逆事件の取り締まりなど)が中心で、その他に時代的に変移はありますが、大田文(おおたぶみ)という国内の田地面積・領有関係を記した文書の調進、寺社・駅路についての事務なども含まれるようになったと考えられます。

守護が、基本的には領域支配のための制度であることは疑いないですが、守護設置に至るまでの、頼朝の領域支配の方式を見てみると、頼朝にとって日本全体は大きくいくつかの地域に分割して意識されていたようで、それぞれの地域に応じて、頼朝の支配政策が異なっていたと推測できます。そうした地域とは、

1白河以北の奥羽
2東海道に沿った諸国と信濃などを含む東国
3北陸道諸国
4京都周辺の五畿内
5中国・四国地方
6九州


が挙げられます。

また、地域に応じた支配政策の相違が、それぞれの地域の守護設置年代の早い遅いという差異となって現れていきます。

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2006年03月16日

守護・地頭の設置〜ブロック支配と守護(1)

地頭と同時に設置を認められたのが総追捕使で、この時、実質的に総追捕使による支配を求められたのは「五畿・山陰・山陽・南海・西海」の諸地方でした。東国についてはすでに寿永2年の十月宣旨によって、頼朝の支配下に入っていたからです。

一般的には、この総追捕使が幕府の制度としての守護に移行するものと理解されています。ですが、「守護」という言葉も地頭同様、すでにそれ以前から用いられていて、そこでは東国諸国の治安維持や、平氏攻撃に当たっての兵士動員や兵糧米徴収などの軍事指揮官を指していました。

寿永2年十月宣旨以前の守護と、この総追捕使、また、この時に総追捕使と同時に設置されたという国地頭、さらに後に鎌倉幕府の正式職掌となる守護とが、どのように関連するかは明確になっていません。これは史料の欠失ばかりでなく、動乱期の状勢変化につれて、制度自体も不安定な面が多いからで、制度としての守護について概括的に語られるのは90年代ころからのことかと思います。

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2006年03月15日

守護・地頭の設置〜富の再配分としての地頭(3)

古代末期には寺社・貴族階層などの荘園領主階層による在地支配は、物理的にも強制力が欠けていたため実質的には難しくなっていたようです。それが頂点に達するのが、いうまでもなく保元・平治から治承・寿永に至る内乱の時期です。この時代に地方から京都に送る年貢その他の貢物が届かずに、貴族層の中には困窮するものも生じていました。みずから在地に下って荘園経営に当たろうとした貴族もいたことが『玉葉』に見えています。
そのような状況にあtって、地頭の得分によって仮に一部分が減少したとしても、収取の保証が得られることは、荘園領主層にとって決して損失となることではなく、むしろ長い目で見れば、不在土地所有者としての利権を守るために都合のよい制度だったと言えましょう。


新たに立荘された荘園の数は12世紀以降に増大しますが、それらの荘園からの年貢類を確保するには、何らかの実力による裏付けが必要でした。それを与えたものが守護・地頭制であったというわけです。


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2006年03月14日

守護・地頭の設置〜富の再配分としての地頭(2)

地頭は諸国の荘園・公領で現地の治安・警察任務や年貢の徴収・管理またさらに勧農などに当たる一方、年貢収益の一定部分を取得するものでした。だだし、この1185年末段階で設置された「地頭」は、後年に一般化する荘・郷単位の地頭ではなく、一国単位の地頭だとする説もあり、さらに国地頭と総追捕使との関係や、各権限に関しても色んな説があって定かにはなっていません。

この後、朝廷に没収された平氏一門の所領や、各地の荘園・公領に地頭は置かれます。また頼朝方の武士がそれまでの所領を安堵され地頭となったり、これまで下司・預所などの荘園の下級管理職として現地にいた武士達が新たに地頭に任命されたりした事例も少なくありません。そういった意味で地頭は一様ではないのですが、肝心なのは地頭という名称によって鎌倉幕府から任命されたという点であって、忠誠の対象は任命権者である鎌倉幕府だけということになります。頼朝政権成立に寄与し、またそれに賛同した武士達への恩賞が地頭への補任という形をとっていたと言えます。

その多くが頼朝に与えられた平氏一門の所領など、元の所有者から没収された所領に置かれた地頭は別として、新たに地頭が置かれた場合、そこを所有する貴族・寺社側としては、年貢の一定部分を横取りされた形になりますし、場合によっては地頭が現地で年貢を抑えて領主のもとへ送らせなかったという事件も起きたので、当初は地頭に対する反撥も強かったようです。ですが、地頭制を荘園領主の収益の武士による奪取という観点からだけで論じるのは早計のように思われます。


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2006年03月13日

守護・地頭の設置〜富の再配分としての地頭(1)

頼朝が新たに御家人制度によって武士達を組織するにあたって一番の問題は、頼朝の側について戦った武士達の軍功に、どうやって報いるかということでした。政治的な地位にたって武士を引き上げると同時に、経済的な意味でも富の再配分をすること、それが頼朝に課さられた課題でした。この課題に答えるために頼朝が利用したのが地頭制です。

既に述べたように、頼朝の怒りを買って63904鎌倉への帰還を拒まれた義経は、1185年5月10日、63905後白河法皇に強請して頼朝追討の宣旨を出させ、挙兵に踏み切りました。でも兵力が集まらず、義経と叔父行家はともども再起を期して西国へと船出します。

この宣旨に怒った(TVではあまり怒っていなかったが)頼朝63699北条時政に千騎の兵をつけて京へと派遣し、強硬な要求を突きつけて、義経行家を捜し求めるために必要だと言う理由で朝廷に認めさせ、諸国に任命したのが総追捕使・地頭です。

この総追捕使・守護・地頭については、第二次世界大戦以前からの膨大な研究史の蓄積があって、未だに定説が固まっていないようです。


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2006年03月12日

御家人相互の平等性(4)

将軍=鎌倉殿を焦点として、大小の御家人が終結することによって集団としての利害を通すことが可能となることによって、これまで一方的な被治者にすぎなかった武士階層が、場合によっては国全体の方針までも左右できる発言力を持つようになったことが、鎌倉幕府成立による最大の変化であったと言えます。

武士を被治者というとちょっと不思議かもしれませんが・・・・。
平氏一門のように貴族化した一部の武士を除けば、古代国家の武士の地位は、「国には目代に随い、庄には預所に仕え、公事雑役に駈り立てられ(延慶本『平家物語』)」るという程度のものでした。そして武士階層が政治の場に登場したということは、社会全体にとって、社会層の平準化が進んだことになります。その点では、鎌倉幕府の達成は前の時代に比べるとほとんど革命といってもいい水準にあると思います。

武士の参加という政治形態を構想してすすめたのは、もちろん言うまでも無く鎌倉幕府創設者の源頼朝です。貴族政治の形態から独立した幕府という独自の組織を持ち、しかも本拠を63904鎌倉に置くことで、その形態が実現されました。頼朝が仮に政権を京都に移したり、自らが貴族政治の中に地位を占めたりしていたら、平家と大きくかわることはなかったでしょう。東国という新開地にあって、京都から離れてこそはじめて頼朝の構想は実現できたと言えます。また、頼朝が基盤とした東国の武士達の希望でもあったことは間違いないでしょう。

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2006年03月11日

御家人相互の平等性(3)

御家人相互の平等性の理念がいかに強固に浸透していたかをしますいい例が、63661熊谷直実の話です。

1187(文治3)年8月、鶴岡の放生会(ほうじょうえ)に際して流鏑馬が行われ、63661直実は的立役を命じられました。ところが63661直実は憤慨して、御家人は皆傍輩であるはずなのに、射手は騎馬で的立役は歩行だというのは、はじめから優劣が決まっているようだ、こんなことでは命令に従うわけにはいかないと言って拒否しました。頼朝は重ねて、こうした役目はその人の器量によって仰せ付けるので全く優劣は関係ないし、その起こりを尋ねれば的立役のほうがむしろ重い役なのだといって宥めましたが、63661直実は聞かず、遂には所領召し上げの科に処せられてしまいます。63661直実の中に御家人の平等という理念がいかに強固に根を張っていたかが読み取れましょう。

鎌倉殿一人を除いて御家人は平等・対等という、この理念の中に、鎌倉幕府成立の最大の社会的な意味が示されていいます。鎌倉幕府の成立が、単に支配者が貴族から武士に代わったということだけを意味するなら、社会にとっての変革としての意義は無いに等しく、それは政治的な発言力を持つ階層の拡大だったと言えましょう。


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2006年03月10日

御家人相互の平等性(2)

前述の小山氏の挿話や『平家物語』の川原兄弟の話の要点は本当はどこにあるのでしょう。

これは、小山氏のような大領主の前で小領主の一介の御家人を褒めた時、頼朝がその格差を知らなかったわけではないと思います。現実に存在する大領主と中小領主との格差、それは小山政光の指摘を待つまでも無く厳として存在していました。ですが、頼朝はあえてその格差を無視して「御家人」という共通する範疇でくくっていて、その上に御家人の運命共同体としての頼朝政権という、虚構でもある共同体を描くことによって、はじめは東国中心の武士達、またさらに西国の武士達をも合算して、平家打倒へと駆り立てることができたと言えます。

そういう意味でも御家人というのはひとつのフィクションでした。そして政光は「今度においては自ら合戦を遂げ頼朝に無双と呼んでもらおうと口に出してしまったとき、頼朝の術中に陥って自らを熊谷と同じ列においてしまった・・・と言えます。

笠松宏至氏は「中世の‘傍輩’」という一文の中で、鎌倉殿ー御家人の主従上下、一対一の人間関係を起点にして成り立っている御家人制度では、御家人相互には「御家人は皆傍輩なり」という現実を離れた理念があって、そこでは御家人同士は何らかの意味で平等・対等であることが根本条件だったことを指摘しています。


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2006年03月09日

御家人相互の平等性(1)

当時の「御家人」は、相互の平等性というフィクション性を持っていたとも言われています。

このことと関連する奥州合戦の際の有名な挿話があります。

1189(文治5)年、奥州合戦の往路、下野国古多橋の駅に着いた頼朝は、まず宇都宮に奉幣して願を立てたあと、宿に入りました。この時、紺直垂上下を着た者が頼朝の御前にやってきました。折から傍にいた小山政光頼朝にこれは何者かと尋ねますと、頼朝は本朝無双の勇士熊谷小次郎直家であると答えます。そこで政光の子の朝光が何によって無双と号するのかとさらに尋ねると、頼朝は、手(グー)一の谷以下の戦場で父・63661直実と父子相並んで命を落としそうになったことが度々に及ぶからだと返事します。

すると、それを聞いた朝光は大いに笑って、君のため命を棄てるのは勇士の志すところであって、どうして直家に限ったことだろうか、直家のような人々は召し使っている郎従が無いので、自分が直に勲功を励んで、その名を揚げるが、政光のように家来の多い武士は、ただ朗従等を遣わして忠節を尽くすのである、だが、こうなった以上、今度は自ら合戦して頼朝に無双の勇士と呼ばれようと、子息の朝政・宗政・朝光や猶子の頼綱らに下知したので、頼朝が興がったというお話です。

これは東国の武士社会にとっては何年か暮らした者ならば常識的なものと推測されます。このような事柄を、頼朝がしかも平氏打倒の後という、遅い時点で、はじめて教えられるというようなことがあるとは思えません。

平家物語』でも、生田の森の合戦義経の手に属して先陣を駆けましたが、後続無くあえなく討ち死にした川原太郎・次郎兄弟の話の中で、兄の太郎が次郎に語る形で、
大名は、我と手をおろさねども、家人の高名をもって名誉す。我らは自ら手をおろさずは叶い難し
と言わせています。これも小山氏の話と共通していて、いずれも常識に触れているにすぎないと判断できます。

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2006年03月08日

関東武士の気質

10世紀の「将門の乱」にみるように、関東武士は古代より自立性が強いように思われます。これは、経済圏が京都と結びついてなく、朝廷に頼らなくても自活できたのに、税だけは朝廷にしぼり取られるという不満が根底にあったからでしょう。

頼朝は源氏の嫡流。そんな武士の棟梁が幸いに伊豆にいる・・・。以仁王(もちひとおう)の令旨が出た今こそ独立のチャンス、そう思った関東武士が、頼朝を奉じて朝廷(平氏政権)に反旗をひるがえしました。

だから頼朝は当初、関東統合の「象徴」として実権をもたなかったし、御輿として63904鎌倉に鎮座している必要がありました。

実際、頼朝は自ら平氏討伐に向かいたいと考えたようですが、関東武士がそれを許さなかったと推測できます。頼朝が老獪な63905後白河法皇と接触することで朝廷に取り込まれ、独立と言う体裁が保てなくなることを心配したのでしょう。事実、義経63905後白河法皇篭絡されていますし・・・。

ですが、関東武士が奥州を評定する頃になると、頼朝は幕府の実権を握りはじめ、上洛に反対する有力御家人・上総広常を謀殺してまでもそれを強行できる力をもつにいたっています。それで、朝廷との連携を深めつつ、征夷大将軍という官職を背景に、御家人達を統率していこうとする動きを強めたのでした。

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2006年03月03日

九条兼実との謁談(2)

頼朝と九条兼実との謁談で、頼朝の言葉は下記のようでした。

天下遂に直立すべし。当今(後鳥羽天皇)幼年にましまし、尊下(兼実)また余算なほ遥かなり。頼朝また運あらば、政(まつりごと)何ぞ淳素(簡素)にかへざらん哉。当時(現在)は偏に法皇に任せ奉るの間。万事叶ふべからず」(『玉葉』建久元・十一月九日)

天下直立」のために政治の「淳素」を説く頼朝は、63905法皇の政治の弊におわせ、天皇も若く当面は、63905法皇に一任せざるを得ないことを語りつつ、その没後の政治刷新の機会をにおわせていました。
示す所の旨、大いに甚深なり」とは、頼朝の言葉を聞いた兼実の感想ですが、それはまた、自身の共通する想いだったと思われます。

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2006年03月02日

九条兼実との謁談(1)

京へ上洛したさいに頼朝が気にかけていた人物がいました。親幕派公卿の九条兼実です。63905後白河法皇と政策上衝突することも多く、両者は円滑を欠いていたといいます。63905法皇とのそうした関係が、兼実頼朝を接近させたとも言えるでしょう。対抗すべきそれぞれの対象が共通していればこその協調関係でした。公家と武家を代表するこの両者が、共有する63905後白河院への認識は、ある程度一致していたに違いありません。

頼朝は上洛直後の九日参院を果たしましたが、ついでに参内し、この兼実と面会しました。清涼殿の「鬼の間において頼朝卿と謁談」と、『玉葉』は語っています。限られた時間の中で、種々のことが談ぜられたことでしょう。それと同時に、政界のこらからについて、議されたと思います。
 

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2006年02月28日

念願の征夷大将軍に就任!

奥州藤原氏を滅ぼした源頼朝は、翌1190(建久元)年、大軍を率いて都へのぼり、63905後白河法皇とはじめて対面しました。その場で頼朝は権大納言に叙され、右近衛大将の職を賜って全国の軍事・警察権を朝廷から委託されました。ですが、頼朝が本当にほしかったのは、ちっ(怒った顔)征夷大将軍の地位だったと言われています。


ちっ(怒った顔)征夷大将軍とは、朝廷の委任を受けて軍事権を握り、蝦夷(えみし)討伐と東国支配を行う役職です。頼朝は自分の政権を権威づけるために、どうしてもちっ(怒った顔)征夷大将軍になりたかったのですが、63905後白河法皇がそれを許しませんでした。ですが1192(建久3)年に63905後白河法皇が死没したことで、この年、頼朝はついにちっ(怒った顔)征夷大将軍に就任します。

そもそも「幕府」という呼称は、征夷大将軍の陣所を意味します。しずれにせよ同年、名実とともに頼朝の政権は、「鎌倉幕府」と呼ばれることになりました。


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2005年10月05日

●源頼朝●頼朝の悪口

1185(元暦2)年4月15日、頼朝は、自分に無断で朝廷の官職に任ぜられた関東の御家人二十四名に対して、厳しい命令を下しました。すなわち、尾張(愛知)・美濃(岐阜県)の国境に位置する墨俣川より東へ下向してはならない、といものでした。墨俣川より東が頼朝の勢力圏でした。もしこの命令に背いて下向するものがいたら、領地を没収して斬罪に処すというものでした。

よほど腹に据えかねたのでしょう。二十四名の御家人の名前を列挙して、その名前の下に悪口ともとれる註を書き連ねました。この名簿は『吾妻鏡』(元暦二年四月十五日条)に見えますが、そのいくつかを挙げてみます。

兵衛尉(ひょうえのじょう)に任ぜられた後藤基清については、その目がネズミのようにいかにも臆病そうな目をしていたのでしょう。
目は鼠眼にて、ただ候ふべきのところ、任官希有り」と記しています。

右衛門尉に任官した水瓶座平山季重については、そのあまり利口そうではない顔つきにまでケチをつけています。
顔はふわふわとして、希有の任官かな

刑部丞に任官した梶原朝景(景時の弟)は、若禿で額から後頭部にかけてはげ上がっていたのでしょう。
音様(こわざま)しわがれて、後鬢さまで刑部がらなし
まったくハゲのくせに生意気な奴め、といった頼朝の声が聞こえてきそうな評です。

その他にも、「頸玉に厚く金を巻くべきなり」(渋谷馬允の評)、「大虚言(おおそらごと)ばかりを能として、えしらぬ官好み」(中村時経の評)、「色は白らかにして、顔は不覚気なるもの」(豊田義幹の評)、「声様まことに臆病気」(宮内丞舒国の評)、「件の両人鎮西に下向するの時、京において拝任せしむる事、駘場(たいば)の道草喰うがごとし」(八田知家・小山朝政の評)といった具合の罵詈雑言が記され、感情を抑えきれない頼朝の一面がうかがい知れます。

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2005年06月29日

●源頼朝●〜義経西へ(1)

兄弟の対面後、木曾義仲が破竹の勢いで平氏軍に連戦連勝し、平氏を都から追い出して頼朝よりも先に都入りを果たしましたが、、入京後の治安は悪化し、頼朝上洛を望む声が高まりました。

1183(寿永2)年の閏10月、むかっ(怒り)後白河法皇は、頼朝を元の官職である従五位下左兵衛佐(じゅごいげさひょうのすけ)に復帰させて、頼朝の東国(東海道・東山道)支配権を保証する命令(十月宣旨)を下しました。これには義仲をはばかって北陸道は除かれましたが、頼朝の東国支配が公的に認められ、これまでの朝敵の立場を公式に取り消された瞬間でした。

頼朝は、さっそく十月宣旨によって下された権限を行使し、弟の義経を伊賀・伊勢(三重県)に派遣。閏10月の初めに、わずか数百の兵を率いて鎌倉を出発した義経一行は、その月の下旬には伊勢に、さらに11月7日には近江に入り、義仲の動向をや京都の政情を窺っておりました。

hieizan.jpg
大津からの比叡山
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2005年05月28日

●源頼朝●〜安房国への渡海

5/25にpapichanさんの記事、<真鶴半島と頼朝>で鎌倉殿はどのようにして安房へ渡ったのかというのが気になりました。そこで、安房国へ渡海経路を推測してみようと思います。

石橋山の合戦による敗北で1180(治承4)年、8月28日、63730土肥実平らわずかの兵とともに相模湾の真鶴岬より小船で安房(千葉県)に逃れた頼朝は、29日、安房の猟島(現在の竜島)に到着しました。ここで房総への渡海はどのようになされたのでしょうか。

当時の相模湾の沿岸付近の潮流は、午前中は真鶴岬付近では、北、江ノ島付近では東に流れ、午後一時から二時頃を境に逆向きの流れ(図の黄緑線黄色線/最大0.3ノット:図が見辛いですがお許しください)になったと推定できるそうです。また、その沖には逆時計回りに東から西に流れる海流(図のオレンジ線ピンク線/最大2ノット)があって、さらにその沖合いに伊豆半島と伊豆大島の間を通り、房総に抜ける海流(図の水色線/最大4ノット)が流れていました。

以上の点を考慮して、頼朝の房総への渡海ルートを検討すると、相模湾の沿岸近くを真鶴岬から三浦半島の西側に至って、さらに三浦半島沿いに南下し、浦賀水道を越えて安房に向かう図の黒線のルートと、真鶴岬から相模湾の沖に出て、東から西に逆時計回りに流れる海流や、伊豆半島と伊豆大島の間を通って房総に抜ける海流を利用して安房に向かう図の赤線のルートの二つが想定できると言います。しかし、前者の黒線ルートをとった場合は、潮流の変化からこれを渡りきるには一日では無理であるばかりか、沿岸近くを航行するため陸上から発見しやすいという難点があります。これに対して後者の赤線ルートは、直接海流を利用するため日程的には問題ないです。従って、頼朝は後者の赤線ルートを使用した可能性が高いと思われます。
(尚、青線茶色線紫線緑線も海流です)


TVでは安房国への渡海は放映されずサラッと流されたため、残念でしたが知識として知っておくとまた見方が変わるかもしれませんね♪


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2005年05月23日

●源頼朝●〜ムード十月宣旨

宣旨は、本来天皇の命令を伝える文書の一様式ですが、ここでは後白河法皇が主催する朝廷から出された物です。

1183(寿永2)年10月に頼朝にあてられた宣旨で「東海・東山両道諸国の年貢・神社仏寺並びに王臣家領荘園は元の如く領家に従うべし。不服あらば頼朝に触れて沙汰を致すべし」という内容でした。
頼朝は、東海・東山・北陸三道について、このような内容を奏請したのに対して、北陸に根拠を置く源義仲がいるので、この宣旨では北陸道は除かれたと言います。頼朝の申し入れは地方にある荘園が、戦乱のために武士に抑えれらている現状の中、京都の貴族達が歓迎したものでした。

頼朝に沙汰をさせるという事は、彼にこの地方の裁判権・強制執行権・追捕検断権を付与するということで、頼朝の権限を明確にしたものであると同時に、頼朝にとっては中央政権から正式にその存在を認められたものでした。

このムード十月宣旨は、頼朝に東国行政権を与えた意義を持つ重要なものであって、ぴかぴか(新しい)鎌倉幕府成立の時点をここに置く説(1183年説)もあるほどです。
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2005年04月16日

●源頼朝●〜大工の馬事件〜

頼朝義経の兄弟再会後、義経が鎌倉でどのような生活をしていたかは定かではなのですが、1181(養和元)年、7月20日、一つの事件が持ち上がりました。

7月20日、鎌倉では鶴岡八幡宮で若宮の棟上げ式が行われました。この儀式は東国武士らの精神的な結束を図る上でも重要な儀式でした。頼朝は社頭の東方に仮屋を建てそこに着座し、御家人達はその仮屋の南北に伺候しました。

やがて儀式が進み普請を命じられた工匠(たくみ)たちに馬を与えることになりました。頼朝は多くの御家人達が居並ぶなか、「馬をひけ」と義経に命じました。義経は「下手を引く者が居ません」と言って渋ります。するとすかさず頼朝は「63732畠山重忠佐貫広綱がいるではないか。人が居ないとは言わせないぞ。馬を引くなど卑しい役だと思い、何かと難くせをつけて渋るのだろう」と言いました。
この勢いに「九朗主すこぶる恐怖し、すなわち座を起ちて両疋(りょうあし)を引く」(『吾妻鏡』)
義経は恐怖で顔をゆがめ、一度目は「63732畠山重忠と、二度目は佐貫広綱と組んで馬を引き兄の命に従いました。

兄は一体何を思ってこんな役を自分に課したのだろう。母こそ違えど、義朝を父とする同じ兄弟ではないか。
義経頼朝の連枝(弟)として御家人よりは一格も二格も高いと思っていたに違いないです。
しかし、清和源氏の正嫡を標榜し、東国経営に余念がない頼朝にとっては自分以外はたとえ、それが肉親であっても全て従うべき人達でなければなりませんでした。それが、頼朝の論理でした。

若宮の棟上げ式の際に、義経に対してとった態度は頼朝の一貫した姿勢の表れにすぎなかったのです。この一件によって、弟・義経といえども63732畠山重忠や佐貫広綱同様、鎌倉殿の御家人の一人に過ぎないのだということが広く人々の間に行き渡りました。


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        鶴岡八幡宮
ニックネーム ちこりん at 22:15 | Comment(10) | TrackBack(3) | ●源頼朝●

2005年04月15日

●源頼朝●〜平清盛の死

京都では清盛が、富士川の平家のふがいない敗戦に気落ちしたせいか、にわかに発病しました。高熱を発して、どんな治療もききめなしでした。

公家の日記には「頭風」とか「動熱悶絶」とみえ、現代風に言えば風邪からなる肺炎となり、頭痛と高熱で悶絶したようです。その高熱ぶりは、そばによっただけでも熱気が感じられるほどで、板に冷たい水を注いで、その上に伏し転んでいたと言います。『平家物語』では「あっち死」と記されてて、ずいぶん苦しい病気であったに違いないです。

1881(養和元)年、閏2月4日、清盛が嗣子・宗盛に残した言葉は次のようなものだったと伝えられています。

「われ、かたもなくなりなむ後も、仏事孝養すべからず。堂塔もたうべからず。急ぎ討手を下し、頼朝が首を刎ねてわが墓前に置くべし。これぞ、今生後生の孝養にてあらむるぞ。」
享年64歳の生涯でした。

このような平家の悲運に対して、鎌倉の頼朝は着実にその勢力をかためていました。しかし、そのうち、頼朝は東国の主として、つまり東国武士だけの棟梁として小成に案じているわけにはいかなくなっていて、頼朝自身の意思いかんにかかわらず、天下の形勢が変転してきたのでありました。それはまず信州に起った木曾義仲の動向からでした。

戦いに勝つことが、まず武将としての必須条件であり、富士川の合戦は東西戦力の差を明白にしました。今度は同じ日本の、木曾で育った戦力と鎌倉を中心とする戦力の角逐です。しかも、都には権謀にたけた貴族の知力が依然として政治をあやつっています。なかなか前途は予断しがたい、というところが、この治承4年末から寿永にかけての形勢でした。

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          六波羅蜜寺
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2005年04月14日

●源頼朝●〜鎌倉の主〜

11月17日、頼朝は鎌倉に帰りました。そして、翌月の12月12日に大倉の新邸が竣工し、盛大な移徙(わたまし)の儀式を行いました。

『吾妻鏡』は「推シテ鎌倉の主トス」とこれを表現しています。つまり、官職も位階も持たないが東国の実力的支配者が、この鎌倉に居を定めた、という意味かと思われます。

これまでの武将がやったように、地方の騒乱鎮定を功として京へ上がって官位昇進を願いその官位の威光で地方の豪族を従えようとしたやり方よりも、この頃の頼朝の行動の方が確かに地方民をつかむことがよくできたでしょう。自分達の棟梁が自分達の地域の近くに住みついて、そおを本拠に築き上げているのだから、長い間首領を求めて動揺してきた東国の武士・農民にとって、これまでにない安心感を覚えます。

二位・三位とか大臣・大将・納言(なごん)などの箔(はく)は、そろそろはげかけて来た所と言っていいでしょう。年貢ばかり持っていって、他からの侵略から護ってくれないような本所・領家に、いつまでも言うなりになってはいない地方民でした。だから地方の農民の間から武装した武士が生まれ育ち、自分の土地を自分で護ろうとする。従来からの地方官や本所・領家の家司(けいし)などはあてにならないわけです。が、だからと言って弱肉強食の無政府状態がいつまでも続いては、分裂してしまいます。


ちょうどそのような時期に、家柄もよく、由緒正しい武将が、その農村武士の棟梁として鎌倉の地に本拠を構えたのでした。つまり、前代からの律令的体制とつながりを持っている、と同時に、新しく興った農村武士の首領であるという二つの要素を兼ねていることが、当時の武将の必要条件でした。平将門頼義義家以来、そのような武将が東国にいなかったわけではないですが、前者に傾くものは、とかく地方から離れて貴族の従兵にとどまりがちであったし、後者の性格が強いものは、同士討ちをくり返して地方民を心服させるだけの政治性に乏しい、というものでした。いわば、貴族性と土豪性とを調和させる所に、頼朝の役割がありました。両者の激突を防ぐ緩衝地帯として潤滑油的存在ともいえます。そして、それはあまり強固な地位とは言えませんでした。しかし、平家政権のもつ過渡性に比べれば、富士川の勝利と常陸評定(佐竹征伐)を成し遂げた今は、頼朝を頂点とする東国の武士・豪族の力は、中央から指一つさされないだけの体制を備えて来ました。

東国勢の追撃を免れた平氏側では、12月2日に蔵人頭平重衡を大将として再び征東軍を進発させましたが、これは途中で引き返しました。もうそれだけの力はなくなっていたからです。

源氏の旗挙げはこれで一段落しました。頼朝は、後白河法皇に密奏して、自分の行動が院に敵対するものではないことを明らかにして、その果たすべき役割に手を染めました。続いて伊勢の皇大神宮に告文(こうもん)・願文を捧げて同様のことを表明していますが、面白い事に、前に頼朝を謀反人扱いした九条兼実(かねざね)が、この神宮への告文を見て「文章ハナハダ逆ニシテ誠二嘲ルニ足ルモノカナ」と軽蔑しながらも、その挙兵が以仁王の令旨によることを初めて知り、そして神宮への恭順の態度を半信半疑ながら意外に感じて認識を改めようとしています。

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   大蔵幕府跡
ニックネーム ちこりん at 21:20 | Comment(18) | TrackBack(2) | ●源頼朝●

2005年04月13日

●源頼朝●〜佐竹氏征伐〜

兄弟の多面を果たした翌々日の二十三日、頼朝は相模の国府まで帰り、論功行賞を行い、挙兵以来頼朝に従ってきた東国の武士達の所領を安堵するとともに、新たな所領を与えました。この日、石橋山の合戦で平氏方だった63660大庭景親が降人となって現れましたが、頼朝はこれを許さず、身柄を一時63651上総広常に預け、三日後、固瀬川において斬首、梟首しました。

次に、頼朝は常陸国(茨城県)に向かい、佐竹氏を征伐しました。佐竹氏は元は源氏で、新羅三郎義光の子・義業(よしなり)が常陸国久慈郡佐竹郷に土着し、次第にそのあたりに勢力を広げ、ついには関東東北角の巨族になりました。同じ源氏だけに頼朝のことを軽んじていたのかもしれません。佐竹氏は、頼朝の挙兵以来、頼朝には味方せず平氏に与する態度をとり続けていました。

11月4日、常陸の国府に入った頼朝は、翌5日に佐竹氏の居城である金砂城(かなさじょう)を攻め、63651上総広常の奇策を用いり、電車佐竹秀義(当主・隆義の子)の叔父・佐竹蔵人を利をもって味方につけ、その案内で城の後方を奇襲し不意をつき、その結果電車秀義は奥州に敗走しました。
このとき、逃亡した佐竹の家人達が出て来て、その中に一人、しきりに涙ヲ流す者がおりました。「なぜ主人とともに死ななかったか」と尋ねたところその者は「平家追討をさしおいて御一族を滅ぼされることは、まことによくない。国敵は一同が力を合わせて当たらなければならないのに、罪もない一族を殺すならば、御身の敵は誰に命じて退治させる所存か。また御子孫の守護はどうするのか。ただ今こそ諸人は怖畏(ふい)の心で従っているが、真実はどうかわからない。さだめて後代に非難をのこすことになろう」と直言してはばからなかったので63651上総広常はただちにこれを斬ろうとしましたが、頼朝はそれをとどめて御家人の列に加え、岩瀬与一郎という名前を与えたと言います。

こうして、佐竹氏の広大な所領は没収され、頼朝の家人に分け与えられ、佐竹氏征伐をした頼朝は17日、鎌倉に戻りました。
関東の大半を勢力に入れ、東国の経営に余念がない頼朝に対して、この間の義経の消息は不明です。頼朝に従軍していたか、いなかったのか、史料は黙して語りません。

電車佐竹秀義・・・父は佐竹隆義。名門清和源氏の流を汲み、常陸国の奥七郡を領しました。頼朝挙兵時は、平氏に従って反頼朝を示しました。そのため、1180(治承4)年、頼朝の佐竹討伐を受け敗北しましたが、以後頼朝に従い奥州征伐に参戦し、戦功として頼朝から白旗の上に出月の扇をつけた旗印を授かりました。これが佐竹の家紋になったと言われています。


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    佐竹氏家紋
ニックネーム ちこりん at 20:33 | Comment(3) | TrackBack(0) | ●源頼朝●

2005年04月12日

●源頼朝●〜義経との対面〜

富士川の合戦後、黄瀬川の旅宿に奥州から異母弟であるわれらが義経が馳せ参じました。義経については後述するとして、頼朝との顔合わせは『吾妻鏡』1180(治承4)年、10月21日の条に以下のように記されています。


「今日弱冠一人、御旅宿ノミギリ(入り口)ニテ、鎌倉殿二謁シ奉ルベキノ由ヲ称フ。実平(土肥)、宗遠(土屋)、義実(岡崎)、等コレヲアヤシミテ、執啓(とりつぎ)スルコト能(あた)ハズ、剋(とき)ヲ移スノトコロ、武衛(ぶえい=頼朝)ミヅカラコノコトヲ聞カシメ給ヒ、年齢ノ程ヲ思ヘバ奥州ノ九朗カ、ハヤク御対面アルベシト云ヘリ。ヨツテ実平カノ人ヲ請ズルニ、ハタシテ義経主ナリ、即チ御前二マヰリススミ、タガヒ二往事(昔)ヲ談ジ、懐旧ノ涙ヲモヨホス」

肉親対面の感動的場面です。後年、この二人が仇敵のように憎み合い、弟が兄のために命を絶たれる運命になろうとは誰が想像したでしょう。
ただこれ以降、義経の消息は分からず頼朝に従軍していたのか、いなかったのか、鎌倉ではどのような生活をしていたかは史料は黙して語らずです。

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           黄瀬川
ニックネーム ちこりん at 17:20 | Comment(16) | TrackBack(6) | ●源頼朝●

2005年04月11日

●源頼朝●〜富士川の合戦

1180(治承4)年9月29日に京都を出発した平維盛(これもり)・忠度(ただのり)・知度(とものり)らの征東軍は数万騎をもって10月13日に駿河の手越の駅に着いたとの報告がありました。『平家物語』では、維盛を大将軍、忠度を副将軍として三万余騎が9月18日に福原の新都をたち、20日に旧都を発する。そして、山河を越えて10月16日に駿河の清見ヶ関に着いた時は七万余騎になり、先陣が蒲原富士川に達しても、後陣は約五十キロ西の手越宇津谷だった、と書いてあります(日付については、ここでは『吾妻鏡』に従っておきます)。

10月16日、せっかく新装した大倉の邸に落ち着く暇もなく頼朝はこの平軍を迎え討つために鎌倉を出発。軍勢は二十万と伝えられています。
頼朝にとって相模の乙女座大庭景親・波多野義常(よしつね)や伊豆の伊東祐親のように危険な存在もあるし、関東北部には頼朝の背後を脅かす常陸の佐竹・志太・下野の足利という反対勢力があって不安も大きい状態でした。遠方ながら木曾・義仲が信濃から上野国に入ったという情報は心強かったですが、特に源氏方にとって決定的な幸運だったのは、甲斐源氏の武田・安田・逸見らが旗挙げ以来の腹心である加藤次影廉・光影を隊列に加えながら南下して、駿河の目代・橘遠茂(とおしげ)の軍と富士山麓で合戦し、これを撃破したことでした。

10月18日の夜、東海道の黄瀬川の宿に着いて、甲・信の源氏とビール北条時政と合体した頼朝はこの報告によって自身を固め24日をもって平軍と決戦の日と定めました。
同時に、この駿河の有力な平氏方の目代が滅びたことを知って、伊豆・相模にあって大庭と結び頼朝に敵討した武士達は、続々と降参してきました。
牡羊座伊東祐親が生き捕られて、この旅宿に連れられて来ました。伊東は伊豆の鯉名(小稲)から船を出して平軍に加わろうとしたのを天野遠景に捕らえられました。頼朝は斬らないで63728三浦義澄に預けました。伊豆配流中に伊東の娘と通じて牡羊座祐親に殺されそうになった時、自分を助けて逃がしてくれた牡羊座祐親の次男・祐清の事を思い出しました。祐清に褒賞を与えようとした所、「父が敵として囚人になっているのに、息子として賞を頂くわけには参りません」と言って、平氏方に走ってしまいました。。牡羊座祐親や祐清のその後については、二年後の寿永元年2月の『吾妻鏡』にも記されていて、その潔さが誉められていますがそれはともかくとしてこの時の頼朝の態度には余裕が伺われます。

10月24日を決戦日と定めて、富士川の東岸に陣をとった源氏軍は自信にあふれていて、一方の平氏軍は、それに比べると戦意が弱かったように見えます。大体頼朝挙兵の報が乙女座大庭景親から都に伝えられたのが、9月2日でありそれから維盛の出発まで1ヶ月近くの日が費やされています。京都出発についても吉日を選ぶ選ばないという争いが大将の維盛と参謀の上総守忠清との間に起こって、円滑に進みませんでした。しかもこの年6月に決行された福原遷都は、貴族や比叡山から猛烈な反対を受け、反平氏的気勢がいよいよ高まっています。熊野の湛増(たんぞう)が平氏に叛き、近江からも武士が決起。さらに、僧兵の動きはこれに応じて危険な状態でしたのでこのような不安を背後に背負っての東国攻めでした。そして又、頼みにしていた駿河の目代・橘遠茂は滅んでました。『平家物語』では蒲原に着いてからまで大将軍維盛と侍大将忠清とが不仲であったことを記していて、それは大将維盛の出発が遅れたために、武蔵・相模の畠山・大庭などと合体できなかったことを忠清が嘆いています。
『源平盛衰記』にも斎藤別当実盛(さねもり)の言葉として「これにつけても、あはれとく御下向ありて、武蔵相模の勢をなびかして攻め下らせ給へと、再三申し候ひしものを、後悔先に立たぬことなれども、口惜しく候ものかな」とあるので、忠清や実盛のような東国に関係をもつ武将にとっては、やはり陸戦での関東武士の精鋭さを知っていて、都ぶりになれてきた平家の公達の悠長な動作がまだるっこしく思われていたのでしょう。そして、この1ヶ月で東国の大部分が頼朝方に移ってしまいました。

武蔵の長井(熊谷市の北方)に住んでいた斎藤実盛がこの時維盛に語った東国気質(かたぎ)の話は有名。これを聞いた平家の武士達は、みな震えわなないたと言われています。

とにかくこの源平初の対戦は、戦わずして勝敗が明らかでした。『吾妻鏡』によると、10月20日に頼朝は富士川の東岸の賀島(加島)に到着し、維盛以下の平軍はその西岸に陣をとり、川をはさんで両軍が向かい合いました。その夜更けになって甲斐から参会したカメラ武田信義の一隊が密かに敵陣の後方に廻って攻めようとした所、富士川の河原の沼に集まっていた水鳥の大群が驚いて飛び立ちました。その羽音が、大軍が襲い掛かるように聞こえたので平氏の士卒は驚き騒ぎました。『平家物語』では平家の武士達は「すはや、源氏の大勢の寄するは。斎藤実盛が申しつるように、定めて搦手も廻るらん。取り込められては叶ふまじ。ここをば引いて、尾張河、州俣(すのまた)を防げや」と、われさきに逃げ出し、あまり慌てて弓矢も忘れ、馬が自分のか他人のかもわからない。中には、つないだままの馬に乗ったので杭をめぐってばかりという者もおり、呼び集めていた遊女どもは頭を蹴破られたり腰を踏み折れたりという有様だった、と言います。
この浮き足立った武士の有様を見て侍大将の忠清は「東国の士卒は残らず頼朝に従ってしまったとみえる。われらは、不用意に京都を出発して来て、いつ途中で包囲されて全滅することになるかわからない。この際、早く都に戻って、他日の計画を練り再出発するほうがよいと思う」と言いました。
維盛以下は、その進言を入れ、夜の明けるのを待たずに急ぎ退却して京へ向かいました。
このようにして、一戦を交えずして東軍の勝利に終わりずいぶんあっけない勝負でした。

この戦いで頼朝としては、甲・信を合わせた東国武士軍の優越を、明らかに天下に公示することができました。

この富士川の合戦に乗じて、そのまま京都へ攻めあがろうとした頼朝が、、台風千葉常胤63728三浦義澄63728雷上総広常らの、東国のなお危険な状勢を説いて諌めた言葉を受け入れて、それを思いとどまったのは誠に賢明でした。鎌倉に腰を据えて、まず東国を固める方針をとりました。

頼朝としては、ここまでは武将達の作戦に従って采配を振ればよく、武士の首領としての威と情とを示す事が大切でした。
しかし、富士川の合戦で平氏を追い戻してからは少々変わってきて、東日本の一大勢力として京都の貴族政権との交渉を持つことになりました。東国の武士を代表し、或いは代弁して、公家と折衝することが今後の頼朝に課せられた最大の任務となっていきます。


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富士川
ニックネーム ちこりん at 17:15 | Comment(6) | TrackBack(4) | ●源頼朝●

2005年04月10日

●源頼朝●〜頼朝&政子〜

頼朝は伊豆の流人時代にー(長音記号2)北条政子と結婚していますが、ー(長音記号2)政子の父・プレゼント北条時政は最初、罪人頼朝との恋仲は平氏に対する謀叛と考え、ー(長音記号2)政子を館に閉じ込め、頼朝との仲を裂こうとしました。しかし、ー(長音記号2)政子は父の言いなりにならず、館を抜け出し激しい雨の降る中、頼朝のもとへ向かい、ついにプレゼント時政も結婚を認めることになったという記述が『吾妻鏡』に見えます。彼女の気性の強さを示すエピソードですね。

しかし、ー(長音記号2)政子が嫡子・頼家の懐妊中に頼朝は亀の前との浮気が発覚exclamationー(長音記号2)政子は怒って牧宗親に命じて亀の前を囲っていた屋敷を破却して、彼女に恥辱を与えました。
これを聞いた頼朝は怒って牧宗親の髻(もとどり:髪の毛をまとめて頭の上で束ねた所)を切って恥をかかせましたが、ー(長音記号2)政子も負けじと、亀の前に屋敷を提供した伏見広綱を遠江(静岡県)に流しています。武家政権を二人で築いただけあって、互いの夫婦喧嘩は一歩も譲らぬ壮絶なバトルだったようです。

プレゼント北条時政(NHKでは小林稔侍が役)・・・ー(長音記号2)政子ネット(枠付き)北条義時の父。1180(治承4)年、娘婿の頼朝の挙兵に従い、頼朝を補佐する立場で活躍。幕府設立時には、朝廷に守護・地頭の設置を認可させ、京都守護となります。
頼朝没後、後を継いだ頼家の親政を止めさせ、時政を含む十三人の合議制を確立。その後も将軍の外戚として幕府の実権を握りますが、次期将軍問題で息子・ネット(枠付き)北条義時と対立し隠退しました。

ー(長音記号2)北条政子(NHKでは財前直見が役)・・・プレゼント時政の娘。頼朝の妻。伊豆配流中の頼朝と父・プレゼント時政の反対を押し切って結婚。常に夫頼朝を陰で支えて続けた賢妻として有名。
頼朝没後は、出家して尼になりますが、幕府体制を磐石にするために幕政に参画。身内の問題や朝廷との権力争いなど多くの難題で心を痛めるものの、見事解決へと導き、その男性に劣らぬ政治手腕から「尼将軍」と評されました。

ネット(枠付き)北条義時(NHKでは木村昇が役)・・・プレゼント時政の次男。頼朝挙兵時から、父と共に従い1199(建久10)年、頼朝没すると、宿老十三人の合議メンバーに加わり頼家を補佐しました。その後、頼家を幽閉し実朝を将軍に擁立。父との次期将軍問題ではー(長音記号2)政子に加担して父を伊豆に追放。二代執権となり実権を握りました。承久の乱での勝利後は京都に六波羅探題を設置して執権政治の基礎を固めました。


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北条政子の供養塔(安養院)
ニックネーム ちこりん at 23:15 | Comment(12) | TrackBack(22) | ●源頼朝●

2005年04月07日

●源頼朝●〜鎌倉入り〜

10月7日、頼朝は房州から1ヶ月余りで鎌倉に入りました。鎌倉は南に相模湾を控え、背後には三方を山で囲まれた要害の地です。ここへ入るには数ヶ所の切り通しを通らなければならず、この切り通しさえ守備を固めておけば天然の城砦となるわけです。
頼朝はまず鶴ヶ岡八幡宮を参拝し、亡き父・義朝の住んでいた亀ヶ谷の旧跡に臨みました。頼朝はここに住宅を建てるつもりでしたが地形が広くなく、又既に岡崎義実が義朝没後を弔うために寺を建てていたこともあって別の地に邸を建てる事にしました。伊豆の秋戸郷に隠れていた政子頼朝が鎌倉へ入る以前に既に到着しておりました。そして10月11日、めでたく頼朝と政子は公然と同棲しました。

翌10月12日、小林の北山に鶴ヶ岡八幡宮を移しました。先祖の頼義が1063(康平6)年に京都の石清水八幡宮をこの鎌倉の由比郷に勧請し、1081(永保元)年にその子の、義家が修理を加えたと言われるいわば源氏の守護神です。これを前面に押し立てることによって東国武士に源家の当主ここに健在なることを強く心に焼き付けることができます。鎌倉と言う東国武士の本拠をこれから確立していこうとする時、つねに八幡宮を中心におく、という頼朝の方針は誠に賢明で東国武士の素朴な魂を掌握することに大いに役立った事でしょう。鎌倉に入ることは頼朝や北条の当面の目標でしたがこの時点では平氏にとってかわるとか、全滅させようとかは考えていなかったようです。

むしろ、右大臣兼実の日記『玉葉』にあるように「伝え聞くところによると、謀叛の賊義朝の子が配所伊豆国で凶悪なふるまいをしている」とか「伊豆の流人源頼朝が凶徒を語らって国々を侵略しようとしている。叛逆の至り、すでに常軌をこえている」というふうに都に伝えられ、そのように受け取られていることを、ひたすら怖れていましたし謀叛人扱いされたくなかったようです。『源平盛衰記』や『平家物語』には、石橋山の頃の頼朝は後白河法皇の平氏追討の院宣を受けていて、それを錦の袋にに入れて首にかけていた、とあります。これはそのままには受け取れないもので、やはり以仁王(もちひとおう)の令旨が強い拠り所で、東国武士にもそれを強調したものでした。院宣云々は、いわば頼朝の願望にとどまったものと思われます。

平氏の方で、以仁王(もちひとおう)の令旨を受けた源氏の一族を追討するというから、その弾圧に対して対抗しようとするのであって、特に院に向かってはもっぱら恭順の態度を表しています。そのあたりに頼朝の、東国武士と違った役割があり、一つの見方からすれば、古代政権への妥協という生ぬるさがあります。しかし、そうでなければ武家政権は成立しなかったともいえるわけで、貴族政権と武家政権が全面的に対決し衝突するためには、後の承久の乱までの年月を必要としました。


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         鶴ヶ岡八幡宮
ニックネーム ちこりん at 22:10 | Comment(2) | TrackBack(0) | ●源頼朝●

2005年04月06日

●源頼朝●〜上総氏・千葉氏・安達氏・武田氏・一条氏〜

雷上総広常・・・父は平常澄。上総・下総の支配権を継承した最有力在庁官人。千葉常胤とは従兄弟。保元の乱では義朝の子義平に従い、大内裏の緒門を守護しました。頼朝挙兵時には、大軍を率いて従うなど平氏討伐に貢献。頼朝の子頼家誕生の際には、引目役を果たし五夜の儀式を監督するなど頼朝の信頼が厚かったが謀反の嫌疑をかけられ梶原景時により謀殺されました。

台風千葉常胤・・・父は平常重。父より下総相馬御厨を譲与されましたが、支配権をめくり藤原親通・源義朝・平常澄と争いました。保元の乱義朝の郎党として出陣。乱後に御厨の支配を佐竹義宗と争いました。
頼朝挙兵の際に佐竹討伐を進言し相馬御厨を奪還。その後も、頼朝に従い、平氏・奥州討伐に参戦。戦功により奥州各地の所領を得ると共に幕府の宿老として重んじられました。

飛行機安達盛長(NHKでは草見潤平が役)・・・鎌倉時代に隆盛を極めた安達一門の祖。頼朝が伊豆に配流中の頃より側近として仕え御家人の中でも、一番頼朝の信頼が厚かったと言われてます。1189(文治5)年、の奥州討伐や頼朝の二度の上洛にも従軍。
頼朝没後は、宿老として十三人の合議制にも加わる。猫梶原景時の弾劾の際は子・影盛と共に弾劾状に名を連ねるなど幕政の中枢で活躍しました。

カメラ武田信義・・・甲斐源氏・清光の子。母は手興遊女。1180(治承4)年、、以仁王(もちひとおう)の令旨を受け頼朝に応じて信濃・甲斐の平氏討伐のため挙兵。黄瀬川で頼朝と対面後、富士川の合戦に参戦、平維盛軍を破りました。駿河国守護に任ぜられるなど源氏一門として重きを成しますが後年は後白河院の頼朝追討に加担した嫌疑をかけられ失意のうちに死去。戦国大名武田氏は後裔にあたります。

スポーツ一条忠頼・・・武田信義の嫡男にて弓の名士。木曾・義仲を追い詰めたほどの勇猛果敢な人物。一時は頼朝に従いますが反旗を翻し、加賀美光朝と反逆を企てました。結局は、宴会の席にて小山田有重・天野遠景らにより討死。


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武田八幡宮
ニックネーム ちこりん at 22:39 | Comment(13) | TrackBack(1) | ●源頼朝●

2005年04月05日

●源頼朝●〜再起〜

安房国に着いた頼朝は、まず安西影益をはじめ小山・下河辺・豊島・葛西らに手紙を送り参向を求めました。
又、大豪族・雷上総広常(ひろつね)のもとへ移り住む予定でしたがこの頃から、頼朝は慎重で警戒厳重な姿勢をとっており安西影益の言葉に従って、雷上総広常台風千葉常胤(つねたね)の所へはTV和田義盛飛行機安達盛長を使いにやり向こうから迎えに来るように命じました。そして、安房の影益の宅に滞在し近くの洲崎明神に参拝して、「武士達みな召しに応じて集まったら寄進する」との願書を納めることも忘れませんでした。

9月6日、TV和田義盛が帰ってきて広常から、台風千葉常胤と相談の上で参上しようとの返事を伝えました。飛行機安達盛長が千葉氏を訪ねると、常胤は子息らと同席して頼朝からの通達を聞き感涙があふれて物も言えない程でした。そして、現在の、頼朝の居所は要害の地ではないから早く相模の鎌倉に御入り願いたい。そこは、要害でありまた先祖以来の縁故の地であると。そして常胤が一族と共にお迎えに参向しよう、という心強い返答でした。
9月11日、、頼朝は安房の丸の御厨(みくりや)を巡見。ここは、前九年の役の戦功によって祖先の、頼義が領地として得た土地で、父の義朝は祖父の為義からこの地をゆずられてから、頼朝の官位昇進を祈ってこれを伊勢大神宮に寄進しました。頼朝としてはやはりこの伊勢神宮との結合を強調したいと思っていたので「大神宮の恵光が及んで宿望を達したあかつきには新しい御厨をこの国に作って寄進しよう」と直筆の願書を出しました。自分も神に祈る気持ちであったろうし、同時に大神宮が源氏を護ることを東国武士に知らせたいためでした。

9月13日、頼朝は安房を出発。安房の隣は上総国ですが、その地の豪族・雷上総広常は軍兵がまだ集まらないという理由でまだこの陣列に参じてきません。それで上総を通り越して下総国(市川市)に向かいました。下総の千葉氏はかねがね心を明かした腹心。また、ここは既に平氏の目代を台風千葉常胤の六男・胤頼と嫡孫・成胤が滅ぼしているので安全な地でした。
9月17日、頼朝は千葉一族に迎えられ「下総国府」に入りました。この時、頼朝の手兵は三百余騎、迎える千葉氏は、家長の常胤、長男・胤正、次男・相馬師常(もろつね)、三男・武石胤成(たねなり)、四男・大須賀胤信、五男・国分胤道、そして六男・東胤頼と嫡孫・成胤で軍兵はこれも三百余騎でした。前に討ったこの地の目代方の捕虜を見参に入れたり、源氏の一族で平治の乱で討死した毛利義隆の遺児・頼隆を贈り物として引き合わせたり大いに歓迎しました。

9月19日、雷上総広常の大軍がようやく到着。総勢二万騎と言われています。頼朝雷広常の遅参を怒って激しく責めました。雷広常にとっては意外でした。一介の流人の身で天下を治める平清盛に反抗しようとしている、頼朝が大将の器でなかったら、直ちに討ち取って平氏に献じようと内心考えながら一応は参加して来たのです。この大軍を得て大喜びすると思いのほか、遅参を叱責されたのでこれこそ主と仰ぐべき人物である、と心から服従を誓いました。

さて、武蔵国の江戸・葛西・畠山なども長井ノ渡で参陣し、頼朝は伊豆の流人であった域を脱し、関東全体の武士郡の棟梁に昇ってきました。北条時政がつかいに行った甲州からは、甲斐源氏のカメラ武田信義スポーツ一条忠頼が駿河国まで来会する手はずが整ったと報じてきました。また、常陸・上野などの国々からも参会する報告があり、現有の二万七千余騎に合わせると五万騎にも達するほどの兵力が期待されることになりました。

ちょうどこの9月の初めに木曾の義仲が挙兵したという噂が伝わってきました。また、異母弟の醍醐禅師全成が訪ねてきて、頼朝は嬉し泣きに泣いたと言われています。

こうして10月6日には武蔵から相模へと入り平氏の攻撃軍と正面から対戦することになりました。

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伊勢神宮・大宮
ニックネーム ちこりん at 22:30 | Comment(3) | TrackBack(0) | ●源頼朝●

2005年04月03日

●源頼朝●〜衣笠落城〜

1180(治承4)年8月26日、平家方の手(グー)畠山重忠・猫河越重頼犬江戸重長ら衣笠城の三浦氏を攻め、三浦方は三浦大介義明ダイヤ義澄CD義連(よしつら)・TV和田義盛金田頼次長江義景大多和義久らで応戦。
(衣笠城は三方若しくは四方が崖に面していて崖下に水流があるという馬蹄形の地形を利用した天嶮の城でした。)
三浦氏は前日の由比ヶ浜の合戦で疲労はなはだしく義明の厳命もありついに89歳の三浦大介義明を一人残して城を捨てることにしました。義明の最後については諸説があり「吾妻鏡」では猫河越重頼犬江戸重長等に討ち取られたとあり、「源平盛衰記」では郎党がむりに手輿に乗せて一里ばかり逃げましたが犬江戸重長に斬られたとあり、いずれにしろ壮烈な最期だったと思われます。

一方、ダイヤ義澄らは、船で房州に渡り、北条父子や岡崎義実・近藤国平らもやはり土肥の岩浦から船に乗り房州に向かいました。加藤一族もやはり老父影員(かげかず)を一人伊豆山に送って、光員・影廉兄弟は甲州に向かいました。

8月28日、頼朝は土肥の真鶴崎から小船に乗り房州を目指しました。翌29日、頼朝目土肥実平・とは安房国平北郡猟ノ島(かりのしま)に到着。北条時政以下先着の面々がこれを迎えました。惨敗して四散した将士達でしたがこの渡海上陸で一安堵という形でした。

猫河越重頼・・・河越重綱の次男。祖父・重頼の時より武蔵国入間郡河越荘司として勢力をもち、代々ここを本拠としました。源義仲追討・平氏追討に戦功を立てましたが、頼朝と、義経が不和になると娘が義経の正室であった事に連座して所領を没収されました。その後、特別な計らいで所領の一部を重頼の老母に譲渡されるものの、頼朝の陰謀により謀殺されたと言われています。

犬江戸重長・・・江戸重継の嫡男で「八ヶ国の大福長者」と称され武蔵国の棟梁と言われました。
1180年(治承4)年8月26日、猫河越重頼手(グー)畠山重忠・らとともに三浦氏の居城・衣笠城を攻撃し、三浦大介義明の首を挙げました。また、武蔵国へ入ろうとする頼朝を阻止した為、頼朝葛西清重に暗殺を命じましたが清重は固くなに辞退したと言われます。
その後は、長井渡まで馳せ参じ頼朝に服従を誓いました。

CD三浦義連・・・三浦義明の子・相模国三浦郡佐原郷を領していたので「佐原義蓮(よしつら)」と称しました。身の丈七尺五寸という長身で剛勇の士として名高く、頼朝挙兵時には父・義明、兄・ダイヤ義澄と共に参戦。その後の平氏討伐・奥州討伐にも加わり、本家三浦氏に劣らない活躍を見せ多くの戦功を立てました。
戦後、会津の地を賜りのちの名門・蘆名家(あしなけ)の祖となりました。

TV和田義盛・・・三浦義明の孫。三浦義宗の子。頼朝挙兵時に応じ活躍し侍所別当に任命されました。直情経行の性格で頼朝の信任が厚く頼朝没後、この頼家の将来を託されましたが北条氏勢力の確立を図る北条義時と対立。1213(健保元)年、義時を討つべく挙兵しますが一族の三浦義村の裏切りにあい鎌倉由比ヶ浜にて一族共々全滅しました(和田合戦)。

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     三浦大介義明像
ニックネーム ちこりん at 14:30 | Comment(0) | TrackBack(0) | ●源頼朝●

2005年04月02日

●源頼朝●〜由比ヶ浜合戦〜

かわいい由比ヶ浜合戦・・・酒匂川岬にいた三浦軍は頼朝敗北を知って三浦に帰ることにしましたが、途中鎌倉の由比ヶ浜で平家方の手(グー)畠山重忠と遭遇。この時双方で使者を送り和解が成立するかと思われましたが、三浦方の和田小次郎義茂がそれとは知らず畠山方へ斬りかかったので和議は決裂し、全軍あげての戦いとなりました。畠山氏は死傷八十余、三浦方は四人と言われています。これが由比ヶ浜合戦或いは小坪(こつぼ)合戦と呼ばれるものです。ダイヤ三浦義澄が本拠の衣笠に帰りつく間に、上総広常の弟・金田頼次が七十余騎を率いてダイヤ義澄方に加勢しています。

一方、別当永実の宅で一夜を過ごした頼朝は箱根も安全ではなかったので目土肥次郎実平・永実に付き添われ再び土肥の方へ移動。北条氏もやはり土肥に向かいました。

手(グー)畠山重忠・・・父は畠山重能(しげよし)。母は三浦義明の娘。頼朝挙兵時は平氏方について敵対していましたが、その後降伏して頼朝に属しました。源義仲追討・平氏追討・奥州征伐で活躍し剛勇廉着の性格から鎌倉武士の模範的存在となりますが1205(元久2)年、嫡子・重保(しげやす)と北条時政の後妻、牧ノ方の娘婿である平賀朝雅(ともまさ)とが争ったことから北条氏と対立。重保は由比ヶ浜で殺害され、重忠は次男・重秀と共に北条義時軍と武蔵国二俣川で交戦。善戦むなしく敗北し、重秀は自刃し重忠自身も壮絶な最後を遂げました。享年42歳。


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畠山重忠<矢先稲荷神社蔵>さんより
ニックネーム ちこりん at 22:35 | Comment(2) | TrackBack(0) | ●源頼朝●

2005年04月01日

●源頼朝●〜石橋山の合戦

ひらめき石橋山の戦い・・・頼朝は妻・政子を伊豆山・文陽房覚淵(かくえん)の坊に預け、自らは伊豆を出て相模の土肥郷(どひごう)<足柄郡>に赴きました。北条父子・佐々木兄弟その他五十騎足らずの腹心の武士がそれに従いました。土肥郷目土肥次郎実平(さねひら)の本拠地です。ですが西方には大庭氏、その北部に渋谷氏、さらに東北の武蔵国にいけば熊谷氏・畠山氏など有力な平氏の家人がいて当然来襲が予想されるので要害の地である石橋山に陣を張る事にしました。
以仁王令旨頼朝の旗の上横につけられ、中四郎惟重(これしげ)がこれをもって頼朝に付き添い、その後には大中臣頼隆(おおなかとみよりたか)が白幣を矢の上につけて従いました。


これに対して武蔵・相模から集まった平氏方は乙女座大庭景親を先頭に俣野・川村・渋谷・長尾・熊谷以下三百余騎、郎党合わせて三千余騎で石橋山の麓に陣を構え、両軍の間は一つの谷がへだてているだけでした。又、別に牡羊座伊東祐親(すけちか)を大将とする伊豆の平軍三百騎は頼朝の本陣を後方から襲う隊形をとっていました。乙女座大庭景親は軍議を開き稲毛重成などが明日の昼の戦を主張しましたがこれを退け、夜の内に少人数で頼朝を攻め落とし、明日は三浦勢に向かう事としました。こうして三千余騎がときの声をあげて急襲し両軍鏑矢を放って戦いの火蓋が切って落とされました。

勝敗は兵力の差で明らかで佐那田義忠(さなだよしただ)・武藤三郎豊三家康(ぶんざいえやす)らが戦死して、頼朝方は退却を強要されかろうじて土肥の杉山まで落ち延びました。翌日、杉山の内の堀口近辺に陣を張ってはみたもののただ乙女座大庭景親の急迫を逃れるだけのことでした。パンチ加藤次影廉(かとうじかげかど)や宇佐美実政(さねまさ)の防戦に助けられ深山へとだんだん逃れていくうちに北条父子・加藤次・佐々木などともはぐれただ目土肥実平だけにつきそわれて土肥郷の洞窟「しとどの窟」に隠れました。

一時は天秤座大庭景親に見つかりそうになりましたが大庭方の猫梶原景時が「この山には人跡がない」と言い乙女座大庭景親の手を引いて別の峰に登ったので危機一髪助かりました。その日の晩、北条政時・義時父子が頼朝のところへ来た時、そこへ箱根山の別当行実の弟・永実が弁当を持って探し当ててきました。そしてその道案内で、頼朝の一行は箱根へ逃れ、永実の宅でかくまわれることになりました。

目土肥次郎実平・・・、父・中村宗平の次男で長男は中村宗遠。相模国の土肥郷を与えられた事により、「土肥氏」と改名。、頼朝が挙兵するとすぐに長男の遠平とともに頼朝のもとにはせ参じています。
石橋山の合戦で敗退した、頼朝を、領地・土肥郷の洞窟「しとどの窟」にかくまい猫梶原景時が見逃した事は有名な話です。
佐竹氏討伐、平氏討伐に参戦。1189(文治5)年の奥州征伐にも参戦するもそれ以後の事跡は不明。戦国大名小早川氏は後裔にあたります。

乙女座大庭景親・・・鎌倉景治の曾孫。保元の乱では義朝に従い白河殿を攻撃。1180(治承4)年、頼朝の挙兵には平氏から受けた旧恩に報いるため兄・影能(かげよし)と袂をわかち弟・影久(かげひさ)と共に平氏に属しました。
三千の兵を率いて石橋山で頼朝を破りましたが一族の猫梶原景時に欺かれて討ち洩らしました。頼朝再挙兵時関東の有力武士団と共に投稿するも、固瀬川(かたせがわ)周辺で斬られました。

猫梶原景時・・・父は鎌倉景清。1180(治承4)年、乙女座大庭景親に従い石橋山で頼朝を破りましたが捜索時に所在を知りながら見逃した話は有名。その後、頼朝に属し平氏討伐に参戦。屋島攻撃の作戦で義経と対立しこれ以降は義経の不義を頼朝に讒言して失脚させました。
1199(正治元)年、結城朝光を讒訴したことで弾劾され追放。翌年、駿河国孤崎(こさき)で子の影季と共に討たれました。

牡羊座伊東祐親・・・父は伊東祐家(すけいえ)。伊豆国の住人で平氏に属します。祐親の娘・八重姫と配流中の頼朝が恋仲になり二人の間に男子(千鶴丸)が生まれましたが、この時祐親は平氏から頼朝の監視役に任ぜられており平氏の目を恐れ殺害。後に頼朝により捕えられ、ダイヤ三浦義澄(よしずみ)に預けられました。義澄の努力で許されましたが己の罪を恥じて自害しました。これを聞いた頼朝は嘆き悲しんだと言われています。

ダイヤ三浦義澄・・・相模国三浦郡の豪族三浦義明の子。最初の挙兵に失敗し、安房国に逃れた頼朝を助けるなど早くから頼朝の側近として仕え、その後平氏討伐・奥州討伐でも活躍。頼朝も信頼が厚かった御家人の一人。
頼朝没後、幕府の宿老として合議制に加わり幕政確立に努め幕府内でも北条氏と競うほどの勢力を誇ったといわれています。
ニックネーム ちこりん at 22:13 | Comment(0) | TrackBack(0) | ●源頼朝●

2005年03月31日

●源頼朝●〜挙兵と鎌倉入り〜

頼朝は、伊豆の豪族・伊東祐親(すけちか)・北条時政らの監視の元で約20年の歳月を送りました。
流人時は、頼朝が清和源氏の嫡流という事で周囲の豪族が集まり一緒に狩りをするなどかなり自由な生活を送っていたようです。又、北条時政は娘・政子頼朝と結婚したことから頼朝と外戚関係になり、保護する立場を貫きました。
世が平和なら一罪人として生涯を終えたかもしれませんが、しかし頼朝を取り巻く環境は一変します。


1180年(治承4)、4月27日以仁王令旨(りょうじ)が頼朝の元に届くと慎重な頼朝はすぐには事を起こしませんでしたが以仁王源頼政が討たれると、京都時代からの知り合いでしたサッカー三善康信(みよしやすのぶ)が警戒を促す書状を送ってきました。このままだと源氏の嫡流である頼朝は討伐されかねないからです。
8月17日、伊豆の目代・クラブ山木兼隆の館襲撃は、このような迫りくる時間と危機感の中での決断でした。三島神社の祭礼の日で警備が手薄になっていたためそこを突き、夜を徹しての長い戦いでしたが緒戦に勝利しました。

この後、ひらめき石橋山の戦いで敗れますが、敵方の梶原影時に見逃されるなど強運を発揮。敗軍の将であった頼朝でしたが房総で千葉常胤(つねたね)・上総広常(ひろつね)らを見方につけると今まで傍観をしていた豪族や平氏に組していた豪族が次々と頼朝の元に馳せ参じました。敗戦からわずか二ヶ月の間に数万の大軍に膨れ上がった頼朝の軍はついに父・義朝が拠点としていた鎌倉に入りました。以後、上洛することなく鎌倉にとどまり政務を執り続けることになります。

サッカー三善康信(NHKでは五代高之が役)・・・母は頼朝の乳母(比企禅尼)の妹。伊豆に流されていた頼朝に京都の状勢を伝送していました。
1184(元暦元)年には鎌倉に下向し、1191(建久2)年には位置情報問注所執事へ就任。
1199(建久10)年、頼朝没後引き続き政務に当たりるんるん大江広元とともに幕政を執りました。1221(承久3)年の承久の乱の際には朝廷との交戦を支持し病身の身でありながら鎌倉から出兵。同年82歳没。

クラブ山木兼隆・・・平信兼の子。平清盛に仕えてましたが伊豆国に流人として下り後に伊豆国司・平時忠の目代に就任。また、現地(蛭ヶ小島)に流されていた頼朝の監視役をもしていました。1180年(治承4)に、寝込みを襲われパンチ加藤次景廉(かとうじかげかど)によって刺殺。

パンチ加藤次景廉・・・鎮守府将軍藤原利仁(としひと)の末裔。伊勢国目代加藤次影員(かげかず)の子。頼朝挙兵時にあたり父・影員と共に従軍し目代クラブ山木兼隆を討ちました。
その後、平氏討伐・奥州討伐に参戦し戦功により遠江国浅羽荘地頭職に補任されました。1200(正治2)年、梶原景時の謀反に連座して領地を没収され三代将軍実朝暗殺事件をきっかけに剃髪。法名を覚蓮房妙法と号しました。


位置情報問注所・・・頼朝に対して訴訟事案を進達することを目的として設置された機関。初代問注所執事としてサッカー三善康信が任命され、以後鎌倉〜室町期では三善氏が世襲することとなります。

頼朝没後、御家人の所領関係訴訟(所務沙汰)を引付衆、刑事事件を巡る訴訟(検断沙汰)を侍所、東国の経済事件および民事訴訟を問注所が受け持つようになり、西国については京の六波羅探題が管轄しました。
尚、鎌倉幕府の政務及び財政は公文所(後に政所と改名)が司り初代長官にはるんるん大江広元が任命されました。

るんるん大江広元・・・父は参議藤原光能(みつよし)。母は式部権少輔大江維光(これみつ)の娘。大江匡房(ただふさ)の曾孫。兄・中原親能(ちかよし)の関係で頼朝に招かれ、公文所別当になり守護・地頭の設置を献策するなど早くから幕府成立と武家政権確立に辣腕を振るいました。
頼朝からの信頼も厚く、義経の「腰越状」を広元宛に書いて兄へのとりなしを依頼した話は有名。戦国大名毛利氏は後裔にあたります。




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         石橋山古戦場
ニックネーム ちこりん at 22:19 | Comment(6) | TrackBack(0) | ●源頼朝●

2005年03月30日

●源頼朝●〜頼朝像〜

京都・神護寺には、藤原隆信(たかのぶ)筆といわれる平重盛源頼朝藤原光能(みつよし)の三画像が現存します。
最も有名なのが頼朝像で誰しも一度は教科書などを通して見たことがあり何の疑いもなくこの画像が頼朝であると考えられてきました。これにより、画像に見られる端麗・厳粛な気品ある風貌が頼朝のイメージとして我々の脳裏にぬぐい難い形で付着してきました。しかし、実際は画像の何処にも像主が頼朝であるとは記されておらず確証はありませんでした。


近年、この頼朝像を再検証した結果、14世紀中期に製作された妙智院蔵の夢窓疎石(むそうそせき)像との表現方法の共有が見出されました。そのうえで、神護寺の記録の中に手がかりを探しだし、ついに神護寺にexclamation足利尊氏直義(ただよし)の二画像を奉納したことを記す足利直義の願文(がんもん)に逢着し、それを根拠にそれぞれを現存の重盛頼朝像にあてはめました。

この我々の脳裏にある頼朝像が実はexclamation足利直義であったとは何とも驚嘆のごとしです。

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ニックネーム ちこりん at 12:31 | Comment(5) | TrackBack(1) | ●源頼朝●

2005年03月29日

●源頼朝●〜嫡男と強運〜

源頼朝は1147年(久安3)に源義朝の三男として生まれました。母は熱田大宮司藤原季範(すえのり)の女・由良(ゆら)御前。由良御前は義朝の正室でしたので頼朝は三男でしたが源氏の家督を継ぐ嫡子として都の貴族社会の中で育てられました。この京都時代の人脈が後の政治力に生きてきます。

幼名は鬼武者といい、12歳で任官し、二人の兄(義平朝長)を差し置いて従五位下(じゅごいのげ)・右兵衛権佐(うひょうえごんのすけ)に昇進している事からも期待の程がうかがえます。しかし、1159年(平治元年)、12月に起きた平治の乱に敗れたことで運命が大きく変わりました。この時、初陣となった頼朝は東国へ落ち延びる義朝一行と途中ではぐれてしまい囚われの身となりました。

頼朝は平氏側の戦後処理策の中で一度は斬罪が決まりましたが平清盛の義母・ぴかぴか(新しい)池禅尼宗子(NHKでは南風洋子が役)の助命嘆願によって一命を助けられ、伊豆国蛭ヶ小島(ひるがこじま)<静岡県韮山町>へ配流されることになりました。


ぴかぴか(新しい)池禅尼宗子・・・藤原宗兼の長女で清盛の継母。清盛の父・忠盛に嫁ぎ家盛・頼盛を生みました。忠盛没後、出家して六波羅の池殿に住んでいたので「ぴかぴか(新しい)池禅尼」と呼ばれました。平氏滅亡後、ぴかぴか(新しい)池禅尼とその子らは恩義を忘れていなかった頼朝の厚意を受けたと言われています。



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源頼朝<矢先稲荷神社蔵>さんより
ニックネーム ちこりん at 06:34 | Comment(6) | TrackBack(6) | ●源頼朝●