1180(治承4)年9月29日に京都を出発した
平維盛(これもり)・
忠度(ただのり)・
知度(とものり)らの征東軍は数万騎をもって10月13日に駿河の手越の駅に着いたとの報告がありました。『平家物語』では、
維盛を大将軍、
忠度を副将軍として三万余騎が9月18日に福原の新都をたち、20日に旧都を発する。そして、山河を越えて10月16日に駿河の清見ヶ関に着いた時は七万余騎になり、先陣が蒲原富士川に達しても、後陣は約五十キロ西の手越宇津谷だった、と書いてあります(日付については、ここでは『吾妻鏡』に従っておきます)。
10月16日、せっかく新装した大倉の邸に落ち着く暇もなく
頼朝はこの平軍を迎え討つために鎌倉を出発。軍勢は二十万と伝えられています。
頼朝にとって相模の
大庭景親・波多野義常(よしつね)や伊豆の
伊東祐親のように危険な存在もあるし、関東北部には
頼朝の背後を脅かす常陸の佐竹・志太・下野の足利という反対勢力があって不安も大きい状態でした。遠方ながら木曾・
義仲が信濃から上野国に入ったという情報は心強かったですが、特に源氏方にとって決定的な幸運だったのは、甲斐源氏の武田・安田・逸見らが旗挙げ以来の腹心である
加藤次影廉・光影を隊列に加えながら南下して、駿河の目代・橘遠茂(とおしげ)の軍と富士山麓で合戦し、これを撃破したことでした。
10月18日の夜、東海道の黄瀬川の宿に着いて、甲・信の源氏と
北条時政と合体した
頼朝はこの報告によって自身を固め24日をもって平軍と決戦の日と定めました。
同時に、この駿河の有力な平氏方の目代が滅びたことを知って、伊豆・相模にあって
大庭と結び
頼朝に敵討した武士達は、続々と降参してきました。
伊東祐親が生き捕られて、この旅宿に連れられて来ました。
伊東は伊豆の鯉名(小稲)から船を出して平軍に加わろうとしたのを天野遠景に捕らえられました。
頼朝は斬らないで
三浦義澄に預けました。伊豆配流中に
伊東の娘と通じて
祐親に殺されそうになった時、自分を助けて逃がしてくれた
祐親の次男・
祐清の事を思い出しました。
祐清に褒賞を与えようとした所、「父が敵として囚人になっているのに、息子として賞を頂くわけには参りません」と言って、平氏方に走ってしまいました。。
祐親や祐清のその後については、二年後の寿永元年2月の『吾妻鏡』にも記されていて、その潔さが誉められていますがそれはともかくとしてこの時の
頼朝の態度には余裕が伺われます。
10月24日を決戦日と定めて、富士川の東岸に陣をとった源氏軍は自信にあふれていて、一方の平氏軍は、それに比べると戦意が弱かったように見えます。大体
頼朝挙兵の報が
大庭景親から都に伝えられたのが、9月2日でありそれから
維盛の出発まで1ヶ月近くの日が費やされています。京都出発についても吉日を選ぶ選ばないという争いが大将の
維盛と参謀の上総守
忠清との間に起こって、円滑に進みませんでした。しかもこの年6月に決行された福原遷都は、貴族や比叡山から猛烈な反対を受け、反平氏的気勢がいよいよ高まっています。熊野の
湛増(たんぞう)が平氏に叛き、近江からも武士が決起。さらに、僧兵の動きはこれに応じて危険な状態でしたのでこのような不安を背後に背負っての東国攻めでした。そして又、頼みにしていた駿河の目代・橘遠茂は滅んでました。『平家物語』では蒲原に着いてからまで大将軍
維盛と侍大将
忠清とが不仲であったことを記していて、それは大将
維盛の出発が遅れたために、武蔵・相模の畠山・大庭などと合体できなかったことを
忠清が嘆いています。
『源平盛衰記』にも
斎藤別当実盛(さねもり)の言葉として「これにつけても、あはれとく御下向ありて、武蔵相模の勢をなびかして攻め下らせ給へと、再三申し候ひしものを、後悔先に立たぬことなれども、口惜しく候ものかな」とあるので、忠清や実盛のような東国に関係をもつ武将にとっては、やはり陸戦での関東武士の精鋭さを知っていて、都ぶりになれてきた平家の公達の悠長な動作がまだるっこしく思われていたのでしょう。そして、この1ヶ月で東国の大部分が
頼朝方に移ってしまいました。
武蔵の長井(熊谷市の北方)に住んでいた
斎藤実盛がこの時
維盛に語った東国気質(かたぎ)の話は有名。これを聞いた平家の武士達は、みな震えわなないたと言われています。
とにかくこの源平初の対戦は、戦わずして勝敗が明らかでした。『吾妻鏡』によると、10月20日に
頼朝は富士川の東岸の賀島(加島)に到着し、
維盛以下の平軍はその西岸に陣をとり、川をはさんで両軍が向かい合いました。その夜更けになって甲斐から参会した
武田信義の一隊が密かに敵陣の後方に廻って攻めようとした所、富士川の河原の沼に集まっていた水鳥の大群が驚いて飛び立ちました。その羽音が、大軍が襲い掛かるように聞こえたので平氏の士卒は驚き騒ぎました。『平家物語』では平家の武士達は「すはや、源氏の大勢の寄するは。
斎藤実盛が申しつるように、定めて搦手も廻るらん。取り込められては叶ふまじ。ここをば引いて、尾張河、州俣(すのまた)を防げや」と、われさきに逃げ出し、あまり慌てて弓矢も忘れ、馬が自分のか他人のかもわからない。中には、つないだままの馬に乗ったので杭をめぐってばかりという者もおり、呼び集めていた遊女どもは頭を蹴破られたり腰を踏み折れたりという有様だった、と言います。
この浮き足立った武士の有様を見て侍大将の
忠清は「東国の士卒は残らず
頼朝に従ってしまったとみえる。われらは、不用意に京都を出発して来て、いつ途中で包囲されて全滅することになるかわからない。この際、早く都に戻って、他日の計画を練り再出発するほうがよいと思う」と言いました。
維盛以下は、その進言を入れ、夜の明けるのを待たずに急ぎ退却して京へ向かいました。
このようにして、一戦を交えずして東軍の勝利に終わりずいぶんあっけない勝負でした。
この戦いで
頼朝としては、甲・信を合わせた東国武士軍の優越を、明らかに天下に公示することができました。
この富士川の合戦に乗じて、そのまま京都へ攻めあがろうとした
頼朝が、、
千葉常胤・
三浦義澄・

上総広常らの、東国のなお危険な状勢を説いて諌めた言葉を受け入れて、それを思いとどまったのは誠に賢明でした。鎌倉に腰を据えて、まず東国を固める方針をとりました。
頼朝としては、ここまでは武将達の作戦に従って采配を振ればよく、武士の首領としての威と情とを示す事が大切でした。
しかし、富士川の合戦で平氏を追い戻してからは少々変わってきて、東日本の一大勢力として京都の貴族政権との交渉を持つことになりました。東国の武士を代表し、或いは代弁して、公家と折衝することが今後の
頼朝に課せられた最大の任務となっていきます。

富士川