2006年12月19日

荒れる京都と飢饉〜寛喜の大飢饉(10)

既述したこれらの点を改めて見ると、朝廷より幕府の方が実効のある政策を行ったように見えます。伝説的ではありますが、泰時が伊豆・駿河の出挙米を飢民に施した話や、後日になって、1230年8月8日以前の出挙に関して利息を半減すると決定したことなどは、幕府が民衆生活により近い立場で施政を考えていた事を示しています。

藤原定家は飢饉のさなか、関東では執権泰時以下の権力者が、自らの日常の食膳を減らしているという巷の噂が少なからず聞こえてきた事を記しています。

この記事より先に、『吾妻鏡』にも幕府が御家人の贅沢を禁じたと言う記述があるようですから、定家の耳にした噂も、恐らく単なる噂ではないようです。もしまた噂だとしても、その背後にあるものは、競馬や饗宴の贅沢に何ら反省のない朝廷・貴族に代わる為政者を求める人びとの願望であったでしょう。そこには、承久の乱を乗り切った幕府が、すでに「公」として朝廷を超えた立場で政治に当たっていたという事実が作用していたのでしょう。

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2006年12月14日

荒れる京都と飢饉〜寛喜の大飢饉(9)

こうした飢饉に対して為政者が何もしなかったわけではなかったようです。

ですが、農業を改めて督励するといった馬鹿げた決定は別としても、牛馬に麦をとして食わせることを止めて人間の食料を確保しようとしたり、飢えをしのぐために稲穀などを蒭として支給する賑給が朝廷で決定されても、どれだけ実際に行われたか、または行われてもどれだけ効果があったかは疑問だったというほかないでしょう。


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2006年12月13日

荒れる京都と飢饉〜寛喜の大飢饉(8)

前述の事件を記録した広橋経光も、この日は「すこぶる以て物そう」を超える感想を洩らしていません。ですが、そのふた月程後、秦久清が中宮子(藻壁門院)の出産の宿願として北野の右近馬場で競馬を行った際には、多少趣が異なるようです。


この競馬には子の父親である九条道家や祖父の西園寺公経らも企てに加わりましたが、見物の車が多すぎて競馬の邪魔になるほどで、そうにか一、二番は行いましたが随身が落馬して競馬にならないので中止となったそうです。

これに対し経光は、飢饉によって餓死した死骸が道路や川原に満ちているような時節に競馬をするというのは、神の意向に叶わなかったのではなかったかと自問していて、当時の貴族社会でも反省の気運が兆していたことを示しています。


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2006年12月12日

荒れる京都と飢饉〜寛喜の大飢饉(7)

既述のこうした人びとの苦しみにも拘わらず、京都の貴族たちはふだんと変らない自分たちの生活を維持し続けていました。1231年4月に秀仁親王の所始の儀式が内裏で行われた際、2,3人の雑人が東の公卿座前の階段から御殿の上に昇って、座に据えたご馳走を取ろうとしたした事件が起きました。


彼らは高欄から押し落とされ、庭上で役人に搦め捕られましたが、追い立てられていく叫喚が高く聞こえたと言います。

いまでもなく「世上飢饉」によって起きた「狼藉」であることは、当の貴族たちにとっても明らかな事でした。


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2006年12月11日

荒れる京都と飢饉〜寛喜の大飢饉(6)

飢饉の苦しさの中で、京都では市中の人々が協力して富豪の家の押し入り飲食をし、銭や米を無理に借りて皆で分配するような事件があちこちで起きました。さらにその中で、翌年の作柄を悲観する声も少なくなかったようです。
民経記』は言います「明年なお飢饉有るべし」と言われ、麦種の値段が「米一石二斗を以て麦種三斗」という状況では、米ばかりか麦もまたできないだろう、と。飢饉はさらに三二年(貞永元)に及び、五月に至っても京都では鴨川原に飢え餓えた人びとが溢れ、目を覆うばかりでした。

鴨長明が、
「京ノウチ、・・・・路ノホトリナル頭(髑髏)、スベテ四万二千三百余ナンアリケル。・・・モロモロノ辺地ナドヲ加ヘテ言ハバ、際限モアルベカラズ」と『方丈記』に書き記した養和の飢饉に、勝るとも劣らない地獄絵図が現出しました。


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2006年12月10日

荒れる京都と飢饉〜寛喜の大飢饉(5)

全国的な飢饉状況を『立川寺代記』は、「寛喜三年夏、天下一同の飢饉」で、人々はふだん食べない馬牛の肉を食べたりしてしのいだが、天下の人間の三分の一は失われたと記しています。

さらにこの記録で注目されるのは、「諸国大鼠多く出来し、五穀の実を喰らい失う」とある個所であります。鼠が大発生した原因についての記録はありませんが、あるいはこれは六十年ないし百二十年に一回とも言われる竹の花の開花・結実と関係するのではないでしょうか。

山野に栄養分の豊富な竹の実がなると、鼠が大繁殖し、竹の実だけでは足りずにやがて農作物を食い荒らすといおう現象は、すでに知られているようです。大量の鼠の出現は『民経記』にも記されています。


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2006年12月09日

荒れる京都と飢饉〜寛喜の大飢饉(4)

この年の不作の結果、翌年は春から京畿内を中心に悲惨な状況が出現しました。その様子を『民経記』から日を追ってみてみます。

3月13日、牢獄に入れられている囚人たちが、食物がないので疲れきっている。
4月6日、餓死によって死んだ人が道路にいっぱいとなっている。
5月3日、今では一町に、一人二人の捨て子がないところはない。
6月4日、この間の長雨の後、溢れた水が鴨川の両岸を浸し、川原に放置された死骸が岸辺に満ちている。
7月1日、今夜、方違(かたたがえ)のために天皇が持明院殿に出かけたが、後で聞いたところでは大宮大路は死骸が道路に満ち、言葉も及ばないありさまでした。天皇の輿をかく駕輿丁らは飢えで力が出ないため途中で倒れそうになり、代わって供の武士が輿をかいたという。


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2006年12月08日

荒れる京都と飢饉〜寛喜の大飢饉(3)

1230年における諸国の様子を、同年11月の『明月記』の記事は次のように描写しています。
諸国のあちこちで麦が多く実っており、食用にするのだという巷の噂でしたが、自分は信じていなかったところ、今日、麦の穂が出ているのを見た、三月頃のようだ、今年は草木について例年と変ったことが多く、時期はずれに桜が花を付けたり、タケノコが出てきて人がそれを食べたなどという話を聞く、と。

この記事などに見えるように、この年は春から夏が異常に寒く、逆に秋から冬がこれまた異常に暖かいという、完全に季節の循環が狂った年だったようです。

他の記録にも、今年は霜・雨が降って万物が熟さず、12月に蟋蟀が鳴き、雀の子や麦の穂が出たり郭公が鳴いたりshたが、こうした「もののけ」によって、すべての飢渇は起きたのだとか、あるいは12月18日に蝉が鳴くという未曾有のことがあったなどと、気候の異常を告げる記事が多いようです。

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2006年12月07日

荒れる京都と飢饉〜寛喜の大飢饉(2)

『百錬抄』によると、1231年は前年からの天下飢饉によって死骸が道路に満ち、「治承以後、未だかくのごときの飢饉あらず」というさまだったようです。
ただ、この飢饉は突発的にこの年に起きたと考えるよりは、それに先立つ数年間の不作や風水損の積み重ねの上に発生したと考えたほうがいいかもしれません。というのは、すでに1227年には飢饉や天変あるいは赤斑がさの流行などが伝えられ、京都では川原に放置された死人が「雨脚のごとし」と言われたようですし、翌年にも63904鎌倉や京畿において台風と思われる大風雨の記事が見られるからです。

1230年の6月には、米の値段について、銭一貫文を米一石とするように朝廷の命令が出され、西国はこれに従ったという記録があるようですが、これも不作に伴う米価の騰貴への対応策と考えてよいでしょう。


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2006年12月05日

荒れる京都と飢饉〜寛喜の大飢饉(1)

1200年代前半の社会全般に関わる大きな事件としては、不作・飢饉があります。

生産力の不安定なこの時代に、天候の異変による飢饉は避けがたい宿目でも有りましたが、源氏と平氏が鎬を削っていた1181(養和元)年から翌年にかけての全国的飢饉から約半世紀を経て、再び全国的な飢饉が起きたようです。

つまり1230年は旧暦6月に武蔵・美濃に雪が降り、7月にも諸国に霜が降るなどの異常気象によって、全国的に不作であり、その結果翌年に駆けて起きたのが、「寛喜の大飢饉」と呼ばれる飢饉です。


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2006年12月04日

荒れる京都と飢饉〜僧侶たちの悪行(6)

その後1238(嘉禎4=暦仁元)年6月、泰時によって京都市中の警衛のため辻々に篝屋を置き、その負担を御家人役とすることが正式に定められました。



この措置について『民経記』は「近年家々夜の恐れなく、枕を高くして艶臥す」と評価し、『葉黄記』も泰時の計らいで京都の要害の処々に守護の武士が置かれ、終夜篝火を掲げているので、万人が枕を高くして寝ることができると記されています。ですが反面、平経高などは全く信頼していなかったようで、こうした警護がそれだけの力を持っていたのかは、記者の感じ方によって異なるようです。

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2006年12月02日

荒れる京都と飢饉〜僧侶たちの悪行(5)

僧侶の武装解除にも現れているように、荒廃する京都の治安の維持は、結局のところ武力を持つ鎌倉幕府の出先機関である六波羅探題に依存するほかはないわけです。内裏の警備に当たる滝口の武士が揃わないので、先祖が滝口を務めた経歴のある家々から子息を一人ずつ出すようにという院の要請で、小山・下河辺・千葉・秩父・三浦・63904鎌倉・宇都宮・氏家・伊東・波多野lなどの諸氏が、これに応じるよう将軍に命じられたこともあったようですが、数の点から言って、恐らく京都市中の治安維持などはとても無理だったでしょう。


群盗の横行に備えて、夜間、馬を引いた多数の武士が各所の小屋に配備され、あるいは篝火を焚いて終夜警備に当たったりしたことは、記録にも残っているようです。定家なども「武士の巡検、詮なきことなり」とか、「警備の聞こえ有りといえども、群盗連夜人を害す」と、表面的にはあまりその効果を評価していないようですが、他方で1230(寛喜)年6月、時氏の死に伴って六波羅探題重時が63904鎌倉に帰ろうとしたとき、重時の不在によって天下はきっと「夜討の場」となるだろうという不安を洩らし、重時が朝廷の引きとめで京都に留まると決まった時には、「京中の安堵、何事かこれに過ぎんや」などと記しているところをみると、心中では少なからず武士たちを頼りとしていたに違いないでしょう。

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2006年12月01日

荒れる京都と飢饉〜僧侶たちの悪行(4)

前述のような山僧の悪行の中で、僧侶の武装解除が問題となるのは当然でした。1228年11月には、幕府からの命令で諸寺諸山の僧徒の兵具は禁制となりました。そこで例えば高野山では、六波羅からの命令書を持ってやってきた実検使が、高野山の各子院や各坊の武具を探し回って集め、大塔の庭に積んで焼き払いました。


このような法師の兵具禁制や悪僧を逮捕して関東に送るなどの措置は、その後も行われましたが、富強の悪僧は依然として兵具を身に付けたまま手を触れられず、貧しい山法師が捕まるという不条理があったようで、取り締まりの実効のほどは疑問であったようです。



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2006年11月30日

荒れる京都と飢饉〜僧侶たちの悪行(3)

武器を帯びた山僧同士の争いも目立ちます。

1228(安貞2)年、多武峰(とうのみね)の辺りで 蒭を刈っていた興福寺の雑人が多武峰の悪僧によって殺されたので、その仕返しに南都の悪僧たちが多武峰の僧房六十余宇を焼き払い、一方、天台宗徒の側もその返報に清水寺の焼き討ちを企てたという事件は、その一端です。

比叡山でも1233(天福元)年2月、無動寺の門徒が東塔南谷の房二軒を襲って切り破り、その返報に今度は南谷より無動寺を襲って数刻合戦するという事件が起きています。南谷の勢は三万より進み寄せ、二手は追い返されましたが、一手は谷底から討ち入って無動寺の房二軒を切って、
「うれしや水」の曲をはやして南谷に帰りました。

両方の死者・負傷者が多く、その後、無動寺側がまた南谷に押し寄せようと企てるというという騒ぎとなります。事件の発端は南谷の下法師が無動寺境内の木を切ったので、それに対してさらに南谷の下人が無動寺の法師を殺したという経過にありますが、仏寺といっても集団同士の対立抗争一般の形とまったく変りません。

この頃の天台座主である尊性法親王は武張ったことが好きで、回りに仕える僧徒たちは皆、甲冑や弓矢を携えた家来たちを連れていました。


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2006年11月29日

荒れる京都と飢饉〜僧侶たちの悪行(2)

1229(寛喜元)年3月には、京都楊梅町辺りでの民家で、借金の返済を迫って日吉二宮の宮仕法師がひどいことをするので、六波羅の武士と争いになり、法師は打ち殺されたため、叡山の山法師たちが騒動を起こします。六波羅も山法師も譲らず、双方の対立が激化し、叡山の山上で法師たちが甲冑をつけて合戦に備えれば、京中では武士たちが行き交うというありさまだったそうです。

結局は日吉祭を止めるという叡山側の脅しに朝廷が屈服し、なかなか承服しようとしない六波羅探題時氏を押さえて、左衛門尉三善為清が日向、前左兵衛尉大江貞知が大隈に流されるという形で事態は収拾されます。山僧などが高利貸を営んでいたことは、この時代にはよくあることですが、それがこの一件の原因として注目されます。

これほどの大騒ぎにならなくても、山法師の下法師四人が通行中の人の剣を奪ってわめいているのを、人々が捕まえて六波羅に渡したなどという事件は日常茶飯だったようです。


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2006年11月28日

荒れる京都と飢饉〜僧侶たちの悪行(1)

こんな世の中であってみれば、僧侶だけが例外では有り得ません。悪行を働く僧侶達も横行します。

奈良の北山に住むある法師が、艶言を使って女性たちをたぶらかし、三人目になって発覚して首を斬られたとか、法勝寺の承仕法師の子供が二人、博打の金を稼ぐために、九重塔に昇って九輪の金物を取ったなどというのは珍しくない方です。

或いは終夜降雨の中、盗人が東大寺の勅封倉を焼き開いて宝物を盗み取ったという事件も、逮捕された盗人は大和葛上郡の顕識という僧でした。


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2006年11月27日

荒れる京都と飢饉〜貴族社会の退廃(6)

除目などの折の賄賂が横行していたらしい事は、除目が近々あって、きっと賄賂が力を発揮するのだろうとか、「厚縁の人、ただ賄賂に耽り、貧者の嘆きを知らず」といった定家の慨嘆にも窺えます。
いかにうまく世を渡るかが、上下の問わず都の人々の関心の的であったようです。

妻を次々と代えるまでした巧みに栄達を図った前大納言藤原実宣などは、そうした風潮の代表ともいうべき人物です。彼は最初、藤原基宗の娘婿となり、後にこれを棄てて平維盛の娘を妻とし、その後、壮年に及んで関東の権勢者63699北条時政の娘を娶ります。そして家地を後鳥羽側近の卿二位に贈ったことで昇進して蔵人頭・参議に任命され、検非違使の別当を経て納言にまで昇りました。
妻に先立たれてからは、卿二位の養育していた源有雅の娘を若妻とし、左衛門督を兼ねましたが、承久の乱で有雅が処刑されると慌てて若妻を追い出し、後堀河天皇の乳父として権勢を振るという、臆面のない変わり身の早さをさらけ出すのでした。


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2006年11月24日

荒れる京都と飢饉〜貴族社会の退廃(5)

公経に限らず貴族の生活での奢侈・華美の盛行は、記録類の端々に現れています。

1226年六波羅探題だった北条時氏が、翼が青く頭が赤、首の回りに白い筋があるという「唐鳥(インコ)」一羽を63904鎌倉の頼経に贈っていますが、この頃、中国から渡来した鳥獣が京都に流行し、貿易の手づるのある人々が輸入したものを富豪の家々が競って飼育したと言います。

源通具の葬送に際し、子息三人ろ家人らが、いろいろの布衣を着て騎馬で従い、それぞれの騎馬の前には松明をい灯して、まるで天皇の行列のごとくに京中を通行したというのもまた、そうした華美の風潮の現れだったのでしょう。

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2006年11月23日

荒れる京都と飢饉〜貴族社会の退廃(4)

参議右大弁平範輔は当時、権勢を振るった貴族の一人ですが、幕府と結んで、「大相(西園寺公経)一人の任意、福原平禅門(平清盛)を超過するか」とまでいわれた、西園寺公経の強引さも目を引きます。

かれが新たに堂を建てるために、住民たちが涙を流して悲しんでいるにもかかわらず、歓喜光院の北、四囲二町の家々を強制的に退去させたという事件などは、折から寛喜の飢饉も始まろうという時期だけに一層、高級貴族たちの傍若無人さを際立てています。

彼には吹田の邸まで毎日二百の桶で有馬の湯を運ばせたと言う話、或いは後年のことですが、彼の派遣した唐船が檜材で造った三間四面の建物を中国の皇帝に献上した返礼として、銭貨十万貫と種々の珍宝のほかに、人語をしゃべる鳥(インコか)や普通の牛二十頭分の力を持つ水牛などを積んで帰ってきたという豪勢な話も伝わっているようです。

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2006年11月22日

荒れる京都と飢饉〜貴族社会の退廃(3)

前述のこうした事件に共通するのは、法や規則にかかわらず実力で私的な欲望を追求しようとする姿であって、それは地位の高下を問いません。検非違使行兼の次男の家で、主人の留守に舎人が大路にマグサを置いて門内に運びいれていると、男が一人やって来て草を取って逃げたので、舎人が「草盗」と呼んで追いかけて捕まえようとしましたが、他の家来が制止して男は逃げ延びました。


ところがこの男は仲間を連れて戻り、群をなして門内に乱入し、飛礫を家に投げかけました。そこで家来たちが剣を抜いて走りかかったところ、十余人の乱入者は逃げ散りました。

これらの乱入者は参議右大弁平範輔の従者でした。


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2006年11月21日

荒れる京都と飢饉〜貴族社会の退廃(2)

また、中でも甚だしい話は、大納言藤原基嗣が日吉社参詣の路上で平光盛の娘を、騎馬の侍で囲んで有無をいわせず拉致した事件で、これは彼女が家領を相続して富裕であるという風聞があったからであって、全くの欲得のみの話でした。
この事件によって基嗣の父師家は天王寺の別荘より馬を駆って京へ急行し、釈明に及んだ・・と言います。


小さいところでは源通具が住居を新造するというので、源具実が天皇の命令だと称して二条大宮の泉に入り奇巌石を盗み取ったという事件も、同じような貴族社会のた退廃の一端にすぎません。


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2006年11月20日

荒れる京都と飢饉〜貴族社会の退廃(1)

例えば、かつて後鳥羽政権で隠然な実力者だった卿二位が養育した前右中将忠嗣(ただつぐ)は、年来、群盗を働いていたことが発覚し、その住居を調べたところ、甲冑・弓矢・松明など群盗の道具類が多く見つかったので、卿二位は忠嗣を呼び寄せ剃髪させて高野山へ送りました。

仮にも右中将という職にあったものが、こうした行為に走るとは信じがたいことですが、当時の貴族社会の状況からすると必ずしもありえないことではなさそうです。

非違を取り締まるべき検非違使の別当でした藤原実基が、自ら従者の青侍を傷つけたと言う噂もあったようですし、前右馬頭公広が兄の娘を盗み取って妻としたため、父の実教によって勘当されたなどという話も伝わっているようです。


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2006年11月18日

荒れる京都と飢饉〜強盗・群盗の横行(5)

さらに続きです。。。

1231(寛喜3)年
二月六日、前夜、北辺の毘沙門堂の南にある家に群盗が入ったが、この近辺は群盗の入ることが多い。

二月二十五日、前大臣某が侍一人を連れて鷹司河原を通り過ぎようとして、強盗のために主従とも衣服を剥ぎ取られ、裸で家に帰った。京都の郊外を行く男女は、無事に目的地まで行き着くのは難しいと言う話で、先月は鳥羽の造路(つくりみち)において某大納言が同様の目に遭い、供侍三人が皆、馬鞍を取られた。

六月三日、夜半、塩小路西洞院辺りで火事があった。このあたりの町は富豪の家があり、群盗が取り囲んで攻めたが防戦されて隙がなく、空しく逃げ去った際に放火したものだ。

以上のうな具合です。

群盗の横行は、朝廷が乱の敗北によって軍事力を完全に失い、それに伴って治安を維持するだけの警察力までも喪失したことによるものですが、貴族や僧侶たちも、実質的には盗賊と変わらない所行に耽る者達が見られました。生活に追われての犯行という理由がないだけ、彼らの方が無名の群盗たちより唾棄すべき存在だった・・・・というべきかもしれません。

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2006年11月17日

荒れる京都と飢饉〜強盗・群盗の横行(4)

続きです。。

1227(安貞7)年
正月五日、明け方、犬王太夫という鴨社の氏人の宅に群盗が入り、好きなように荒らし回ってから一条の方ヘ逃げていった。

正月二十八日、前夜、近衛の南、京極の東にある長倫朝臣(ながともあそん)の家に群盗が入った。

八月十三日、九条道家邸の近所にある家々の郎等雑人たが相談して、道家邸に強盗に入ろうという約束をしたが、その謀議が洩れて張本人四人が搦め捕られた。

十月四日、夜半、定家邸の西方一町ばかりの家に群盗が入り、女を斬った。

1230(寛喜2)年
四月九日、近頃また特に群盗が多く、某僧都の白川の房に乱入し、また近衛法橋(このえほつきょう)という僧の妻が殺害された。

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2006年11月16日

荒れる京都と飢饉〜強盗・群盗の横行(3)

(以下『明月記』の一部から)
1225(嘉禄元)年
三月十五日、嵯峨洞院殿の姫君が、夜のまだあけないうちに広隆寺より帰ろうとして、広沢池において群盗に逢い、供侍は命を落とし牛飼の童は手を切った。その前に嵯峨に住む左衛門少某の宅に押し入った群盗が帰りがけにこの車に逢い、供侍や牛童等を追い散らして車中の女房の衣装を剥ぎ取ったものだ。
十月四日、昨夜、七条院の太秦御所に群盗が六十人ばかり乱入し、警護の者が三、四人怪我をした。

1226(嘉禄2)年
二月十四日、前宰相中将信盛の門ならびに築垣(ついがき)の辺りに、京中の博打狂いの者が群をなし、座を設けて双六を行うようになった。家内から制止したけれども、いっこうにいうことを聞かないので、主人が六波羅に訴え、ことごとくからめ捕り一人も洩らさず鼻を削ぎ二指を斬った。

十月六日、先夜、雨の中を窃盗が源通具の家の土倉を破って、収納されていたが眼(銭)・三百貫・沙金一壷・濃州桑糸六十匹・鋤・鍬などを奪い去った。


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2006年11月15日

荒れる京都と飢饉〜強盗・群盗の横行(2)

前述のような社会現象にもっとも敏感で、それを克明に日記に遺したのは当代一の歌人藤原定家です。

社会の変質が詩人の感性に通説に訴えるところがあったのでしょうか、彼の日記『明月記』は、この頃の京都の風俗についての最大級の史料です。その記述の多くは、『明月記』によっています。

先ず、強盗・群盗の横行ですが、これについてはまさに枚挙にいとまがない・・という形容がぴったりしています。

次回ではその一部を、とりあえず年表風に挙げてみようかと思います。


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2006年11月14日

荒れる京都と飢饉〜強盗・群盗の横行(1)

一方、乱で敗北した朝廷のお膝元である京都は、乱の後、さまざまな形で荒廃現象が見られました。
それは物理的な意味での崩壊・損耗であったと同時に、政治主体としての朝廷への人々の評価が失墜したことを表すものでした。


すでに乱の翌4月、こともあろうに朱雀大路を耕作する人々がいたと見え、朱雀大路は大極殿の正門につながる大嘗会の要路ですので、常に修理に加え、耕作を禁じるようにという命令がでているのは象徴的です。この時期以降の京都での社会の崩壊を特徴的に表しているのは、強盗・群盗の横行、山僧の横暴、その反面の時代と遊離した貴族たちの奢侈・腐敗や愚行・奇行などです。

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2006年11月13日

京方兵力の構成と戦後処理〜全国政権への第一歩(5)

東国の武士達が新恩として西国に所領を与えられたことから、その一族の人間が新たな所領の現地に赴く例も見られ、結果としては東西の人的交流が活発化したことも、乱後の一つの見逃せない現象と言えましょう。


ですがこうした支配権の西国への拡大にもかかわらず、幕府は本所や領家の訴訟について幕府の不介入という姿勢は見えず、それを見る限り、未だ幕府が全国政権への展開に踏み切ったというのは難しいように思います。



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2006年11月12日

京方兵力の構成と戦後処理〜全国政権への第一歩(4)

幕府は膨大な後鳥羽の所領を後高倉院に与えましたが、その処分の実権は幕府が握ったままでした。また、それ以外の京方についた貴族・武士たちの所領も幕府によって没収され、恩賞として御家人たちに与えられました。
そうした所領は三千余カ所とも言われているようですが、西国にあるものが多く、これを契機に幕府の支配圏は改めて催告まで拡大したと言えましょう。

御家人たちはこれらの所領に地頭として任命され、こうして生まれた地頭を、それ以前の地頭(本補地頭)と区別して新補地頭と称します。新補地頭の内には、それまでの地頭の置かれていなかった土地に新たに置かれた場合、地頭の得分は前例がなかったため、それらの土地の上級所有車権との間に紛議が生じることも少なくなかったようです。

そこで、幕府は新補地頭に対して、田地十一町につき一町の地頭給田と、土地一反について五升の加徴米を徴収すろことを認めました。これを新補率法と呼びます。


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2006年11月11日

京方兵力の構成と戦後処理〜全国政権への第一歩(3)

1234(天福2=文暦元)年5月、新日吉(いまひえ)の小五月会に四条天皇が出かけた際、行事が終わって天皇が帰ろうとしたとき、武士達の車が天皇のことを一顧だにせず先を争って路傍を走ってゆくんおで、供奉の人々が慌てたとか、行事見物の民衆が大勢で庭の樹上に登ったため、大枝が折れて車が壊されたという話が残っているようですが、仔細ではありますがこうした事件も天皇の権威が地に落ちたことの一つの現れといって言いでしょう。

乱の後、幕府はこれまでの京都守護の機能を強化するため、乱で上京した後も六波羅に留まっていた泰時・時房の両名を、引き続き駐在させ、朝廷の監視や京都を中心に尾張以西の諸国の統轄に当たらせました。

これが後に幕府の西国統治の中心機関となる六波羅探題の始まりです。
以後、六波羅は独自に裁判機構をもつ小幕府ともいえるような機関に成長し、幕府滅亡まで至ります。


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2006年11月10日

京方兵力の構成と戦後処理〜全国政権への第一歩(2)

一方、天皇と朝廷の全歴史の上で、この乱は後代に決定的な影響を与えた思想史的な意義をもっているかと思います。

つまり乱の終結に際して後鳥羽が、「今度の合戦は叡慮に起こらず、謀臣らの申し行うところなり。今においては申し請うに任せて宣下せらるべし」という院宣(承久3年6月15日)を発したとき、恐らく後鳥羽にとっては平氏・義仲義経らの請うに任せて院宣を無定見に濫発した、63905後白河の先例を踏襲したに過ぎなかったでしょう。

ですが、わずか一世代を経るか経ないかのうちに、同様な無責任と無定見を世にさらしてしまったことは、天皇と京都朝廷がもはや政治的責任を担いうる主体ではないということ、そしてまたその結果、天皇は時々の政治勢力が自己の都合に応じて、担いだり捨てたりすることのできる「玉」に過ぎなくなったということを世人に痛感させる大きな一歩となったと思います。


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2006年11月09日

京方兵力の構成と戦後処理〜全国政権への第一歩(1)

さまざまな事前の努力も空しく、京方はあっけなく敗れ去りました。そして、個々の動機はどうあれ、承久の乱によって、それまでの幕府の内紛の影をひいている武士達、あるいはそれまでの反北条的な武士達が一掃された結果、北条氏を中心とする幕府中枢部の結果は、むしろ固められたと言うことができ、安定的な政策運営が可能になったことは幕府にとって大きな成果でした。


そしてまたそのことは、東国武士の利害を主張するものとして成立した頼朝政権と京都朝廷との妥協が、新たな亀裂を生じた結果が承久の乱であったことをも意味するでしょう。

そこに北条氏主導の幕府が、かつて頼朝の脳裏に描かれたであろうような全国政権へと発展する上で、重要な第一歩が結果的にもたらされたことにもなります。


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2006年11月08日

京方兵力の構成と戦後処理〜修験者と後鳥羽(4)

乱の敗北後、尊長は追捕の手を逃れ、いずこかに姿を消しますが、その逃亡にはどうも熊野あるいはそれと連なる吉野の勢力が手を貸していたらしいです。
明月記』によると1227(安貞元)年初めの頃、尊長は吉野の奥十津川(おくとつがわ)にあって、俗人の姿で奥十津川住人の婿となって暮らしていると言う噂が流れました。そして同年6月、尊長は密告によって京都油小路辺りの小屋で、和田朝盛とともに六波羅の武士に囲まれ、尊長は一間に入って捕り手を防ぎ、最後は自害を企てましたが、死にきれぬうちに捕縛されて車で六波羅へと運ばれました。

その後、尊長は氷を貰い受け、食い終わって帷子をつけ改め、手をすすぎ、仏を懸けさせて高声に念仏を唱えて、坐ったまま命を終えるという往生の姿で、見るものは賛嘆したと言います。この一件にまつわる噂からも、尊長と吉野・熊野との関係が暗示されますが、これと関係するのか、この年、熊野に不穏な動きが見られました。

吾妻鏡』は2月、熊野山において合戦があり、衆徒が蜂起し神体を動かして参洛しようとしているという六波羅の報を載せていますし、『明月記』は熊野の悪党が配流の身の土御門院を迎え取るため、阿波に寄せて合戦しようとしているという、かなりよくできた噂話を伝えています。

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2006年11月07日

京方兵力の構成と戦後処理〜修験者と後鳥羽(3)

尊長というのは一条能保の子で、延暦寺で修行し法勝寺の執行などを務めた人物です。一条家は能保が頼朝の妹を妻とした関係で、能保や子の高能は親幕的でしたが、承久の乱では高能の腹違いの弟の信能・尊長は京方につき、また高能の子能氏は母方糟谷氏と行をともにするなど、むしろ反幕的行動が目立ち、信能・能氏とも乱後に処刑されています。こうした一条家の幕府に対する態度の変化は、各人の考えの違いというより、頼朝没後の一条家と幕府との関係が冷却化したことにあったのではないでしょうか。


1197年に能保、98年に高能と相次いで世を去り、さらに99年に頼朝が没した直後に、三左衛門の変が起こりました。
この事件の原因が能保・高能没後の一条家の凋落に対する憤懣にあったとすれば、三左衛門の一人である後藤基清と一条家の人々が、ともに承久京方になったことは、同じような理由によるものと見る事ができましょう。

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2006年11月06日

京方兵力の構成と戦後処理〜修験者と後鳥羽(2)

後鳥羽はさらに熊野ばかりでなく羽黒山をも組織することを考えていたようです。

そこに登場するのが、長厳の弟子で、乱の主要人物の一人二位法印尊長です。尊長は僧侶ながら武芸に優れていて、牛車競走を好んだという話も伝わっているようですが、そうした気風が後鳥羽に気に入られたのでしょうか、承久の乱では京方の中心として活動し、親幕的な西園寺公経を殺そうとしたとも言われています。

その尊長が乱の直前、1220年12月に出羽国羽黒山総長吏に任命されています。この職が、どのような権限をもち、どの程度の権力を振るうことができたのか、厳密には分かりません。ですが一般に鎌倉時代以降、東三十三ヶ国は羽黒山領、西二十四ヶ国は熊野領、九州九ヶ国は彦根領などと称されていたようです。これが現実の支配をそのまま示してはいないにせよ、長厳と尊長をそれぞれ熊野・羽黒の統括者に据えることによって、京方は彦山支配の九州を除く、日本全国東西の修験組織を支配する体制を作り上げることが可能となり、乱では未発に終わったとはいえ、その潜勢力を軽視することはできないでしょう。

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2006年11月05日

京方兵力の構成と戦後処理〜修験者と後鳥羽(1)

総体してみると、京方の兵力は個々の貴族や武士たちの寄せ集めという性格が強く、集団としての西面の武士は中核的な軍事力としては、いかにも弱体・・・という感じでした。ですが、その中で、実体は今ひとつはっきりしないながら、注目されるのは修験者たちと後鳥羽との結びつきです。

後鳥羽が頻繁に熊野に参詣したことは有名ですが、その背後には修法の験力と僧兵の武力との聖俗両界に渉る熊野修験の力を、幕府打倒のために使おうという計算が働いていました。源平争乱期にも分裂して源平双方に分かれて内部抗争を行っているように、実際には熊野の僧兵といっても一致団結した集団ではなく、承久の乱の時も熊野別当の小松法印快実が京方として戦ったものの、全体としてどれほど寄与したのかは分かりません。ですが、後鳥羽にとって熊野勢を味方にすることは確実に一つの戦略として意識されていたことでしょう。

その熊野の抑えとして用いられたのが、後鳥羽の護持僧でした刑部僧正長厳です。彼は1204(元久元)年、熊野三山検校職(くまのさんざんけんぎょうしき)に任じられ、1219(承久元)年には後鳥羽一代の熊野詣の先達を命じられています。

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2006年11月04日

京方兵力の構成と戦後処理〜反北条氏の意識(4)

一族内部の反目によって、幕府方と京方に分かれた例も見られます。

佐々木広綱の子勢多伽(せたか)が乱後捕らえられ、助命が叶うかと思われたのものを、広綱の弟信綱が強いて請い受けて斬首していますが、その時、信綱が勢多伽に、こうなったのも広綱が信綱に「口惜しく当た」ったからだといっているのは、そうした一族内の反目を物語っています。


胤義が自害する前に兄三浦義村の勢に遭遇し、本来なら63904鎌倉で世を過ごすところを、義村が恨めしく当たる悔しさに、都で院に呼ばれて謀叛を起こしたのだと、恨み言を述べて義村勢と合戦するくだりがあるようですが、これなども同様でしょう。


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2006年11月02日

京方兵力の構成と戦後処理〜反北条氏の意識(3)

伊予の河野通信の場合も、北条氏との確執があったようです。

通信は63699北条時政の娘を妻としていましたが、どういう事情だか、夫婦争いをして63904鎌倉を退出し京方に付いたと「河野系図」は伝えているようです。この通信と63699時政の娘の間に生まれた通久は、承久の乱に際して母方と行動をともにし、関東方として宇治川を先陣で渡り、その功によって讃岐国富田荘(後に伊予国石井郷と替える)を与えられました。

また、熱田大宮司能範とその一族の有範の場合は、頼朝の母方の縁に連なる姻戚関係からくる、北条氏への反感があったものでしょうか・・・。

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2006年11月01日

京方兵力の構成と戦後処理〜反北条氏の意識(2)

軍記類などで強調されるのは、これら京方武士たちに共通する反北条氏の意識です。
例えば『承久兵乱記』では、藤原秀康三浦胤義、仁科盛遠、佐々木高重らの名を挙げ、
「これは皆、義時を恨むる者ども」だとしています。このうち、胤義秀康に京方参加の誘いを受けた時、その妻が先に嫁した頼家と、その子の栄実とをともに北条氏に討たれたことから、北条氏に対する恨みを抱いていることを告白しているようです。

また仁科盛遠は子供を連れて熊野詣をしている途上で後鳥羽と出会い、子供が美童であったことから後鳥羽の西面に召されることとなり、その縁で盛遠自身も西面となりましたが、これに対して義時が関東の恩を受ける身で院への奉公は心得ないことだといって恩領二ヶ所を没収したので、義時を恨むことになったと言います。


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2006年10月31日

京方兵力の構成と戦後処理〜反北条氏の意識(1)

守護たち以外にも、乱で京方に属した武士には、さまざまな動機があったと思いますが、先ずその一つとして、頼朝死後、承久の乱に至るまでの期間に起きた反幕府蜂起の余党・残党と思われる武士達がいました。順次挙げてみます。


筑後の武士勝木則宗は、1200(正治2)年の猫梶原景時の叛乱で猫景時に与したとして罰せられ、後に許され院西面に属していたのが、承久の乱で再び幕府に敵対することになります。
糟屋氏の一党は、63699北条時政に滅ぼされた頼家の外戚比企氏と婚姻関係にあり、比企能員の女婿だった有季、後鳥羽武者所に属した有久・有長は乱で討ち死にし、さらにその姉妹が一条高能に嫁して生んだ能氏は乱後に梟首されました。

また63723和田義盛の孫で実朝の寵臣だった和田朝盛は、和田合戦に生き残って京都に赴いたのが、乱の際に動員されています。


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2006年10月29日

京方兵力の構成と戦後処理〜京方についた守護たち(7)

承久の乱以前は、強盗の逮捕、謀叛事件や山僧の闘乱停止などの軍事行動は、幕府ではなく院の命令で行われていて、在京する武士達が院の命令で行動することに慣れていたということもありました。


例えば、1205(元久2)年の平賀朝雅誅殺では、討伐軍の中核は、五条有範・後藤基清・安達親長・佐々木広綱・佐々木高重らで、いずれも後の承久京方として名を残していて、しかも有範を除く他の四人は、乱の時期にはすべて守護をも兼ねていたようです。


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2006年10月28日

京方兵力の構成と戦後処理〜京方についた守護たち(6)

摂津守護大内惟信始め京方についた守護たちが、幕府の恩恵に与りながら京方に付いた理由は、どこにあったのでしょう?

中でももっとも多くの守護職を持っていた惟信の場合、その職は承久の乱以前に死んだと推測される父惟義の遺跡を継いだものが多いです。
父惟義は粕屋有久らとともに、1215年頃から院領の一部を与えられて知行していて、63904鎌倉の御家人であると同時に院の恩恵をも受ける存在でした。こうした立場に加え、平賀朝雅の事件ですでに示されたように、大内氏は信濃源氏の名流でもあり、実朝の死によって源家と幕府との関係が薄れた時、相対的に幕府から独立して行動しようという契機が表面化したものと考えられます。


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2006年10月27日

京方兵力の構成と戦後処理〜京方についた守護たち(5)

摂津守護の大内惟信が、いつの頃から後鳥羽と接近していたから不明ですが、惟信を京方に引き入れても、この地域の地頭が義時であれば、摂津の守護を味方につけてたことの効果は減殺されるでしょう。

乱の現実の経過からは、この地域の幕府が握っていたことの意味は明らかではありません。しかし少なくとも潜在的には重要な軍事的意味を持っていたからこそ、後鳥羽と幕府との争点として大きく浮上しました。


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2006年10月26日

京方兵力の構成と戦後処理〜京方についた守護たち(4)

前述のような地域的な条件を考慮すると、乱の発端となった亀菊の長江・倉橋荘の一件も、別の角度から見えてきます。すなわち長江・倉橋荘の位置は、摂関家領の長江荘と接近する地域であることはほぼ間違いないようで、淀川の河口近くにあって畿内と瀬戸内海地方とを結ぶ交通の要衝でした。


1215(建保3)年5月、高陽院において後鳥羽が三七日の逆修を行うに当たり、人々が進物を捧げた中で、亀菊は「種々の唐薬八枝」を贈っていますが、このような珍奇な品を手に入れることができた背景には、そうした所領の交通の便があったとも推測できます。京都で軍事行動を起こすために各地の兵力を動員するさいには、この地域の持つ軍事的な重要性が浮上します。

ですがそうした重要地域が、一説に伝えられるようにこの両荘の地頭としての義時本人によって押さえられていたとすれば、言ってみれば京方にとっての目の上のたんこぶのような存在であり、地頭を廃止することの軍事的な意味はより増大します。

つまり長江・倉橋の件は承久の乱の発端となったというより、倒幕をすでに決意していた後鳥羽が軍事的な障害を取り除くために行った申し入れだったと考えた方が理解しやすいかもです。倉橋荘について、承久京方の主要人物の一人法印尊長が領有に関係したことも、この推定を裏付けている・・・かと思います。

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2006年10月25日

京方兵力の構成と戦後処理〜京方についた守護たち(3)

さらに山城・大和・河内・和泉・摂津の五畿内国のうち、三ヶ国はもともと不設置ななのですから、京都守護と摂津守護さえ味方につれば、すべて京方で固めたことになり、守護を使った幕府方の組織的な兵力動員を恐れる必要はなくなります。


乱の経過を見ると、摂津守護の大内惟信は城南寺の勢揃えの段階から参加していましたし、京都守護の伊賀光季と大江親広は蜂起の最初の手はずとして後鳥羽の御所へ呼ばれ、それに応じた親広は後鳥羽自身に参加を命じられて断ることも出来ずに承諾、警戒して応じなかった光季は討たれるという形で、京方にとってまず五畿内を固めることが重要だったことは、これで分かります。


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2006年10月24日

京方兵力の構成と戦後処理〜京方についた守護たち(2)

前述の守護の分布に関して目を惹く点がいくつかあります。

畿内のうち、乱後に六波羅探題に発展する京都守護が在京していた山城を除けば、大和は当初より不設置、河内も確証はありませんが不設置だったようです。和泉は紀伊と並んで当初は守護が置かれてましたが、1207年6月、後鳥羽が熊野に参詣する際に道中の諸負担がかかることを理由に廃止されています。
この事実はどういう意味を持っているんでしょう。

まず和泉・紀伊が不設置だったことは、一つは京から南海道諸国への連絡路が確保されていたことを意味していて、もう一つは不設置の理由にも現れている熊野、あるいは伊勢・伊賀方面への迂回路が確保されていることになるでしょう。

そうした観点からすると、この両国の守護廃止は、熊野詣に名を借りた倒幕への深謀遠慮だったのではないでしょうか。


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2006年10月23日

京方兵力の構成と戦後処理〜京方についた守護たち(1)

次に、全体としての傾向とは別に、乱に参加した個々の武士達の動機を検討してみたいと思います。

まず幕府によって任命された守護でありながら京方に付いた武士達がいたことに注目しなければならないでしょう。
その名を挙げると、推測も含みますが次のようになります。
大内惟信(美濃・伊賀・伊勢・越前・丹波・摂津。尚惟信の場合、父惟義からの継承時期が明確ではないので、便宜上すべて惟信としました)、後藤基清(播磨)、宗考親(安芸)、佐々木広綱(近江・長門・石見)、佐々木高重(阿波)などです。

これらの守護たちの分布は近江以西ということで、京方兵力全体の分布と重なるようです。そしてこれを見ると、京方は畿内近国の全部を固めたといっても過言ではありません。


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2006年10月22日

京方兵力の構成と戦後処理〜倒幕の決意(6)

すでに触れましたが動員兵力の分布を地域的に見ると、幕府側は遠江以東の東国諸国、対する京方は史料によって多少異同があるにせよ三河以西の諸国という、かなり明確な色分けができるかと思います。東西対決といってもあながち誤りではないでしょう。

但し九州については、恐らく乱が短時日で決着したため参加する時間が無かったこととも関係するでしょうが、北九州の一部勢力が京方に加わったくらいで、全体をはっきり色分けすることは出来ません。
また承久の乱後に地頭に任命されたものの分布によって、京方兵力の出身を分析したある学者によると、京方武士の出身地を西国、それも畿内近国、山陰道、瀬戸内海沿岸、北九州としています。


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2006年10月20日

京方兵力の構成と戦後処理〜倒幕の決意(5)

京方勢力で指揮・命令系統の中心となったのは、いうまでもなく西面や北面として院に仕えていた武士たちですが、主な武士でこれまで挙げていなかった人々に簡単に触れておきます。


後藤基清は上北面の武士で播磨守護でもあり、乱後、幕府は子供の基綱の手で斬らせるという残酷な処刑を行っています(泣)。
八田知尚は、後鳥羽が幕府に命じて武技に長じたものを集めた際、それに応じて西面となった武士です。
また京方の中で奮戦した山田重忠は、『沙石集』には八重ツツジを愛(め)でるような風雅の心有る人として語られています。


目沙石集・・・鎌倉中期頃の仏教説話集で十巻、説話の数は134話があります。無住道暁(宇都宮頼綱の妻の甥・常陸国法音寺で18歳にて出家)が編纂。1285年(弘安6)年に完成。笑い話・昔話などの庶民的な御話が収められています。


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2006年10月19日

京方兵力の構成と戦後処理〜倒幕の決意(4)

京方で戦った人々の顔ぶれを見ると、倒幕の企てに当初から加わっていたと言われているのは、中御門宗行・源有雅、先述した北面の武士藤原秀康ほか、後鳥羽の近臣、西面・北面の武士らでした。

その一人、宇治川合戦で討ち死にする藤原朝俊は弓馬相撲をもって芸となすと言われ、後鳥羽好みだったらしいですが、かつて鳩を捕る為に松明を持って朱雀門に登り、その松明から朱雀門が焼失したという逸話を残した人物です。

なかなか面白い逸話ですが、結局は討ち死にしてしまったわけですので何となくもの悲しい感じが致します。


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2006年10月18日

京方兵力の構成と戦後処理〜倒幕の決意(3)

そんな中で実朝の死という椿事が発生するわけですが、その直後、1219年7月、源頼政の孫頼茂が後鳥羽の命で追討されるという事件が起きました。

頼茂は内裏守護の任にあったため、内裏の殿舎に閉じこもって防戦し、最後は火を放って自殺します。この事件の原因を古活字本『承久記』は、頼茂が源氏の一門であることから、後鳥羽が関東を滅ぼす一環として討ったのだとしており、あるいは頼茂が将軍になろうと企てたことが顕れたためとも言われていますが、真相は定かではないようです。

ただ頼茂は実朝と親しかっただけに、その後ろ盾を失ったことと、この事件は無関係ではないだろうし、彼が有力な源氏一族であったことから、後鳥羽承久の乱の小手試しをやったということも考えられます。

また『愚管抄』は、頼茂が「伊予の武士河野」を仲間に入れようと誘いましたが、この河野から話が漏れたと伝えているのは、後に承久の乱で河野通信(みちのぶ)が京方で戦うことと考えあわせると、この頃から、あるいは後鳥羽と通信の関係が生じていたかとも推測できるかもしれません。


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2006年10月17日

京方兵力の構成と戦後処理〜倒幕の決意(2)

最勝四天王院は1219年の大火で焼失し、五辻殿へ移転されたもので、前述の記事をそのまま事実とするには無理がありそうですが、1210年4月の頃から、後鳥羽が「天魔出現」を理由として、各所の寺社に祈祷するよう命じると共に、最勝四天王院において百口の僧をもって仁王経・法華経・最勝王経などを転読したという記録はあります。

この「天魔出現」は口実で、関東調伏が真の狙いであったとすれば、このころには後鳥羽が幕府打倒を考えていたと見ることができますし、そもそも最勝四天王院自体がその目的で建てられたとしたら、さらに1207年までさかのぼることができます。

有名な、
奥山のおどろの下を踏み分けて  道ある世ぞと人に知らせん

という後鳥羽の歌は1208年の作品ですが、「道ある世」だということを人に示すために倒幕に踏み切るという、後鳥羽の密かな決意表明であったかもしれません。
後述しますが、和泉・紀伊両国は後鳥羽の熊野詣に奉仕するため諸負担がかかるという理由で、守護を廃止したのも1207年のことであって、西国の創設などを併せ考えると建水から承元間(1206〜1210)が一つの節目であったと想定できると思います。

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2006年10月16日

京方兵力の構成と戦後処理〜倒幕の決意(1)

承久の乱の経過については既に述べましたが、この乱について考える時、まず後鳥羽がいつ頃から倒幕を企てていたかを検討する必要があります。

承久兵乱記』に後白河が三条白河に寺を建て、最勝四天王寺と名付けて四天王寺を安置し、関東の調伏を行いましたが、実朝が討たれたと聞いて調伏が成就したというので、にわかにこの寺を壊してしまったという記事があります。

最勝四天王寺とは、1207(承元元)年に後鳥羽が建立した最勝四天王院を指します。


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2006年10月15日

幕朝の軋轢、そして承久の乱〜大義なき戦の結果(5)

一方で浮上したのが高倉天皇の皇子で安徳の弟、後鳥羽の兄にあたる守貞親王です。

守貞はバースデー安徳とともに平家にともなわれたために、バースデー安徳の後継天皇の選には最初から対象に加えられず、無事に帰京したものの、そのまま半ば忘れられた存在でした。ところが突発事態の中で、それまで誰一人顧みることなく忘れ去られていた守貞親王の子供で十歳の茂仁(しげひと)親王が、1221(承久3)年7月9日、鎌倉幕府の意向で位に就く事となりました。


それとともに入道していた父の守貞親王は、親王から直に太上天皇(法皇)となります。この茂仁が後堀河天皇、守貞が後高倉院となるわけです。



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2006年10月14日

幕朝の軋轢、そして承久の乱〜大義なき戦の結果(4)

逃亡した尊長・秀康・惟信らは引き続き捜索が行われました。

このうち尊長については後述しますが、秀康・秀澄の兄弟は奈良に潜んだ後、ついで河内へ逃れたところで捕縛され処刑されました。惟信は十年近く潜伏した後、1230(寛喜2)年12月、法師の姿で日吉八王子の庵室に隠れ住んでいることを探知され、武家からの申し入れによって叡山の悪僧が搦め取って武家に引き渡されましたが、一命は許され西国に流されました。

ですがこうした一連の経過における最大の焦点は、言うまでもなく後鳥羽ら三上皇と仲恭天皇の処遇でした。

いかに院宣で「今度の合戦は。叡慮より起こらず」などといってみても、後鳥羽の責任が問われない・・・というわけにはいきません。
この点において幕府側は断固たる態度を示しました。つまり後鳥羽は隠岐、土御門は土佐(後に阿波)、順徳は佐渡へと配流、幼い仲恭は廃帝として九条家に養われる身となりました。乱の一因を作ったといわれる後鳥羽の寵妾亀菊は、1239(延応元)年の後鳥羽の死まで近侍したと伝えられています。


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2006年10月13日

幕朝の軋轢、そして承久の乱〜大義なき戦の結果(3)

ちょっと間があいてしまいましたが・・・・続きです。

承久の乱の張本である公卿や僧侶、葉室光親・中御門宗行・源有雅・高倉範茂・坊門忠信・一条信能・長厳・観厳らは六波羅に渡され、いずれも死罪・流罪などに処せられることとなりました。後鳥羽の寵臣として知られていた光親は、義時追討の院宣を発した責任者であったことが断罪の直接的な理由となった形ですが、実は光親本人は後鳥羽の企ての無謀を思い、再三諌めたにもかかわらず容れられずに、やむなく荷担したもので、後鳥羽を諌める数十通の状が御所に残されていたのを知って、後で泰時が後悔した話も伝わっています。

7月7日夜には関東の使者として二階堂行盛が藤原基通邸に到着し、九条道家の摂政を停止し、前関白近衛家実を摂政、氏長者とするよう申し入れ、それにしたがって翌八日には家実が摂政に就きました。さらに7月20日には幕府の奏請により、前内大臣源通光、権大納言源定家、権中納言源通方、参議藤原親定、参議藤原信成、前権大納言藤原定輔、前権中納言藤原教成らが「恐懼」という処分を受けています。
こうして成立した新たな朝廷の体制の中では、一貫して親幕の姿勢を示していた西園寺公経が内大臣として実権を握ることとなりました。


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2006年10月07日

幕朝の軋轢、そして承久の乱〜大義なき戦の結果(2)

6月15日巳の時、泰時・時房らが、遅れて17日の午の時、北陸道を進んだ朝時が、それぞれ六波羅に入りました。
後鳥羽泰時らが六波羅に入るに先立ち、勅使として大夫史国宗を遣わし、樋口川原で、今度の合戦は後鳥羽の考えから起こしたものではなく、謀臣らが行ったことである、今となっては申請するとおりに宣下しよう、京都の中で狼藉を引き起こさぬよう東軍に下知せよという院宣を伝えさせました。

泰時・時房らは六波羅にあって、京方残党の捜索・処刑を行う一方、63904鎌倉に急使を送って戦況を報告するとともに、恩賞の分配や後鳥羽以下の上皇・天皇らの処置について義時の指示を仰ぎました。

乱による死者・負傷者の数がどれほどかは定かではないですが、慈光寺本『承久記』では東国から京へ攻め寄せた人々のうち、討たれたり水死したりした人は一万三千六百二十人と記しています。後鳥羽の恣意から出た大義なき戦の結果です。


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2006年10月06日

幕朝の軋轢、そして承久の乱〜大義なき戦の結果(1)

敗れた京方の将、秀康・胤義・重忠らが上皇御所の門前へ戻って敗軍の状況を告げると、武士達が立て篭もると鎌倉方が包囲して攻めるであろうから、早々にいずこかへ立ち去れという無情な返事でした。

これを聞いて胤義は、かくまで無責任な主君に誘われて幕府に背いた惨めな姿を自嘲したと言います。その後、京方の将は諸方へ落ち行き、胤義は木島で自害、重忠もまた嵯峨の般若寺山で自害、秀康は後に尋ね出されて処刑されることとなります。


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2006年10月05日

幕朝の軋轢、そして承久の乱〜最後の防衛線、宇治川渡河(4)

以上のような状況を打開するため、遂には泰時自ら河を越えようと決意しますが、その間、泰時の命によって河瀬の深瀬を探った芝田兼義の先導で、佐々木信綱中山重継以下の武士達が、ようやく渡河に成功。

やがて民家を壊した木材でイカダを組んで渡すなどして、続々と東軍が渡河するに及んで、両軍の形成は一変します。
源有雅・高倉範茂・安達親長ら京方の将は逃げ去り、残った藤原朝俊・八田知尚らはことごとく討たれるか潰走して、乱の最大の決戦は終わりました。


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2006年10月04日

幕朝の軋轢、そして承久の乱〜最後の防衛線、宇治川渡河(3)

承久の乱より半世紀あまりを過ぎた頃、日蓮は、承久の乱で宇治・勢多に寄せた東国勢の様子を次のように描写しています。

「同じき六月十三日、その夜の戌亥の時より、青天にわかに陰リて震動雷電して武士どもの首の上に鳴りかかり鳴りかかりし上、車軸のごとき雨を篠を立つるがごとし。
ここに十九万騎の兵ら、遠き道は登りたり、兵乱に米尽きぬ。馬は疲れたり、在家の人は皆隠れ失せぬ。冑は雨に打たれて綿のごとし」と。

日蓮が、このように詳細な情報をどうやって得たのかは分からないし、いうまでもなく伝聞には違いないと思います。ですが、ここに描かれた東軍将士の姿が、当時の実相と懸け離れたものとも言えません。もし宇治川を渡れないままに日数を重ねれば、日蓮が、「今日を過ぎれば、皆翻心(心変わり)して堕つべし」と記したように、せっかくの大軍も一人二人と欠け落ち、やがては雪崩れを打って四散してしまうことも大いに考えられました。結果から見えるほど東国勢の容易な勝利ではなかったと推測できます。


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2006年10月03日

幕朝の軋轢、そして承久の乱〜最後の防衛線、宇治川渡河(2)

野路でしばし休息した東軍は、13日、かねての打ち合わせに従って、雨の中を、それぞれの攻め口に向かいました。まず勢多へ向かったの時房の軍は、板橋を外して楯を並べた山田重忠以下、叡山の山僧を交えた京方と対峙、次いで毛利季光・三浦義村らが淀・芋洗に向かい、泰時は栗子山に陣取りました。

ですが宇治を引き受けた足利義氏・三浦泰村らは、泰時に断わりなく宇治橋の辺りで合戦を始め、京方の放つ雨のごとき矢に当たって倒れるものが続出しました。夜半になって宇治の戦況を報じられて驚いた泰時は、豪雨の中を宇治に赴き、合戦の一旦中止を命じました。
翌14日、昨日来の雨によって増水した宇治川を渡り、対岸に陣する京方と合戦しようと東軍の将士が続々と川中に身を投じますが、急流に押し流されて水死する者八百騎を超えました。もともと東国勢にとって、武装して京都まで急進撃するという長途の疲れと、糧秣補給の不安とは、一旦その勢いが止まれば、脱落者の増大によって、思いの外にもろく崩壊してしまうという危険につながります。宇治川を渡りかね、あるいは渡ろうとして急流に流される将士の姿に、泰時が一旦は「今においては大将軍死すべきの時なり」と覚悟を固めたのも無理はありませんでした。


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2006年10月02日

幕朝の軋轢、そして承久の乱〜最後の防衛線、宇治川渡河(1)

京方では8日に秀康・筑後有長らが手傷を負って京へ帰り、6日の合戦の敗北を告げました。
そこで院中は騒動となり、仲恭天皇と三上皇・二親王は尊長法印の押小路川原邸に移り、その後、さらに叡山を頼って坂本まで赴きました。

ですが、叡山の兵力だけでは東軍を防ぎがたいという理由で事実上追い返され、10日には再び高陽院に戻りました。

12日、東軍の進撃に備えて、宇治を中心に三穂崎・勢多・真木嶋・芋洗・淀などに京方の兵が配備されましたが、これは京方の最後の防衛線となりました。


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2006年10月01日

幕朝の軋轢、そして承久の乱〜濃尾三川地域での攻防(4)

後述するように京方は畿内近国中心の動員だけで戦ったようなもので、もし中国・四国あるいは九州の兵力による増援があったなら、乱の帰趨は分からなかったようです。そのための時間稼ぎとしても、この美尾三川地域での攻防は重要であったはずです。

ですが、その第一の防衛線はもろくも撃破され、七日、東山・東海両道の東軍は合流して野上・垂井に宿し、軍議を行って、京攻めの手配りを決めました。
勢多には時房、手上には安達景盛武田信光、宇治には泰時、芋洗には毛利季光、淀には結城朝光・三浦義村らという手はずです。



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2006年09月27日

幕朝の軋轢、そして承久の乱〜濃尾三川地域での攻防(3)

前述の地域の重要性は地勢的に、東山道からの軍勢も東海道の軍勢も、木曾川・長良川・揖斐(いび)川という三大河川とその中小の支流に阻まれて、この地域で大軍を展開することは難しく、その代わり一度墨俣を超えてしまえば、東山・東海両道の勢を合わせた大軍が展開できる余地が広がるからです。したがって西側から防ぐなら、中小の渡河点に兵力を分散させるより、墨俣一ヶ所に絞って防御に当たった方が効率的です。

また、もし相対的に小勢で東に攻め込むのであれば、東山・東海両道の軍が合体する前にどちらかを各個撃破するよう考えるべきであって、重忠の案の成否は別として、秀澄のように小兵力を分散させて逆に個別に殲滅されてしまうのは、いずれにせよ得策ではないでしょう。

どれほど正確かはともかく、表面上の数字からは東国勢の圧倒的優勢が動かないように見えます。ですが、見かけほど東国勢が一体の存在だったかどうかは疑わしいです。例えば美濃東大寺についた東山道の将、武田信光と小笠原長清との会話の中で、信光は63904鎌倉方が勝てば63904鎌倉に付き、京方が勝てば京方に付くというのが弓矢取る身の習いだと、いともあっさり割り切っています。こうした考えの人々を糾合するに当たって、‘時の勢い’の持つ力の大きさを知るからこそ、63899広元善信63919政子ら、治承・寿永の戦歴を知る人々はそれぞれに一刻も早い京攻めを主張したのでした。


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2006年09月26日

幕朝の軋轢、そして承久の乱〜濃尾三川地域での攻防(2)

慈光寺本『承久記』は、この時、一万二千の兵を大井戸・板橋・伊義・大豆戸など十数か所に分散配備した秀澄の作戦に対し、山田重忠が異論を唱え、一万二千騎を一丸として墨俣を押し渡り尾張の国府をうち破って、東海道軍の泰時・時房を討ち取り、一気に63904鎌倉へ押し寄せようとおいう積極策を提案しました、ところが臆病な秀澄は北陸道軍・東山道軍によって背後から包囲されることを恐れて持久策を変えなかったという話を伝えています。

他に所伝が無いので実話かどうかは疑わしいですが、その真偽を離れて検討したら、承久の乱全体に占めるこの地域の戦いの重要性からいって、一概に荒唐無稽と退けることもできないかと思います。


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2006年09月25日

幕朝の軋轢、そして承久の乱〜濃尾三川地域での攻防(1)

6月5日、東海道の幕府方先陣は尾張一宮に到着、ここから木曾川・長良川などの渡河地点の各所に軍勢を派遣しました。鵜野渡には毛利季光ら、池瀬(いきがせ)には足利義氏、板橋には狩野介入道、大豆戸には泰時・義村ら、墨俣には時房・安達景盛らという布陣です。他方、この地域辺りから、東海道軍とほぼ並行する形で、そのやや北方を進む東山道軍は、木曾川の河合・大井戸などの渡を固める京方と戦うこととなりました。

そして、この日の夜、大井戸の戦を皮切りに翌日にかけて、この周辺の渡場各所で東西両軍の合戦が繰る広げられましたが、京方は山田重忠ら一部の武士が奮戦したとはいえ、大方はろくに戦わないまま逃亡し総崩れの形勢となりました。


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2006年09月23日

幕朝の軋轢、そして承久の乱〜東国武士十九万騎の進発(4)

前述に先立って19日、京方の軍勢は63904鎌倉方の進撃に備えて各所に配置されましたが、26日、その一人で美濃に遣わされた秀康の弟秀澄から、雲霞のごとき東国軍の来攻が京に報じられ、院中は周章狼狽のありさまとなりました。

そうした中、28日には清水寺の僧侶が新たに造立した勝軍地蔵・勝敵毘沙門の像に後鳥羽の願文を納めて供養し、戦勝祈願を行いました。



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2006年09月23日

幕朝の軋轢、そして承久の乱〜東国武士十九万騎の進発(5)

6月1日、押松が高陽院に帰り着き、義時の返答を伝えるとともに、63904鎌倉の情勢や帰途に見た無数の東国勢のありさまをも披露します。
この時、院中は「上下万人、皆伏し目」になって、ただ肝を潰すのみでした。

ですが防戦の手立てを講じないわけにはいかず、後鳥羽の命令で秀康が手配りをして、東山道・東海道へは大内惟信・秀康・秀澄・胤義・広綱らの主力軍一万二千騎、北陸道へは宮崎左衛門尉ら七千騎、総計一万九千騎を派遣、残り七百騎ほどは宇治・勢多を固めることとしました。

この時点での京方の軍勢は、城南寺の流鏑馬揃えに召集された兵力にさらに増援軍が加わっていたことは当然でしょうが、増援の人数や出身地域までは不明です。ただ光季追討の合戦が行われた後も、引き続き召集の努力はなされていたようです。そのことは『吾妻鏡』に載っている、但馬の法橋昌明という人物のもとへ、武士を召し集めて京都へ赴くようにという院の使いが五人やってきましたが、昌明が彼らの首を切って召集に応じない姿勢を示したため、京方に付こうという但馬国内の軍兵が襲い来たという話が、光季追討以後だったことからわかります。


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2006年09月22日

幕朝の軋轢、そして承久の乱〜東国武士十九万騎の進発(3)

一方、院宣を帯びて遣わされた院下部の押松は、しばらく63904鎌倉に止め置き、東国勢の壮観を見ながら京へと帰るようにしたほうがよいという意見で、ただちには釈放されず、ようやく27日になって義時の院宣への返答を託されて帰途につくことができました。

この時の返答は慈光寺本『承久記』によれば、染絹・金銀・鷲羽・馬など年に2,3度進上しているのに、何の不足があって、このような院宣を出されるのか、武士を召すというのであれば東海・東山・北陸の三道から十九万騎の勢を差し向けるから、西国の武士たちと合戦させて御簾の間からご覧あれ、また、もしそれでも不足なら押松のように足の速い下部を下せば、さらに義時自ら十万騎を連れて見参しよう、という不敵な口上でした。


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2006年09月21日

幕朝の軋轢、そして承久の乱〜東国武士十九万騎の進発(2)

23日、義時63899広元三善康信・小山朝政・宇都宮頼綱らの宿老は63904鎌倉に残留して、祈祷や軍勢の手配に当たることとし、それ以外の主だった東国武士は22日〜25日の暁までにすべて進発しました。
その総数約十九万騎・・。総勢を三手に分けて、東海道は泰時・時房・義氏・義村以下、十万騎、東山道は武田信光を大将に小笠原長清・小山朝長・結城朝光以下、五万騎、そして北陸道は朝時・結城朝広以下、四万騎に編成しました。

この時幕府勢は、親が京へ向かえば子は東国に留まり、子が京へ向かえば親は留まるというように、父子兄弟がそれぞれ分かれて、言ってみれば人質をとられるような形で編成されたと古活字本『承久記』は記していますが、その真偽は不明です。

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2006年09月20日

幕朝の軋轢、そして承久の乱〜東国武士十九万騎の進発(1)

この日、一族を引き連れて遠征軍に参加するようにという義時の指令が発せられたのは、『吾妻鏡』によれば遠江・駿河・伊豆・甲斐・相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸・信濃・上野・下野・陸奥・出羽などの東国諸国に向けてでした。

21日、再び軍議が行われ、京へ派兵するという積極策に対して改めて異議が唱えられました。ですが63899広元は、派兵と決めながら時を過ごすからそうした異論が出るので、武蔵の軍勢を待つことすら間違いである、さらに日時を重ねれば武蔵の勢もまた変化するかもしれない、この上は泰時一人でも出発すれば東国勢は雲霞のように従うであろうと主張したようです。

義時63899広元の言に感心したようですが、なお幕府の宿老である入道善信三善康信)の意見を請うと、これもまた63899広元とまったく同様な説でした。ここに至って義時も決心し、夜中にもかかわらず泰時が進発することとなり、とりあえずその日のうちに稲瀬川の藤原清近の家まで赴き、翌22日、いよいよ京へと向かいました。この時点で付き従う者、子息時氏など十八騎。その後、北条時房足利義氏三浦義村以下も次々と進発し、北条朝時もまた北陸道の大将として出発しました。

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2006年09月19日

幕朝の軋轢、そして承久の乱〜甘かった京方の見通し(5)

この時に当たって、63904鎌倉ぼ諸将は63919政子のもとに集まって事態を協議しますが、その際、63919政子は決然として、頼朝の幕府草創以来の恩義を説き聞かせ、「非義」の綸旨によって追討を命じられることの不当さを指摘して、京方につくか63904鎌倉方につくかの決断を御家人達に迫りました。

この63919政子の言葉に対して、あえて京方につこうというものは現れず、大勢は一気に決して、義時邸での軍議へと進展します。軍議での意見はまちまちだったそうですが、足柄・箱根の関を固めて京方の来攻を待つべきだという考えが、むしろ優勢だったようです。
ですがそうした意見に対して63899大江広元は、63904鎌倉が一致団結しないまま、いたずらに関を守って日数を重ねれば敗北の基となるから、一刻も早く軍兵を京へ差し向けるべきだという積極策を主張。
そして義時が両案の採否を63919政子に委ねたところ、63919政子63899広元に賛成し、北条泰時を大将として武蔵国の軍勢の到着を待って出兵することに決定、早速、派兵の手配りが行われました。


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2006年09月18日

幕朝の軋轢、そして承久の乱〜甘かった京方の見通し(4)

5月19日、光季の飛脚が63904鎌倉に着き、次いで西園寺公経の発した飛脚も着いた事によって、京都の重大事態が63904鎌倉でも明らかとなりました。そこで63904鎌倉中を捜索して押松を召し取り、所持していた宣旨などを没収。


一方、胤義の使いを迎えた三浦義村は返報せずに使いを追い返し、胤義の書状を持って義時のもとに赴き、63904鎌倉方への忠誠を示しました。幕府の有力諸将を懐柔し、内部分裂によって倒幕ができると判断した京方の見通しが、いかに甘かったかが露呈した一幕でした。


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2006年09月17日

幕朝の軋轢、そして承久の乱〜甘かった京方の見通し(3)

この時、後鳥羽が関東で義時と運命を共にするものはどのくらいいりかと尋ねると、胤義は朝敵となっては味方するものはいないだろうから、千人に満たないだろうと答えました。

すると、折から居合わせた別の武士が、千人などということはあり得ない、いかに少なく見ても万人以下ということはないだろう、自分も関東にいれば義時方に付いたに違いないと思うままを述べたので、後鳥羽が不快になったという挿話があるようです。

恐らく現実に京方の認識はこの程度だったのでしょう。


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2006年09月16日

幕朝の軋轢、そして承久の乱〜甘かった京方の見通し(2)

光季は京都守護の役柄から63904鎌倉へ脱出することはできないと断念し、三十名足らずの手勢のみで討手と戦う覚悟を決めました。

やがて八百騎とも一千余騎ともいわれる院方が到着し激しい戦闘を繰り返すこと二刻ほど、手勢を失い、自らも痛手を負った光季は次男光綱とともに、宿所に火を放って自害を遂げました。また、これより先、朝廷内の親幕派と見なされた西園寺公経・実氏親子は召し籠められてしまいます。

光季の下人は、事態を告げるため63904鎌倉へと急行しましたが、胤義もまた合戦が終わってから、かねての打ち合わせ通り、兄義村に院方につくよう奨める手紙を書いて使いに託しました。さらに後鳥羽も秀康に命じて、五畿七道諸国に義時追討の院宣を発し、63904鎌倉の武田信光・小笠原長清・小山朝政・宇都宮頼綱・足利義氏・北条時房・三浦義村ら有力武将に対しては、特に後鳥羽の意向を伝えて味方につけるため院下部の押松を63904鎌倉へと送り出しました。


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2006年09月15日

幕朝の軋轢、そして承久の乱〜甘かった京方の見通し(1)

後鳥羽は合戦の手始めに義時の縁者で京都守護として在京していた伊賀光季を討つよう藤原秀康に命じました。秀康はそこで三浦胤義と相談し、光季は武勇に優れているので宿所に寄せて討つのは大変だから、高陽院に召して前庭で討つのがよいが、召しに応じない場合は運に任せて押し寄せようと決めました。

その期日は5月15日と定められましたが、当日になって光季は三度にわたる院宣にも応じようとはしませんでした。その理由は佐々木広綱がそれとなく光季に漏らしたからとも、あるいは西園寺公経が後鳥羽の不穏な動きについて光季に警戒を促したからとも言われています。

そこで秀康・胤義・親広ら後鳥羽方の軍兵は、光季を討つために高辻京極の宿所に押し寄せます。


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2006年09月14日

幕朝の軋轢、そして承久の乱〜承久の乱の発端(4)

かくして後鳥羽は1221(承久元)年4月28日、伏見の城南寺で流鏑馬揃えがあると称して各地の武士を集めるとともに、坊門忠信・葉室光親・源有雅・中御門宗行・一条信能・高倉範茂・僧正長厳・法印尊長らには直に意図を伝えました。この流鏑馬揃えに集まった武士たちは、流布本『承久記』によれば、大和・山城・近江・丹波・美濃・尾張・伊賀・伊勢・摂津・河内・和泉・紀伊・丹後・但馬の十四カ国の武士一千七百騎、また慈光寺本『承久記』では大和・近江・丹波・美濃・尾張・伊勢・摂津・紀伊・丹後・但馬・播磨・三河・伊予の十三カ国一千騎。
その中で主だった人々の名を挙げると、藤原秀康・佐々木広綱・大内惟信・後藤基清・三浦胤義・河野通信・大江親広などとなっています。

これに先立って後鳥羽は金峯山(きんぶぜん)に萌黄威(もえぎおどし)の腹巻を奉納し、勝利を祈願する一方、4月20日、順徳天皇は後鳥羽と心を一つにして合戦に当たろうという考えから、にわかに仲恭天皇に位を譲ります。そして後鳥羽をはじめ土御門・順徳の三上皇、六条宮・冷泉宮は高陽院(かやのいん)に集まり、四面の門を諸国の兵に警護させて合戦に備えました。

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2006年09月13日

幕朝の軋轢、そして承久の乱〜承久の乱の発端(3)

ともあれ、前述の一件があった後、倒幕の具体的行動に踏み切った後鳥羽は、まず藤原秀康を呼んで、院宣に従わない義時を討つためのはかりごとを巡らすように命じます。それを受けて秀康は、在京していた相模の三浦氏一門の三浦胤義を味方に引き入れることを進言し、酒宴にかこつけて胤義を招くと、胤義が在京し続ける真意を探りながら、あわせて後鳥羽の決意をそれとなく打ち明けて協力を求めました。

すると胤義はもともと自分は院の命令によって幕府に謀叛を起こすことを意図していたので、そのような院宣を蒙ることは面目とするところだ、兄の三浦義村のもとへ手紙を遣えれば義村も見方に付くだろうから、義時を討つことはたやすい、こうした企ては遅延してはまずいので早く軍議をすべきである、と積極的な姿勢を示しました。

そこで秀康が、その旨を後鳥羽に伝えると、早速に軍議するようにという命令が下りました。


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2006年09月12日

幕朝の軋轢、そして承久の乱〜承久の乱の発端(2)

乱の直後お発端として伝えられるのは、1219(承久元)年3月、実朝の弔問の際に後鳥羽が、寵妾していた白拍子亀菊に与えた摂津国長江・倉橋の二つの荘園に関して、現地の地頭が亀菊のいうことを聞かないので、地頭を置くことを停止するように幕府に申し入れたところ、院宣といえども頼朝から戦功としてもらった地頭職を召し上げることはできないと義時が断固として拒否した一件がありました。

この荘園を与えられた亀菊が伊賀局とも呼ばれ、出身は平安時代から淀川と神埼川との分岐点に栄えた江口・神埼の津の遊女だったといわれ、この地域と関係があったことは考えられます。ですが、いくら
後鳥羽が亀菊を寵愛したとはいえ、この一件が倒幕に踏み切るきっかけとして、それほど大きな意味を持つとは思えません。

後述するように、この件の背後には、何らか表面に現れない理由があったのではないでしょうか。また直接の発端にしては、挙兵まで2年もあって、むしろ日にちがあきすぎているのではないかとも思います。

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2006年09月11日

幕朝の軋轢、そして承久の乱〜承久の乱の発端(1)

一方、実朝の死とともに頼朝の血族が断絶したことによる幕府の求心力の弱体化を見澄まして、後鳥羽は倒幕の挙兵に踏み切ります。

鎌倉初期政治史の分水領ともいうべき承久の乱の勃発です。


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2006年09月10日

幕朝の軋轢、そして承久の乱〜「藤原将軍」頼経(5)

実際に頼朝の遠い血縁というだけでは、頼経が武士社会で将軍としての絶対的な正統性を主張するには弱い感じがします。『明月記』には1226年正月、頼経の征夷大将軍任命を申請する使いとして京都へ出向いた佐々木信綱が、藤原氏の氏神である春日神社へ赴き、神意に問うて頼経の藤原から源への改姓の可否を決めることになり、神慮は不可ということで取りやめになったと記しています。恐らく神慮というのは籤(くじ)を用いたものでしょうが、幕府が藤原から源への改姓を要望したのに対して、藤原氏が面子にかけて反対したらしい経過が窺えます。

ですが、この一事によって、幕府関係者には頼経の正統性について少なからぬ危惧があったことが想像されます。そして彼の正統性に疑問符が付いたからこそ、それを補うために頼経という頼朝頼家に通じるイミナを一字もらった名前を称し、また天変が続き飢饉の予想された1230(寛喜2)年には、そうした天変による将軍の正統性への疑念を封じるかのように、頼家の娘でしかも実朝室の猶子となっていた竹御所との婚儀を行って、いわば源家の養子格で政権の継承を行うのでした。


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2006年09月09日

幕朝の軋轢、そして承久の乱〜「藤原将軍」頼経(4)

頼経に決まった経過について、『増鏡』は63919政子が皇子を迎えたいという要望を西園寺公経に伝えたので、公経はその要望に沿おうと思いましたが、公経の娘婿の道家が公経の娘の間に生まれた頼経を将軍にしようといったので、それでも同じ事だと思って頼経に決めたと言います。


ですが公経や道家にとっては一つの好機であったかもしれませんが、63919政子や北条氏にとっては果たしてどうだったでしょう。

頼経は摂関家の血と同時に源家の血は引いていますが、北条氏とは全く血縁関係がありません。頼朝から実朝に至る三代将軍のように北条氏が外戚としての特権的地位を主張する権利がなくなるだけでなく、源氏の縁につながる勢力との結びつきは維持される可能性を含む点で北条氏にとって都合の悪い側面は否めません。


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2006年09月08日

幕朝の軋轢、そして承久の乱〜「藤原将軍」頼経(3)

後鳥羽がなぜ皇族の将軍就任を認めず、藤原氏ならよいのかといえば、後鳥羽自らが「いかに将来にこの日本国を二つ分ける」ようなことができようかと語ったように、藤原氏なら、いかに専権を振るったとしても、天皇に代わりうる正当性は主張できませんが、皇族それも皇子であれば、場合によっては天皇に代わりうる存在とならからです。
血統を同じくする二人の皇子が東西に分かれて、主権を争う事態が生じないという保証が無いだけに、この時点で恐らくすでに倒幕を企図していたであろう後鳥羽にとって、そのような危険性が認められるわけはありません。ですが藤原氏なら、元来天皇の輔弼の任に当たる存在だという位置づけによって、現実の力関係如何によっては改めて幕府を朝廷の支配下に位置づけし直すことも可能となるわけです。

6月3日、正式に天皇から頼経派遣の命が下り、頼経は6月25日に京を出て、7月19日63904鎌倉に到着しました。所謂「藤原将軍」です。
この日、幕府では新将軍の政所始がありましたが、将軍が幼いため63919政子が御簾の中から裁決し、その後、1226(嘉禄2)年に至って頼経は将軍に就任しました。


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2006年09月07日

幕朝の軋轢、そして承久の乱〜「藤原将軍」頼経(2)

朝廷と幕府の交渉は捗りませんでした。

京都へ赴いてひと月ほどしてから行光から、皇子のことについて院で会議があり、どちらかは必ず送るが、今すぐではないと伝えられたそうです。ついで三月初旬、内蔵頭藤原忠綱が後鳥羽の使いとして63904鎌倉に到着、63919政子を弔問するとともに、後に承久の乱について触れるところですが、摂津国の長江・倉橋荘の地頭を罷免するよう申し入れしました。

これに対して幕府では義時・時房・泰時ら北条一門と大江広元63919政子の邸で評議し、15日、63919政子の使いとして今度は時房が千騎の勢で京へと出発しました。

しかし、後鳥羽は最終的に皇子の派遣を拒絶し、藤原兼実の孫道家の子で二歳の三寅(後の頼経)を63904鎌倉に送るという形で妥協が行われました。三寅頼朝の妹で一条能保に嫁した女性の産んだ二人の娘の血を、父方と母方の双方から受け継いでいて、頼朝の血族として将軍の地位を継ぐ正当性を認められたのでした。


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2006年09月06日

幕朝の軋轢、そして承久の乱〜「藤原将軍」頼経(1)

1219(承久元)年正月27日、実朝が暗殺されてから1ヶ月の後、幕府は、実朝に代わる将軍として後鳥羽の皇子の鎌倉招聘を要請しました。簡単に経過だけを見てみると・・・。

先ずは2月半ば、後鳥羽の皇子である六条宮か冷泉宮のいずれかを関東に迎えたいという63919政子の意向を体して、二階堂行光が京都へ赴きました。これには幕府の宿老・御家人も連署の奏状を捧げて、同様の希望を表明。『愚管抄』によれば、将軍配下の武士達は主人を失って、おそらくさまざまな思惑を抱くであろうから、それを鎮めるために皇子を迎えたいという至極もっともな理由でありました。


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2006年09月05日

後鳥羽天皇の即位と倒幕の企て〜宝剣への執着(4)

この時期の政治情勢は、後鳥羽に倒幕の実現可能性を信じさせるようなものであったのも事実のうようです。頼朝の死後、頼家と有力御家人たちとの間に対立があり、後を継いだ実朝も幼少という状況下で、いくつかの謀叛事件(佐々木経高の京都での騒動など)も起きています。これらの事件の主な特徴としては、前述したように頼朝の縁者もしくは清和源氏の系譜を引く人物を担いでいる事とともに、63904鎌倉ないし関東における蜂起は少なく、京都が多いということです。 和田の乱のような強大な勢力による反乱でなければ、当初から幕府の本拠である63904鎌倉近辺で乱を起こすことはしないでしょうが、だからといってどこでも同じというわけではないようです。 京都で起きている事については、それなりの理由があるかと思います。 それは、東国の自立化傾向が存在してて、それに対する京都朝廷はなかんずく後鳥羽の反乱が見られる中で、そうした情勢を計算に入れ、朝廷による承認を期待して、これらの蜂起が行われたのだと推測します。 これらの叛乱の主謀者たちが、直接、後鳥羽とつながっていたり、後鳥羽の承認を得られたという史料的な根拠はありません。ですが、一連のこうした事件の延長線上に承久の乱が起きたことは、後述する承久の乱における京方兵力の分析によって明らかとなるでしょう。 よろしければ応援ポチとしてここここをお願いします。
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2006年09月04日

後鳥羽天皇の即位と倒幕の企て〜宝剣への執着(3)

宝剣を捜索させた後鳥羽のこの行為は、朝廷が治承・寿永の内乱期に失った軍事力の統制権、つまり神器の中の宝剣に象徴されていた武力を回復することを意図した象徴的な行為です。それはまた、幕府と朝廷が協調・融和しなければならないという、慈円が主張するような政治路線に対する象徴の世での反論ともなっています。

なぜなら慈円は『愚管抄』の中で、宝剣が失われたのは「武士(=頼朝)ノ君ノ御守りトナリタル世ニナレバ、ソレニ代ヘテ失セタ」のであって、「今ハ武士大将軍世ヲヒシト取リテ、国主、武士大将軍ガ心ヲ違ヘテハ、エヲハシマスマジキ時運」となった、つまり頼朝が朝廷を守る軍事力として出現したために宝剣は失われたのであって、それ故に幕府と朝廷は一致協力しなければならないという説明を展開したからです。


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2006年09月01日

後鳥羽天皇の即位と倒幕の企て〜宝剣への執着(2)

一方で後鳥羽は、1212(建暦2)年に院の命令として、後に承久の乱で京方の主謀者となる藤原秀康の弟、検非違使の秀能を鎮西に派遣し、63652壇ノ浦の合戦で海中に失われた宝剣を捜索させました。

秀能は五月に筑紫に赴き、九月に京へ帰ってきて、かなり丹念に捜索したのでしょうが、結局は見つかりませんでした。



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2006年09月01日

後鳥羽天皇の即位と倒幕の企て〜宝剣への執着(1)

後鳥羽の反幕府感情が象徴的に示されているのは、水瓶座三種の神器の一つである宝剣に対する後鳥羽の執着です。

治承・寿永の乱で安徳天皇が西海に没した際、もともとの宝剣は海中に失われました。そのため後鳥羽が天皇であった間は夜御殿の宝剣がなく、幸行の際と兼用で、かつて藤原基通の献上した昼御座(ひのおまし)の剣を用いていたそうです。そして土御門の代には昼御座の剣を夜御殿の剣として宝剣の代わりに用い、誰が進上したものか分からない別の剣を昼御座に置くこととなりました。

しかし1210(承元4)年の末、土御門から順徳に位を譲るに当たって、後鳥羽はそれまでの夜御殿の剣に代えて、63905後白河の代に伊勢神官から進上された剣を用いることとし、この間、夜御殿にあった剣は昼御座の剣とすることになりました。そこで即位に先立って、蓮華王院の宝蔵にしまってあった伊勢神官進上の剣を取り出し、夜御殿に置きました。
この剣は伊勢神官の所蔵品であったのを、夢のお告げを受けて伊勢の祭主が朝廷に献上し、63905後白河がそれを蓮華王院の宝蔵に納めておいたものだそうです。

そして後鳥羽・土御門の代には、間に合わせの宝剣だということで躊躇があって、天皇の行列には神器の中でも璽を先に、剣を後にしてきましたが、この剣を用いることとなってから後は、順番も元のように剣を先とすることとしたということです。


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2006年08月31日

後鳥羽天皇の即位と倒幕の企て〜寺院への強硬姿勢(5)

後鳥羽の「武」は例えば、左近衛権少将であった藤原為家が、少将親通、蔵人康光らを連れて雲林院の方へ騎馬で出かけたことがあります。後鳥羽が飼っていた馬に特に良い草を食べさせたいということで、草を刈るためだけに、しかも為家のような官職を持つ人間を派遣したのです。

これを知って「古今未だかくのごとき事を聞かず」と藤原定家が呆れたのも無理はありません。この件などは、そうした温室栽培的な武力に対する考えが現れた好例だといっていいでしょう。

ですが内実はともあれ、朝廷の武力充実を重視するということは、やがて全国の武力を統轄する幕府との衝突を引き起こさずにはいないし、後鳥羽は当初からむしろ明確にその事を意識していたと言えましょう。


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2006年08月30日

後鳥羽天皇の即位と倒幕の企て〜寺院への強硬姿勢(4)

では、実際には後鳥羽の直轄した武力はどれだけの戦闘力を持っていたのでしょう?

承久の乱では直轄軍以外の諸国から召集された武士達が加わっていたようですから、乱の帰趨がすべて直轄軍の責任であるとは言えないでしょう。西面や院に近仕した人々のみの働きを取り出して論じることは、その意味で難しいですが、軍記の類に見る限り、これらの人々が華々しい活躍を見せたとは考えにくいです。


これは後鳥羽にとって「武」とうものが現実の力としてよりは、いわば王権の装飾という要素を含んだ、一種の美的憧憬の対象として捉えられていたからでしょう。美々しく着飾り立派な太刀を佩用した武者たち、流鏑馬に見られるような磨きぬかれた芸術的な武芸、それが後鳥羽にとっての「武」であり、山野に臥し、糧食の欠乏に苦しみ、寒暑をもしのぎ、矢・刀にうめき悶えるという、現実の合戦の姿は、後鳥羽の立場ではリアリティのない遠い世界の出来事でしかなかったのでしょう。


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2006年08月29日

後鳥羽天皇の即位と倒幕の企て〜寺院への強硬姿勢(3)

実は、既述のような強硬姿勢が、承久の乱には裏目に出て、寺院勢力が京方についてはかばかしい動きをしない理由ともなるのですが、なぜ後鳥羽が強硬であったかを考える時、寺院勢力に対する何らかの政治的な意図があってそうしたとも見えません

後鳥羽が、これらの事件で求めたのは、単に自己の直衛軍として充実させた北面・西面や検非違使などの武力を行使する機会に過ぎませんでした。


京都周辺で正当な理由に基づいて武力行使できる対象は、強盗・郡衆・郡衆の類や対立抗争する山法師たちくらいしかいません。そうした武力行使によって、後鳥羽は将来の倒幕に向けた訓練を行っているつもりだったようです。


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2006年08月28日

後鳥羽天皇の即位と倒幕の企て〜寺院への強硬姿勢(2)

また、1209(承元3)年6月、後鳥羽が日吉社に参詣し競馬が行われましたが、後鳥羽の桟敷の西の端に下々のものが群がり集まりました。それを力者らが追い払おうとして叡山の大衆と喧嘩となり、大衆が飛礫を以って力者を打つうちに、飛礫は後鳥羽の桟敷まで飛んできたので、皆大慌てとなりました。

大衆の側は大宮門楼に登り、声を合わせて気勢を上げます。大衆の鬱憤を収めるため、力者を検非違使に引渡し、桟敷に参候していた天台座主が大衆を宥めましたが、帰ろうとする気配がありません。そこで後鳥羽はやむなく引き上げましたが、後日に衆徒の張本人として覚縁(かくえん)・昌範(しょうはん)・厳慶(げんけい)らを召し出して流罪とするのでした。


1213(建保元)年8月に、清水寺との争いで延暦寺の衆徒百余人が長楽寺に集まり、清水寺を焼き払おうと企てているというので、後鳥羽が武士と西面を遣わして追い散らしたところ、双方から怪我人が出たという事件も、後に朝廷側で処分が行われるとはいえ、後鳥羽の衆徒に対する譲らない姿勢が示された事件と言えましょう。

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2006年08月27日

後鳥羽天皇の即位と倒幕の企て〜寺院への強硬姿勢(1)

後鳥羽の代に目立つことは、京都周辺の山僧などの寺院勢力に対する強硬姿勢です。


具体的には、1206(建永元)年9月、後鳥羽周辺の人間にも何事が起きたか分からないまま、武士達が多数、院にはせ参じました。これらの武士達は翌日、院宣によって園城寺ならびに末寺である小倉の称妙寺に向かいますが、それは叡山の堂衆ら数百人が武器を持って集まっているという報告があったので、それを追討するためでありました。



その次の日には、堂衆の仲間である近江源氏の八島冠者が家来らを引き連れて観音寺の後ろ辺りに篭ったのを、検非違使義成が院宣によってからめ捕ろうとして合戦になり、義成と子息らが疵を負いました。その後、凶徒は三人が殺され、二人が生け捕られ、また堂衆ら三十人ほどは比良山の麓において殺されましたが、院の武士も多く疵を受けたといいます。


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2006年08月26日

後鳥羽天皇の即位と倒幕の企て〜西面の新設(5)

稽古においては、後鳥羽本人も自ら競馬に参加し落馬して気絶したり、笠懸を行ったり、さらには剣の鑑定まで心得て院で自ら鍛冶を試みて「御所焼」と呼ぶ刀を打ったなどという、武張った逸話が多いようです。

今津で交野八郎(かたのはちろう)と称する強盗の捕り物があった際に、自身で出向き、西面の武士達を船から指図したという『古今著聞集』に載せる話が、そうした後鳥羽の性向をよく物語っています。この時は、後鳥羽が重い船の櫂を片手で軽々と操りながら指揮するのを見て、八郎が運尽きたものと観念して捕まったことになっています。

この一件について『明月記』では、後鳥羽が密々に人々に知れるように見物していたと記されていて、こちらの方が事実を伝えているのかもしれませんが、後鳥羽の体力や武芸について、同時代の人々がそれなりの評価をしていなければ、『古今著聞集』のような話が生まれなかったのも確かです。

狩猟についても、天皇自ら狩をするのは平安初期以来、絶えてなかったことですが、後鳥羽は古来の朝廷の狩場である河内交野に赴いて狩を行ったことが何度かあるようです。


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2006年08月25日

後鳥羽天皇の即位と倒幕の企て〜西面の新設(4)

1206(建永元)年に河内国に新たに牧を設け、野田荘や興福寺領の狭山荘などが牧に繰り込まれたという記録などもあるようで、牧の正確な比定はできませんが、後鳥羽の武力充実策の一環として理解できそうです。


後鳥羽の下では、北面・西面はいうに及ばず近仕する上達部(かんだちめ)・殿上人までが弓矢や刀の稽古に明け暮れていたそうです。

すいません・・・今宵はここまでで。


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2006年08月24日

後鳥羽天皇の即位と倒幕の企て〜西面の新設(3)

天皇家復活の意気込みはあったようですが政策面での革新として現れることは少なく、むしろ武力の充実という実力の蓄積に注がれたようです。このことはやがて承久の乱という悲劇を生む胤が早くから孕まれていたことを示しています。

そうした武力充実策の代表が西面の新設です。
後鳥羽の時代に新たに院直属の武士として、従来の方面の武士に加えて設けられたのが西面です。

ただ西面が正確にいつ創設されたのかは記録されていません。1206(建永元)から1207年(承元元)のころにはすでに確認されているようなので、恐らく、これを遡ることそう遠くないころに創設されたものでしょう。西面に任じられたのは、在京する鎌倉御家人の武士たちであって、院の直属兵力として鎌倉御家人を取り込んだものという見方もできます。

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2006年08月23日

後鳥羽天皇の即位と倒幕の企て〜西面の新設(2)

63905後白河がこの世を去ると、後鳥羽の世が始まりました。
増鏡』は「四方の海波しづかに、吹く風も枝を鳴らさず。・・・・よろづの道々にあきらけくおはしませば、国に才ある人多く、昔に恥ぢぬ御代にぞありける」と評しています。

後鳥羽の代に撰ばれた勅撰集が、1205(元久2)年3月26日に饗宴となった『新古今和歌集』です。この命名に『古今和歌集』を踏襲する意識が現れているとするなら、後鳥羽には『古今和歌集』を勅撰させた醍醐天皇の治世、つまり村上天皇の治世と併せて「延喜・天暦の治」と称されてきた、天皇家の歴史における理想的な政治の時代を復活させようという意気込みがあったと見ていいかもしれません。要するに、

いそのかみ古きを今にならべこし 昔の跡をまた尋ねつつ

という復活の姿勢です。

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2006年08月22日

後鳥羽天皇の即位と倒幕の企て〜西面の新設(1)

今まで63904鎌倉中心の歴史の経過を追ってきましたが、ここで京都朝廷の動きへと目を転じてみます。


話は遡りますが、安徳天皇とその弟である守貞親王とが平家に伴われて西海へ脱出した後、空位になった天皇位をどうするかについて63905後白河を中心に議論が交わされました。


後継天皇の候補とされた、高倉院の第三皇子惟明、第四皇子尊成、そして当時京都で勢力を振るっていた義仲の推す北陸宮(以仁王の皇子)の三者の中から籤で選ばれたのは、尊成でした。この尊成が後の後鳥羽ですが、この選定について『増鏡』は、籤引きとは別のエピソードを紹介しています。
つまり63905後白河が選定に当たって惟明と尊成とを呼んで検分し、初め63905後白河は順序通り惟明を位に即けるつもりでした。ところが惟明が63905法皇を嫌ってむずかったのに、尊成は膝に抱かれてむつまじい様子だったため、63905後白河は「これこそまことの孫におはしけれ」といって、四歳の尊成を皇位に据えたといいます。
玉葉』によれば、籤といっても最初から結果は決まっていたようだから、籤引きに至る以前の段階で『増鏡』の伝えるような経緯があったのかもしれません。

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