2005年08月11日

●源義経●〜逆櫓の先例は古代ローマに!?

63814梶原景時が主張したような櫓のつけ方が実在したかどうかは不明ですが、なんと古代ローマには存在していました。

歴史家の山本幸司氏によると、「時間的にも空間的にも飛躍するが」とことわりつつ、紀元一世紀頃のローマの歴史家タキトゥスの『年代記』に載っているゲルマニア戦役の記事、つまり

そこでゲルマニクスは、(中略)・・・・・大半の船には舵を前後両端につけ、漕手が迅速に方向転換を行って、どちらの側にも着岸できるように工夫した」という箇所を傍証に挙げています(『頼朝の精神史』・146項)。

なるほど、このことからすれば、逆櫓が源平時代に用いられたとしてもおかしくはなさそうです。

さて、真相はいかに・・・。

sakaro.jpg
逆櫓の松碑跡】(大阪氏福島区)〜義経景時が逆櫓をめぐって論争した場所で、当時は老松の大木がありました。



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ニックネーム ちこりん at 19:38 | Comment(2) | TrackBack(2) | ●源義経●

2005年08月10日

●源義経●〜逆櫓の論争

爆弾「舟に逆櫓をたて候はばや」

平家物語』で有名な義経63814梶原景時との「逆櫓の争い」は、義経雨屋島の平氏を攻めるために摂津渡辺で船揃えをした際に起こりました。
63814景時義経の軍目付として頼朝に命ぜられて同行しており、

今度の合戦には、船に逆櫓をつけたい

と主張すると、義経は逆櫓とは何かと問います。63814景時は、

馬は駆け引きも自由であるが、船は急に向きを変えようとしてもできない。そこでふつう艫(船尾)にある櫓を船首にもつけ、進退が自由にできるようにしたい

と答えます。義経はこれを聞いてあざ笑い、

戦いというものは、一歩も退くまいと思っても、都合が悪ければ引くのが常の習いである。はじめから逃げ支度をしてのぞんだら、何の良い結果がもたらされよう。あなたの船には逆櫓でもなんでもつけろ。義経の船はこれまでの櫓で結構」と言いました。

爆弾猪突猛進

63814景時は重ねて、

よい大将軍とは申すのは、進退をよく見極め、身の安全を保ち、敵を滅ぼすものです。ただ前後もわきまえず、ただ突進しようとするのは猪武者といい、決して良いとは言えません

と述べますが、義経は、

猪だか鹿だか知らないが、戦いはただひたすら攻めに攻めて、勝った方が気持ちがよい

と言い放ち、両者の言い分は平行線をたどったまま、その場に険悪な空気だけが漂いました。

この時生じた二人の亀裂は、以後次第に抜き差しならない事態を招くことになります。

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2005年08月09日

●源義経●〜義経再登板(2)

ダッシュ(走り出すさま)義経出発

翌17日の丑の刻(午前2時頃)、暴風雨の中、義経は出航を決意します。しかし、船頭たちは、

「この風は追い風ですが、ふつう以上の疾風です。沖はさぞかし吹いておりましょう。このようななか、どうして船をだせましょうか」

と渋ります。義経はこれを聞いて怒り、

野山の果てで死に、海川の底に溺れて死ぬのも、すべてこれは前世の宿業である。海上に出て船で浮かんでいる時に風が強いといってもどうしようもない。向かい風なのに渡ろうというなら、それは不都合だろうが、順風なのに少し風が強いからといって、これほど重大な時にどうして渡るの嫌がるのだ。船を出さないというならば、ここで射殺すぞ

と言います。船頭たちはこれを聞いて、

「射殺されるのも、船を出して死ぬのも同じこと」

と、二百余艘の船の中で、わずか五艘が百五十騎ばかりを率いて敢然と乗り出していきました。途中、強い追い風にも助けられ、普通ならば3日かかる航路をわずか4時間(若しくは6時間)で渡りきり、明くる18日の卯の刻(午前6時)に、阿波国の勝浦(徳島県小松島市)に到着しました。

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旗山に立つ義経騎馬像】(徳島県小松島市)

高さ6.7メートルもあり、騎馬像としては日本一の大きさを誇る。四国に上陸した義経が、屋島に進軍する際に源氏の白旗をあげたところ。また、旗山から中王寺まで義経が進軍した10キロが義経ドリームロードとして散策コースとなり整備されている。

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ニックネーム ちこりん at 22:26 | Comment(8) | TrackBack(5) | ●源義経●

2005年08月08日

●源義経●〜義経再登板(1)

満月存念あり

頼朝の命を受けました義経は、平氏を一網打尽にするまでは都に帰らないとの決意を63905後白河法皇に言上し、正月10日、再び追討の院宣を受けました。

2月3日に京都を発ち、16日、摂津国の渡辺(現在の大阪氏北区。淀川の下流が大阪湾に注ぐあたり)から船揃えをして、讃岐の屋島にいよいよ押し寄せようとします。この時、63905後白河法皇の使者の大蔵卿トイレ高階泰経(やすつね)が義経の旅宿を訪れ、

私は兵法には素人だが
と断りつつ、
大将軍たるものが先陣を競うのはいかがなものであろうか。ここはまずあなたは都にとどまり、次将を派遣してはどうか

と諌めの言葉を述べました。古来の軍法では、大将自らが先陣を切ることはありませんでした。ところが義経はこれまで常に自身が先陣を切って進んできました。これに対して義経は、

殊に存念あり。一陣において命を棄てんと欲す」(『吾妻鏡』・同日条)

と決死の覚悟ですぐさま進発しようとしました。しかし、その日は暴風がにわかに吹き荒れ、多くの兵船が破損し、一艘として纜(ともづな)を解くことができず、出発は一時延期されました。

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2005年08月07日

●源義経●〜平氏追討再び(2)

三日月範頼、窮状を訴える

こうして山陽道を西下した範頼軍でしたが、進撃は思うようになりませんでした。

兵糧闕乏(けつぼう)するの間、軍士等一揆せず、おのおの本国を恋ひ、過半は迯れ帰らんと欲すと云々」(『吾妻鏡』・元暦二年<1185>正月六日条)

依然として、瀬戸方面の制海権を平氏に握られたままの源氏軍にとって、海からの物資補給は断念しなければならず、物資の補給は山陽道からの陸上輸送のみに頼らざるを得ない状況でした。範頼が長門に着いたところ、屋島の平氏(平行盛ら)が対岸の備前児島(岡山県倉敷市)を押さえ、補給路が遮断されてしまいました。やがて範頼軍は、兵糧米と船の不足に苦しむようになり、軍勢の中に厭戦感が強まり、兵力の半数以上が本国に逃げ返ろうとする状況に見舞われました。かつての平氏の地盤でありました長門付近での兵糧の現地徴発はなかなか困難で、むしろ住民の反感を増すばかりです。この頃頼朝範頼に与えた手紙に「かまへてかまへて、国の者共ににくまれずして、おはすべし」「国の者すかして、よき様にはからせ給え」などと言っているように(『吾妻鏡』)、頼朝はこの地方の軍政に心をくだいて、現地住人の懐柔に細心の注意をはらわせていました。ですので極力現地徴発を避けさせ、船や兵糧を関東から送る準備さえしています。しかし輸送路が伸びきった上、山陽道が平氏軍の脅威にされされているので、その計画も容易には実行できません。また、九州からの年貢米その他の物資は、関門を押さえる平知盛にさえっぎられて長門には入らず、しかも九州に渡るために必要な兵船も集まりません。範頼軍は全く進退きわまった状態でした。


「参州(範頼)九国に赴かんと欲す、船なくして進まず、たまたま長門国に渡るといへども、糧尽くるの間、また周防国に引き退きをはんぬ、軍士等やうやく恋意あり、一揆せず」といった有様です。また、伊沢五郎信光の書状には、長門国が飢饉のため、安芸にまで引き退いたと書かれています。そして、63723和田義盛すらが、ひそかに鎌倉に帰らんとするほどであったと言います(『吾妻鏡』)。

窮状を訴える範頼からの書状が鎌倉に届いたのは、翌二年の正月六日のことでした。これを受け頼朝は、鎮西(九州)の御家人に対し、所領安堵を条件として範頼の下知に従うべき旨の下文を送りました。

これが功を奏して、豊後国(大分県)の臼杵惟隆緒方惟栄(おがたこれひで)らが兵船82艘を、また周防国(山口県)の宇佐那木遠隆(うさなぎとおたか)が兵糧米を献じた事により、なんとか26日に範頼軍は船出し、2月1日に豊後国に上陸します。

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ニックネーム ちこりん at 19:05 | Comment(4) | TrackBack(2) | ●源義経●

2005年08月06日

●源義経●〜平氏追討再び(1)

満月追討の全権は範頼

手(グー)一の谷合戦で大敗した平氏は、讃岐の屋島(香川県高松市)と長門の彦島(山口県下関市)にそれぞれ拠点を設け、再び勢力を回復しつつありました。
義経の無断任官に激怒した頼朝は、義経を平氏の追討使からはずし、すべてを範頼に委ねました。そのため義経は、半年のあまり「リボン髀肉の嘆(ひにくのたん)」をかこたなければなりませんでした。

8月8日、範頼は、63699北条時政足利義兼武田有義63652千葉常胤63728三浦義澄・同義村比企能員63723和田義盛・境常秀・八田知家・同朝重・葛西清重・長沼宗政・結城朝光・安西景益・大河戸広行・中条家長・63719工藤祐経・天野遠景・小野寺道綱・一品房昌寛・土佐房昌俊ら一千余騎の大軍を率いて鎌倉を出発しました。頼朝はこの軍勢の進発を、稲瀬川の辺りに桟敷を構えて見物していたと言われています。この顔ぶれを見ても、平氏追討がいかに大規模であったかがわかります。それぞれが、数百騎の武士団を擁する有力武士ですので、『吾妻鏡』にあるこの一千余騎とするのは、あまりにも少なすぎるようです。おそらく進発の行列に参加したものだけを数えたものでしょう。実際に西海に進んだ時には、更に多数の軍勢であったと考えるべきでしょう。
同月末には京都に入って平氏追討の太政官府を受け、9月2日に京都から山陽道を西下しました。

範頼の戦略は、中国地方を押さえつつ山陽道を西に進んで、原田種直など平氏の有力な家人の多くが勢力を張る九州に渡り、平氏政権の支配基盤の地をたたくというものでした。

リボン髀肉の嘆・・・功名を立てたり、力量を発揮したりする機会に恵まれない無念さ(『三国史』)

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2005年07月29日

●源義経●〜義経の任官(3)

ぴかぴか(新しい)義経昇殿

義経頼朝の立場とか考えを全く理解しておりませんでした。1184(元暦元)年、9月18日、義経はさらに従五位下に叙せられ、大夫1判官の地位につきました。そして、10月15日には院内の昇殿を許されました。
昇殿とは、清涼殿の南面にある殿上の間に登ることが許されることを言います。このことはすなわち、義経が「殿上人(てんじょうびと)」となり、れっきとした宮廷人の仲間入りを果たした事を意味します。これにより華やかな拝賀の式が行われ、義経は「八葉の車」に乗り、衛府の官人3名、騎馬の供侍20人を従えて法皇に拝謁しました。

ちなみにこの時義経が乗った「八葉の車」とは、車体に八葉の紋をつけたもので、これに乗るのは上皇をはじめ、大臣など宮廷の最高官の者であって、判官程度の者が乗るようなものではありません。

ぴかぴか(新しい)義経の婚姻

この話を鎌倉で聞いた頼朝は、この義経の行動を苦々しく感じたことでしょうが、この頃武蔵国の有力御家人河越重頼の女(『源平盛衰記』には郷御前とある)を義経の妻にすべく上京させました。彼女は頼朝の乳母でありました比企尼の孫女にあたります。
この結婚については、頼朝による義経監視の思惑によるものとの理解が一部にはありますが、河越重頼と同様に、比企尼の婿にあたる有力御家人の安達盛長の娘が、範頼の妻となっているので、この事を考えれば、範頼義経への兄としての気配りと見るのが自然かもしれません。

1判官・・・五位の検非違使尉

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2005年07月28日

●源義経●〜義経の任官(2)

むかっ(怒り)頼朝激怒!!

義経の官職への執着は、意外と早くに結実します。8月6日、義経頼朝の許しを得ないまま、検非違使・左衛門尉に任じられました。
これは63905後白河法皇による義経への直接の恩賞付与という意味を持っておりましたが、頼朝は自身の推挙なく朝廷の官職に就くことを禁じていました。それは兄弟であろうと古くからの家人であろうと皆同じです。義経はその頼朝の定めたルールを破ったことになります。義経の任官を伝え聞いた頼朝は、当然激怒しました。義経はすぐに弁解しました。

「これ所望の限りにあらずといへども、度々の勲功黙止せられがたきによって、自然に朝恩たるの由、仰せ下さるの間、固辞するに能はず」(『吾妻鏡』・八月十七日条)
これはみずから望んだものではありません。たびたびの朝恩に対して固辞することもできず、お受けしたのです。

しかし、そんなことでは頼朝の怒りはおさまりませんでした。
範頼・広綱・義信らの任官は、推挙して実現したもので、義経のことは内々思うところがあって保留したのである。今度のことは義経の所望でそうなったのだろう。およそ義経頼朝の意志に背くのは、今度に限ったことではない」

頼朝はこう言い放って、義経を平氏の追討使からはずしてしまい、範頼一人に委ねる事としました。

満月頼朝の方針

この事件が起きたのとほぼ同じ頃、伊賀国(三重県)の平氏残党討伐に功をあげた大内惟義が恩賞に預かりたいという申し状をもたらしました。これに対し頼朝は、
「賞罰はよろしく予が意に任すべし」(『吾妻鏡』・八月三日条)と伝えました。このことからもわかるように、頼朝は、家人たちの恩賞はすべて自らの意志によって与えられるべきであるとの確固たる方針を持っていたのでした。

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2005年07月27日

●源義経●〜義経の任官(1)

ひらめき任官の推挙を受けず

この年(1184年)の4月16日、元暦と改元。
6月20日、朝廷では小除目(こじもく)が行われ、頼朝の推挙を受けた範頼が三河守に、源広綱頼政の子)が駿河守に、平賀義信義光の子)が武蔵守にそれぞれ任じられました。

しかし、この時当然任官の対象となるべき義経が除外されました。義経はしきりに官職に推挙されることを望んでおりましたが、頼朝はあえてこれを許しませんでした。
「その厚恩を悦んだ」という範頼に対して、義経が少なからず不満を抱いていたであろうことは想像するに難くありません。

が、これは義経にはすでに畿内周辺の武士に対する指揮・命令権を全て与えるように要請していて、頼朝が「内々儀ありて」義経をはずしたというように、あまり身内からだけ昇進者を出さないで源氏一門の中でバランスをとろうとした例の頼朝の政治的配慮でしょう。


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2005年07月25日

●源義経●〜都での義経(2)

2月25日、軍事面での圧倒的に有利な状況を背景として、頼朝は朝廷に対し、政務に関する申し入れを行います。その中の一項に、

「右畿内近国に源氏・平氏と号して、弓箭に携(たすさ)はるの輩ならびに住人等、義経が下知に任せて引率すべきの由、仰せ下さるべく候」(『吾妻鏡』・同日条)

と記し、畿内周辺の武士に対する指揮・命令権をすべて義経に与えるように要請しています。

3月、紀伊国(和歌山県)高野山の衆徒たちからの愁状が、義経のもとに届けられました。見ると、阿弖河(あてがわ)庄(和歌山県清水町)が寂楽寺のために押領されたと言います。これに対して義経は、その狼藉を停止すべき旨の裁断を下しました。

高野山文庫には、義経実筆の書状があり、
「高野山阿弖川庄事子細承候了
証文顕然之条所見及候也、早存其旨以便宜且可申入事由候也、神社仏寺事実不便候、恐々謹言、
五月二日 源義経」

とあります。


鎌倉側の代表者としての義経には、来るべき平氏との合戦をひかえての軍政官的仕事の他、こうした所領紛争にかかわる民事裁判の処理にかかわる仕事もあって、多忙な毎日でありました。
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2005年07月24日

●源義経●〜都での義経(1)

手(グー)一の谷の合戦が終わってからの約半年の間は源氏と平氏の戦闘は休止の状態に入ります。一の谷を放棄した平氏の軍は、その本拠地の屋島に逃れましたが、再びここに内裏を置いて、安徳天皇ぴかぴか(新しい)三種の神器を奉じ、依然として京都を回復する姿勢を続けておりました。
こうして瀬戸内海一帯に勢力をはる平氏の軍が海戦に長じていたことはいうまでもないのですが、これに対して、関東武士を主体とする源氏軍は水戦に馴れず、海を渡って平氏の本拠を突くことは容易ではありません。源軍が一の谷の戦勝の勢いに乗じて、一挙に屋島を攻撃しなかったの理由はそこにありました。

この間の義経は治安維持や民事訴訟などで多忙でした。

犬治安維持につとめる

戦勝の報を受け取った頼朝は2月18日、京都に使者を送り、京との警固と新たな占領地域となった播磨(兵庫県)以下の五カ国についての政策を指示しました。これは配下の武士たちの横暴なふるまいによって、貴族達や西国の人々の反発を買った義仲の失敗を繰り返さないための配慮でもありました。在地からの強引な兵糧米の調達や、他人の家に寄宿した際の乱暴狼藉などを禁止し、違反するものを厳しく罰する事としました。

京都及び畿内諸地域の警固は義経がその任にあたり、播磨・美作(みまさか【岡山県】)の二カ国は63814梶原景時が、備前・備中(ともに岡山県)・備後(広島県)の三カ国は63730土肥実平がそれぞれ軍政官(「鎌倉殿御使」と称された)となって、守護することになりました。さらに、平氏の出身基盤である伊賀国(三重県)へは大内惟義が派遣されました。この間は、範頼はいったん鎌倉に引き揚げることとなりました。
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2005年07月23日

●源義経●〜京都に凱旋(2)

有料頸渡しのための凱旋

2月9日、義経は少数の武士を連れただけで、急いで京都に入りました。一の谷で討たれた平氏の人々の首を、義仲の先例にならい、都大路を引き回す「頸渡し」の実施を1奏聞するためでした。しかし、朝廷側の一番の懸念はやはりぴかぴか(新しい)三種の神器の無事返還にありました。

「首はともかく、三種の神器の安否はまだ確認できないというではないか」「平氏は朝廷に仕えて久しく、帝の外戚として大臣・公卿にまでなった人々である。義仲とはわけがちがうであろう」「頸渡しすることを認めたら、平氏が怨心をおこして何をするかわかったもんじゃない」

貴族の多くはこれに反対しました。しかし、平治の乱で敗れ、その首を獄門にかけられた父義朝の恥辱をすすぐためにも、義経範頼もこれだけは譲れませんでした。結局、13日には、通盛・忠度・経正・教経・敦盛・師盛・知章・経俊・業盛・盛俊ら、主だった平氏の首が次々に都大路を渡って、六条室町の邸に集まりました。そして、さらに八条河原に向かい、そこで赤札に姓名を記し、獄門にかけたのでした。

1奏聞(ちょうもん)・・・天子に申し上げること。奏上。
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2005年07月22日

●源義経●〜京都に凱旋(1)

一の谷の合戦で勝利した義経は都に凱旋。平治の乱で敗れた父・義朝の恥辱をすすぐため、討ち取った平氏の首を都大路で引き回す「頸渡し」を要求する。

exclamation戦勝の第一報

未明人走り来たりて云はく、式部権少輔範季の許より申して云はく、梶原平三景時の許より、飛脚を進め申して云はく、平氏皆悉く伐ち取り了(あわ)んぬと云々。その後午(うま)の刻許り、定能卿来たり、合戦の子細を語る。一番に九朗(義経)の許より告げ申す。次に加羽冠者(かばかんじゃ・【範頼】)案内を申す」(『玉葉』・寿永三年二月八日条)

手(グー)一の谷勝戦の第一報は、翌8日未明に京都の63905後白河法皇のもとに知らされ、その4日後、鎌倉に伝えられました。当然ながら頼朝の喜びは大きかったようです。
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2005年07月03日

●源義経●むかっ(怒り)後白河法皇と義経の出会い

宇治川を制して都に入った義経は、戦いを軍兵達に任せ、むかっ(怒り)後白河法皇の仮御所へ直行しました。義仲が保身のため、院を力づくで御所から連れ出すという話が囁かれていたからです。

公卿の一人が御所の垣の上によじ登って、わなわなと身震いしながら周囲を見渡しますと、果たして源氏の白旗を掲げた武士5、6騎が土煙を立てて馬を走らせてきました。
義仲が来た。もう終わりだ」
御所中は大騒ぎになりました。
義経は瞬く間に門前に到着し、ひらりと馬を下りると、
「東国からの頼朝の弟、義経が参上いたしました。門を御開けください。」
と申し上げました。
「助かった」
公卿は嬉しさのあまり、垣から下り損なって腰をしたたかに打ち、這うようにして院に報告しました。

平家物語』はこの時の義経の装束にも詳しく触れています。
義経は赤地の錦の直垂に、紫裾濃(すそご【上部は白、裾にいくに従い、濃い紫になる】)の鎧を着用。鍬型を打った兜、腰には黄金作りの太刀を帯びていました。直垂の真紅の上に、鎧の白・薄紫・濃紫。そこに鍬型や太刀の黄金色が映えていました。華やかな配色の装束は、まさしく大将軍にふさわしいです。圧倒的勝利で初陣を飾った勇姿が目に浮かぶようです♪

むかっ(怒り)後白河法皇は礼儀正しい義経一行の様子に満足しました。合戦の模様を尋ねられた義経は、真っ先に院の御所の警備に参上したことを述べます。
義仲は我が軍が追っております。今ごろは討ち取っておりましょう」
と、事もなげに答えました。この日以来、義経は法皇の厚い信任を得るようになります。しかし、これは義経を滅亡へと導く運命の出会いでもありました。

こうなってしまってはもはや義仲に活路はなく手勢も散り散りとなって、松原へ向かう途中、深田にはまった義仲は討ち取られてしまいます。また、郎党今井四郎兼平も太刀を口にくわえそのまま馬から真逆さまに飛び降り壮絶な最後を遂げました。

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【琵琶湖を望む】 
ニックネーム ちこりん at 17:24 | Comment(4) | TrackBack(6) | ●源義経●

2005年07月02日

●源義経●〜義経の初陣・宇治川合戦

京都へ攻め入るにはいくつかのルートがありますが、宇治川はその中でも重要な防衛線の一つでありました。近江の勢多を渡って粟田口から入るのが当時の本道で、この大手(表口)の軍を範頼が率い、他方大和方面の宇治を渡る搦手(裏口)の軍を満月義経が率いました。その勢力は合わせて数万騎(『平家物語』には六万騎とあり誇張しすぎている。せいぜい一万騎程ではないだろうか)。義経にとってはこれが初陣でした。

この時、義経の軍には、安田義定・大内惟義、63732畠山重忠梶原景季63893佐々木高綱・糟屋有季・渋谷重助・平山季重という、いずれも甲斐・相模・武蔵の有力武士達が加わっておりました。

これを迎え討つ義仲は、今井四郎兼平を八百騎で勢多へ、宇治へは志田義広根井行親等約八百騎を向かわせました。

しかし、義経軍は、宇治川(←宇治川についてはこちら)を舞台にして有名な宇治川の先陣争いに刺激され、宇治川を渡り、義仲勢を散々に打ち破って入京を果たしました(宇治川の戦い【若しくは宇治川合戦】)。

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宇治川
ニックネーム ちこりん at 17:13 | Comment(2) | TrackBack(0) | ●源義経●

2005年07月01日

●源義経●〜義経西へ(2)

満月上洛の風聞

木曾義仲の入京後の都は治安が悪化し最悪な状態となりました。

頼朝の弟九朗(実名知らず)、大将軍となり数万の軍兵を卒し、上洛を企つる由、承り及ぶ所なり」(『玉葉』・寿永2年<1183>閏十月十七日条)
木曾義仲征討のため、頼朝の弟九朗が大将軍となって、数万の軍兵を引き連れ、上洛を企てているとの風聞がこの頃京都を駆け巡りました。このことは平氏追討のため、西国に赴いていた義仲の耳にも入り、義仲は慌てて都に戻りました。

頼朝の弟九朗」とは、いったい何者なのか。満月義経のことはこの頃その名前さえも知られていませんでした。
「その(=頼朝)替り九朗御曹司(誰人や尋ね聞くべし)を出立し、己に上洛せしむと云々」(『玉葉』同・十一月二日条)
と、上洛の風聞は11月に入って、さらに確実さを増して行きます。

窮地に追い込まれた義仲は、11月19日、ついにむかっ(怒り)後白河法皇御所法住寺殿を焼き討ち、法皇と天皇とを五条東洞院の摂政邸に幽閉などのクーデターを起しました。
また、義仲は入京後すでに、備中国水島(岡山県倉敷市)と播磨国室山(兵庫県御津町)で平氏軍に連敗を喫し、平氏も次第に勢力を回復しつつありました。
「昨日の敵は今日の友」とばかりに平氏と結んで、頼朝と対峙しようともしましたが、この和平案は実現に至らず、さらに新宮十郎行家が離反してしまいました。

満月義経に上洛要請

「即刻入京せよ」
21日、むかっ(怒り)後白河法皇の使者は伊勢にいた満月義経に告げました。
この時満月義経は「さっそく兄の頼朝のところに飛脚を遣わし、その命令に随い入京いたしましょう」と答え、鎌倉に急報、その指示を待ちました。
連絡を受けた頼朝義仲を討つために、ただちに弟範頼に大軍を率いて上洛させました。翌1184(寿永3)年正月早々には尾張(愛知県)の墨俣を越え、美濃・伊勢(岐阜・三重県)に至って、中旬には近江にいた満月義経軍と合流し、京都突入の準備を整えました。

一方、義仲は先のクーデターにより、頼朝の追討を命じる院庁下文を発給させ、いよいよ頼朝との対決姿勢を固めました。

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【延暦寺・根本中堂】
ニックネーム ちこりん at 21:40 | Comment(3) | TrackBack(0) | ●源義経●

2005年06月11日

〜絶世の美女・浄瑠璃姫(5)〜浄瑠璃姫伝説のその後

姫と別れ、奥州へと向かった後の義経の活躍ぶりは、よく知られていますが、義経と泣く泣く別れた姫のその後は、どうなったのでしょうか。この伝説には、さらに続きがあります。

吹上の浜での再会の三年後、義経は軍勢を率いて上京する途中、矢矧の宿を訪ねましたが、姫の姿はありませんでした。その夜、姫の身を心配している義経のもとに、姫の侍女でした冷泉がひそかに訪ねてきます。その時、義経冷泉に語りかけた言葉、
さても。久しの。れいぜいや。
は、冷泉節と呼ばれ、以後、義太夫節にも受け継がれ、人々に親しまれた文句です。
冷泉は、姫のはかない運命と死を義経に告げ、翌日、笹谷にある姫の墓所へと案内します。義経が供養すると、墓の五輪の塔が砕けて、姫は成仏します。三年経っても、姫との約束を忘れなかった義経の誠意と、姫を思う純粋な気持ちが彼女を成仏させたのでしょう。義経はその跡に寺を建立し、「冷泉寺」と名付けます。続いて、姫を見捨てた母の長者をこらしめると、義経は都に上って行くのでした。姫の死については、義経を強く思う気持ちから病気になったのが原因という説や、義経が奥州で妻をめとったことを知り、そのショックで川に身投げしたという説などが伝えられています。

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【本願寺三河別院(西別院)】姫が観月の宴に興じたところと言われていて、観月荘跡・侍女更科供養塔などがあります。<岡崎市観光協会 様より>

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【浄瑠璃ヶ淵】キスマーク浄瑠璃姫は菅生川(すごうがわ)のこのあたりで身を投げたと言われ、現在は「浄瑠璃広場」があって、句碑が建っています。<岡崎市観光協会 様より>
ニックネーム ちこりん at 23:24 | ●源義経●

2005年06月10日

〜絶世の美女・浄瑠璃姫(4)〜義経の死と復活

さて、姫の母・長者の出現によって別れを余儀なくされました二人ですが、その後、どうなったんでしょう。「浄瑠璃十二段草紙」から続きを見てみます。

姫と別れた義経は、カメラ吉次と共に奥州へ旅立ちますが、姫への思いは募るばかりです。加えて、慣れない旅の疲れから奇病にとりつかれてしまい、駿河の国(現在の静岡県中央部)吹上の浜で倒れてしまいます。そこで、カメラ吉次は宿の亭主に義経の看病を頼み、先に東へと下っていきます。しかし、亭主は、
「奇病を病んだ人を同じ家にはおいておけない」
と言って、後ろの浜の松原に義経を捨ててしまいます。
そこへ、義経を不憫に思った源氏の氏神・ぴかぴか(新しい)八幡大菩薩が、老僧に姿を変えて、瀕死の義経の前に現れます。

ところで、母の長者に勘当されたキスマーク浄瑠璃姫は、それまでの生活とは一変、侍女冷泉とともに、粗末な暮らしを強いられていました。そこへ、老僧がやってきて義経の苦しんでいる様子を伝えます。姫は慣れない旅姿に身をやつして、冷泉を伴って義経のもとに向かうのでした。

ようやく吹上の浜にたどり着いたものの、なかなか義経を見つけることができません。するとぴかぴか(新しい)八幡大菩薩が今度は子供の姿で現れ、義経が埋もれている場所を教えます。しかし、時すでに遅く、義経は息絶えていました。姫が神仏に祈願して涙を流すと、その涙が義経に落ちました。すると、義経は息を吹き返しました。その後、様々な神の力や姫の手厚い看護で義経は回復します。そこで、義経は姫の自分を思う強い気持ちに心を打たれ、源氏の御曹司である自らの素性を明かします。二人は再会することを約束して、和歌を贈答しました。
 そして、義経は、天狗に姫たちを矢矧に送らせて、奥州へ旅立っていくのでした。

以上が「浄瑠璃十二段草紙」のあらましです。
ここでは、キスマーク浄瑠璃姫の、義経を思う、けなげな姿が印象的です。そして、姫には、義経との仲が母に知られて、今までの贅沢な生活から質素な生活を強いられても、それを甘んじて受け入れて、義経を思い続ける強さがあります。さらに、義経の危機を知って、岡崎から駿河まで旅をする行動力を持った女性でもあります。そこには、一途に義経を思う強さが感じられますし、自分の身を犠牲にしても愛する人を助けようとするところは、義経の母・黒ハート常盤御前の姿を思い出させます。

それに対して、義経も一度目の別れの時には、姫のことを忘れがたく思いながら病に倒れましたが、今度は姫への思いを胸にしまって、再び奥州へ向かう旅にでる決意をします。義経にとって、姫との二度の出会いと別れは辛いものでしたが、彼女との恋は、義経を、精神的にも大きく成長させました。
 さらに、ぴかぴか(新しい)八幡大菩薩晴れ薬師如来の加護があったことも忘れてはならないことでしょう。特に、源氏の氏神であるぴかぴか(新しい)八幡神の存在は、義経に同情し、姫に義経の危機を伝え、また義経の場所を示すといった重要な役割を果たしています。義経の復活も、神仏に姫の願いが受け入れられたからでしょう。
このように、義経は、氏神であるぴかぴか(新しい)八幡大菩薩の保護だけでなく、姫によって晴れ薬師如来の加護も受けることになり、以後、神仏に守られながら、旅を続けていくことになるのでした。

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【浄瑠璃寺】義経浄瑠璃姫の画像や姫守本尊薬師如来が残されています。<岡崎市観光協会 様より>
ニックネーム ちこりん at 23:30 | ●源義経●

2005年06月09日

〜絶世の美女・浄瑠璃姫(3)〜恋の小道具 笛と琴

二人の出会いの重要なアイテムといえば、です。その美しい音色こそが相手への関心を抱かせ、二人に出会いを促しました。この場面は、都の貴公子の恋にふさわしく、とても優美で印象的な場面です。そのため、義経キスマーク浄瑠璃姫を扱った浮世絵でも、屋内で琴を引く姫に対し、屋外で笛を奏でる義経の姿が描かれています。
さらに、川柳でも、義経の笛と姫の琴を取り合わせた句は多いです。例えば、姫も笛の音を聞いて、心おだやかではなかったはずだとして、


笛の音に琴の長子もくるう也(『誹風柳多留(はいふうやなぎだる)』二十六編)


と詠まれています。互いにの名手だったからこそ結ばれた恋だったのです。
ちなみに、義経の名手とする伝説は、幸若舞「笛の巻」「烏帽子折」や御伽草子「御曹司島渡(おんぞうししまわたり)」をはじめ、数多くの作品に登場します。また、都の貴人が愛する女性を求めて地方に下り、が縁となって結ばれるという同類の趣向は、御伽草子にいくつも見ることができます。この伝説もそれらの影響を受けて成立したものと言われています。

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【安心院】義経浄瑠璃姫の菩提を弔うために建てたという妙大寺が始まりだと言われ、かつては七堂伽藍(しちどうがらん)を備えた大寺だったとも言われています。<岡崎観光協会 様より>
ニックネーム ちこりん at 17:17 | ●源義経●

2005年06月08日

〜絶世の美女・浄瑠璃姫(2)〜二人の馴れ初め

この恋の話は『義経記』では登場しないため、現在ではあまり知られていません。そこでまず、二人の馴れ初めを、室町期に作られたという御伽草子「浄瑠璃十二段草紙」から見ていきます。
カメラ金売り期吉次の下人となって奥州へ下る義経は、三河の矢矧(現在の愛知県岡崎市内)で豪華な屋敷の前を通りかかります。田舎には似つかわしくない、美しい御殿です。そこで、義経は、
「どんな人が住んでいるのだろう」
と、こっそりと中の様子を伺っていますと、琴や琵琶の音色が聞こえてきます。そのすばらしい音色に心を動かされた義経は、つい笛を合わせてしまいます。その管弦の演奏を催していました主人こそキスマーク浄瑠璃姫だったのです。外から聞こえてくる笛の音に、姫もまた、
「このような横笛の音色は聞いたことがない。きっとすばらしいお方に違いないわ」
と言って、侍女に笛の主を見に行かせます。そこに居たのは、烏帽子の下に桜の枝を挿し、美しい装束をまとった貴公子でした。その様子を聞いた姫は、
「思った通りだわ。歌を詠みかけてみましょう」
と、言って
風口なれど散らぬ花かな
とよみかけます。「風口」とは、折烏帽子の後ろの穴のことで、ここではそれに風の吹き込む入り口を掛けて言ったものです。「風が吹き込むという風口に挿してあるのに散らない花ですね」と挨拶をしたわけです。そして、この句に上の句を付けさせ、相手の教養を試すと、義経も、
ちはやぶる神も桜を惜しむには
と答えます。その返事は、「(「ちはやぶる」は神にかかる枕詞)神様も桜を憐れんでいらっしゃるからでしょう」というものです。この歌の問答によって、義経は、鞍馬での修行時代に、あらゆる仏典をはじめ、和歌・物語に精通していたのがわかります。

そして、しばし管弦や酒宴の楽しい時を過ごした義経でしたが、今はカメラ金売り吉次の下人という立場を理由に、侍女たちが引き留めるのを振り切り宿へ帰りました。
しかし、宿屋に戻っても忘れがたいのは、あの姫の面影。そこで、義経は、姫の寝所に忍び入り、流麗な言葉で姫に思いを告げますが、
「あなたは金売り吉次の下人ではありませんか。及ばぬ恋をするものではありませんよ。早くお帰りください」
と、きっぱりと退けられます。けれども、そこで簡単に引き下がる義経ではありません。様々な恋にまつわる故事を出し、また姫もそれに答える形で新たな故事を出し、問答を重ねていきます。この部分は「枕問答」として知られています。ついに、姫は義経の熱意にほだされ、契りを交わします。翌朝、二人が別れを惜しんでいると、母の長者が現れ、これを咎めます。義経は、修行で身に付けた特殊な力を用いてその場を逃れましたが、姫は母に勘当され、家を追い出されてしまいます。

ここでの見所は、義経キスマーク浄瑠璃姫を口説く場面です。この場面は、「浄瑠璃十二段草紙」の中心部分で、義経がいかに都の貴公子と変わらない知識の持ち主であったかが強調されています。また、鞍馬での修行時代に身に付けた教養を生かし、情熱的に姫に迫るところは、後年の恋多き義経像を思わせます。

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【麝香塚(じゃこうずか)石】六所神社大鳥居横の高宮神社石碑の礎石は、義経が姫の形見の麝香を埋めたとされる麝香塚に使われていた石と言われています<岡崎市観光協会 様より>
ニックネーム ちこりん at 23:14 | TrackBack(0) | ●源義経●

2005年06月07日

〜絶世の美女・浄瑠璃姫(1)〜浄瑠璃姫登場

元服した義経は奥州に向かう途中、三河の国(現在の愛知県東部)矢矧(やはぎ)で、運命の恋に落ちることになります。その相手こそ絶世の美女、キスマーク浄瑠璃姫です。

キスマーク浄瑠璃姫は、240人もの侍女とともに矢矧の邸宅で何不自由なく暮らしていました。父は源中納言兼高という三河の国司で、母は東海道一の遊女として知られる矢矧の長者です。長者とは、宿屋の女主人のことで、当時、宿泊などの世話をし、貴人のためには、歌や舞、楽器の演奏等を行って、旅の間の退屈を慰める習慣がありました。そのような両親に育てられた姫は、楽器の演奏に秀でて、教養が深く、非常に美しい人でした。

ところで、姫の誕生には神秘的な伝説が有ります。彼女の両親には、なかなか子供ができませんでした。そこで、晴れ薬師如来に祈願してようやく授かったのが、このキスマーク浄瑠璃姫でした。「浄瑠璃」とは、仏教で、晴れ薬師如来の住む世界をさすことから、姫の名前には、晴れ薬師如来の申し子であるという意がこめられています。
このように、才能と美しい顔かたちに加えて、神秘的な魅力もあわせもつキスマーク浄瑠璃姫は、義経の初恋として申し分のない女性と言えましょう。
ニックネーム ちこりん at 21:57 | Comment(0) | TrackBack(0) | ●源義経●

2005年05月19日

●源義経●〜鞍馬山の日々(5)〜孤独な卒業式〜

やがて、牛若丸は、源氏再興、ついに鞍馬山を飛び出す決意をします。牛和丸、16歳の春でした。その時の様子を『義経記』で振り返ってみます。

牛若丸の恐ろしい特訓が人に知られて、僧侶たちは一刻も早く牛若丸を出家させようとします。それ以外に、彼を政争から守る手立てはありませんでした。しかし、牛若丸は、
近づくものは突く!
と暴れて出家を拒否。優等生から不良に代わった牛若丸に、僧侶達はなすすべもなく、牛若丸遮那王と名前を変え、山はずれの坊に遷されることになります。そんな折、カメラ吉次宗高という、奥州で砂金の買い付けをする商人(通称、カメラ金売吉次)が牛若丸の前に現れ、ともに藤原秀衡のもとへ。
旅立つ決心をした牛若丸の胸には、満感が迫ります。
「七歳の春の頃より16歳の今日まに至るまで、朝は惑いの霧を払い、夕べに夜空の星をいただき、毎日朝に晩に親しくお導きくださった師匠とも、今日を限りにお別れだ」
と思うと、懸命にこらえようとしても耐えきれず、涙にむせびました。わが師の恩を思って泣く牛若丸。この師匠とは、天狗ではなく、彼を教育しきた僧侶達です。鞍馬山のくだりでは、牛若丸の先生として天狗のことばかりがクローズアップされますが、本来そこにいた僧侶達こそが牛若丸を教育した師に他ならないです。たとえるなら、正課の授業を担当したのが僧侶達、課外の部活動をコーチしたのが天狗、というところです。
思えば、牛若丸がこの山に来て、勉強や修行を始めたのは7歳でした。つまり彼はちょうど小学校・中学校の義務教育とほぼ同じ年数を、寺という教育機関で過ごしたのです。そう考えると、牛若丸の「鞍馬出の事」は、彼が教育を終え、社会人として独り立ちする卒業式ともいえます。

1174(承安4)年2月2日の早朝。牛若丸・遮那王は巣立ちの時を迎えました。牛若丸は、白小袖に唐綾を重ね、その上に播磨名産の浅黄色(水色)の帷子(かたびら)をつけ、白い大口袴に唐綾の直垂、それに敷妙という名の鎧腹巻、紺の錦で包んだ短刀に黄金作りの太刀を身につけていました。薄化粧をほどこし眉を細く引いた顔。髪は唐輪の髷(まげ)に高々と結っています。美しくも勇ましいはずのその姿は、とても心細げなものであったと言います。
「自分以外の誰かが、この寺を訪れて部屋の前を通るたびに、私という者がここに住んでいたんだと思い出して、死んだ跡を弔ってもらいたい」
そう思う牛若丸は、漢竹の横笛を取り出すと、一時間ほど吹き続け、その笛の音を形見して、泣く泣く鞍馬を出発しました。

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            鞍馬山・灯篭
ニックネーム ちこりん at 17:23 | Comment(8) | TrackBack(1) | ●源義経●

2005年05月18日

●源義経●〜鞍馬山の日々(4)〜天狗の魔力〜

そもそも天狗という言葉は、中国から渡ってきました。爆音がともなう流星のことであったり、あるいは、狸や狐のような獣でもありました。日本では、奈良時代の歴史書『日本書記』に、流星の意味で「天狗(あまきつね」と載るのが最初です。
やがて、山中の怪音を示す「天狗倒し」のように、何か不思議なものを表すようになり、人間を超越した力を発揮する妖魔の名前となりました。そのため、能の世界の天狗は、ユーモラスな面はあるにせよ、ほとんどが妖魔として恐ろしい側面をを持っており、「鞍馬天狗」の優しい力強い正義の味方のような天狗は、例外でした。
『説話の森』という本には、中世期の天狗は、もっと恐ろしい存在でもあり得ました。たとえば、キリシタン文学で「悪魔」の訳語として使われたり、政争の敗北者の怨霊と結びつくイメージがありました。

怨霊が天狗になった代表的な例として、保元の乱の敗者、崇徳上皇(崇徳院)がいます。朝廷を恨んだ崇徳院は、生きながら天狗となり後々までも祟ったと言います。源平合戦もそれ以後の様々な戦乱も、崇徳院の怨霊のせいだと言います。そのことは、まことしやかにずと言われていたらしく、明治天皇までが、その祟りを恐れて、京都に鎮魂のための白峰宮を造っているほどです。

それにしても、天狗が政争に負けた側につくというのなら、義経ほどその申し子にふさわしい英雄はいません。平家には勝利しましたが、自ら属する源氏に負ける。天狗に魅入られてしかたのない運命ではないでしょうか。
華やかな成功と大きな悲劇。それがもたらす相乗効果こそが、人々が義経に引き寄せられ続けた、判官びいきのエネルギー源となっています。天狗の法力というのもまた、そんな二面性をもっているかもしれません。滅び行く予感と、人智を超えたスーパーヒーローの期待と・・・。

そして、人々の義経への思いが判官びいきへと傾いた時、天狗の法力は起死回生のよりどころとなる。特訓したのが天狗でなければ、きっと義経が大陸に行くなどという夢物語も、生まれなかったでしょうね。


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        鞍馬駅前・鞍馬天狗
ニックネーム ちこりん at 17:45 | Comment(9) | TrackBack(4) | ●源義経●

2005年05月14日

●源義経●〜鞍馬山の日々(3)〜天狗とは?

実際の天狗がどんなものだったのかおいうことについて、江戸時代後半、国学者の平田篤胤(あつたね)が少年寅吉から聞き書きした『仙境異聞』という本があります。
寅吉は、1812(文化9)年、七歳の時に不思議な老人と知り合い、老人が手に持っていた直径12センチほどの壷の中に招き入れられ、それをきっかけに、仙人が住むという世界で修行を重ねることになりました。空をひとっとびして、あっという間に様々な山へ連れて行ってくれるその人々を、寅吉は、「俗に言う天狗と思ってくれてよい」と言っています。人間の目に見えない世界への追求に熱心だった篤胤は、細かく質問して、その詳細を今で言うQ&A形式で記録しました。


Q:鞍馬山の僧正坊の絵も、手に持っている羽団扇(はうちわ)を持っている。これにはきっと大切なわけがあるのであろうと、古い書物から考えても、いろいろ思うところがある。師匠はいかが、羽団扇はお持ちでないか?
A:羽団扇は、座右から離さず、空を飛ぶときにはまずこの団扇で空をさし、目的を定めて飛び上がり、空から降りる時もこの羽団扇でさして、その所を見定めて降ります(天狗の団扇は、アクセルとブレーキつきの空飛ぶハンドルみたいなものか)。


Q:その昔、源義経が幼くて牛若丸といった時、山城の国鞍馬山におられ、かの山に住む僧正坊という天狗に、武術の奥義を習い受けられたよし。(中略)剣術棒などの稽古のやり方はどんなものか。
A:剣術稽古の始めには、まず豆をつかんで口に含み、一粒ずつ吹き出して、太刀で打ち落とし、千粒全部打ち落とすようになったら、二粒ずつ吹き出して打ち落とし、後に三、四ずつも吹き出して、両の手で持った刀で打ち落とし、この稽古がよく上達すると、甲冑を着て真剣試合をします。

寅吉少年の話は、当時も今も、真偽の程は意見が分かれます。蛇足ながら、江戸時代ともなれば、今ほどではなくても科学的な実証が重んじられるようになってきていて、天狗なんかいるものかと思う人が多かったようで、浮世草子『風流平家(ふうりゅうやさへいけ)』(1715・正徳5年)では常盤御前の妹を、浄瑠璃「鬼一法眼三略巻(きいちほうげんさんりゃくのまき)」(1731・享保16年)では鬼一法眼を、牛若丸を特訓した天狗の正体と設定したりしています。NHKでは後者の色が濃いですね。

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   僧正が谷不動堂
ニックネーム ちこりん at 12:17 | Comment(10) | TrackBack(3) | ●源義経●

2005年05月13日

●源義経●〜鞍馬山の日々(2)〜有料雲珠桜

絡み合う蛇のように木の根が走る、昼なお暗い鞍馬山・・・。そこで牛若丸がどのような特訓を受けたのでしょうか。
江戸時代には、牛若丸が天狗に剣術の特訓を受ける図が、実に多く描かれています。「牛若丸・鞍馬天狗正坊」では、この特訓シーンにおいて、小さ目の牛若丸が、大天狗の腕に愛玩鳥のように止まっている姿が目に付きます。

秘法伝授の物語が好まれた中世では、もう少し違う視点から天狗の特訓が描かれており、能の「鞍馬天狗」は、ひたすら美しいです。

冒頭、満開の桜の中、花見に来ていた牛若丸は同行者たちと離れ、山に入ってきた山伏と言葉をかわします。ぽつんと一人「月にも花にも捨てられて候」と言う牛若の寂しそうな様子は、見知らぬ人が入り込んだと花見を中断して帰っていく、甘やかされて幸福な平清盛の御曹司たちと、実に対照的です。「あら痛わしや」と、山伏は薄幸な牛若をあわれがり、夕暮れの中、あらゆる桜の名所に連れて行き、やがて自分の正体が大天狗だと告げます。
翌日、牛若丸は特訓のために、肌に薄桜の単(ひとえ)、それに花の紋の直垂(ひたたれ・後に武士の礼服となる男性の衣服)、白い鎧腹巻きをつけた、魔物もかなわないほどの美しさで天狗に向かい合います。舞台にはでてきませんが、大天狗は日本中の天狗を引き連れてきています。その前で、牛若丸を守護することを伝え、兵法伝授が行われるのでした。
この時の鞍馬山を包んでいるのは、‘雲珠桜(うずざくら)’という、赤みの薄い桜。きっと、ふわふわとした雲のように見えたことでしょう。美しい桜に包まれて、牛若丸は夢のような時を過ごすのです。

また、幸若舞(こうわかまい)の『未来記』は、天狗が牛若丸の将来の活躍と不安を予言するお話です。室町期の娯楽読み物である『お伽草子』の「天狗の内裏(だいり)」でも同様に将来の予言を授かれています(これについては後々の記事で紹介します)。

これら上記の世界では、義経にとって天狗は、桜の名所や浄土、あるいは将来へのツアーガイドであるという側面が強調されているのに注目したいですね。天狗が御曹司を導くのです。

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鞍馬寺・雲珠桜
ニックネーム ちこりん at 21:33 | Comment(0) | TrackBack(1) | ●源義経●

2005年05月12日

●源義経●〜鞍馬山の日々(1)〜演劇鞍馬山

話はまた少し前に戻ってしまいますが鞍馬山義経が過ごした日々について御紹介させて頂きます。

鞍馬山は山城の国(現在の京都府南東部)愛宕(あたご)郡にある海抜570メートルの山です。京都の北東に位置し、王城鎮護のために建てられたのが鞍馬寺です。その昔、木々が茂り、昼なお暗いところから「闇部山(くらぶやま)」と呼ばれていましたが、やがて「くらま」と変化し、また山と谷の形から「鞍馬」の字がつきました。和歌の世界では、暗さと関わらせて数多く詠まれた歌枕(古歌に詠まれた名所)でもあります。
鎌倉幕府の公用日記『吾妻鏡』に、義経が元服するまで、ここに預けられていたことが出ていて、現在も、東光坊跡、牛若背くらべ石、義経息つぎ水、義経堂といった伝説を彩る義経ゆかりの場所が多く存在しています。お寺の紋は、天狗の羽団扇(はうちわ)です。

さて、牛若丸ですがモバQ東光坊蓮忍のもとで牛若丸は昼といわず夜といわず、学問に熱中しました。延暦寺も三井寺にも、これほどの稚児はいるまいというほど、学と心と美の三拍子が揃っていたと言います。もとっとも『源平盛衰記』では、学問は見向きもせず、武勇を好んで谷峰を走り、子供仲間を集めては囲碁や双六といったゲームに明け暮れ、師匠たちが持て余していたと書かれています。優等生と悪ガキ。どちらもすてがたい牛若丸の人物像です。

先にも書いたように『義経記』での牛若丸は、優等生らしく、昼に勉強をするふりをして謀反の事を考え、夜は密かに寝床を抜け出しては特訓をくり返し、そして夜が明ける前に人知れず戻っています。その特訓とは、茂る草木を平家一門に見立て、そのうちの大木二本に「清盛」「重盛」と名付けて激しく太刀で斬りつけ、さらに玉を二つ、木の枝に清盛重盛の首として晒し首のようにつけるというものです。
もっとも、天狗の特訓については『義経記』では触れられていません。ただ、牛若丸が、天狗のすみかとなっていた貴船神社の近くで特訓をしていた、とあるばかりです。同様に、『吾妻鏡』や『源平盛衰記』にも、天狗の記事はないです。

しかし、『平治物語』のある本には、

昼は学問に精を出し、夜は明け方まで武芸を稽古なさったのである。僧正が谷で天狗に夜ごと兵法を習ったそうで、それゆえ早足・飛び越えが人間業とは思われない。

とあります。また、『太平記』にも「鞍馬の奥、僧正が谷にて、愛宕・高雄の天狗どもが、九朗判官義経に授けしところの兵法」と出てくるので、室町時代になると、義経と鞍馬天狗の結びつきはぐっと強まっていったようです。
源平合戦の中で、最も華やかな活躍をした武将は義経でした。『平家物語』鵯越の場面(巻九「坂落」)では、その活躍を評して、

まったく、人のやることとは思われない。まさに鬼神の仕業とばかりに思われてならないのだ。

と書かれています。平家を倒すという、不可能を可能にした並々ならぬ力は、人々の想像力をかきたて、天狗の神通力に結びつけられていったのでしょう。
室町時代の人々にとって鞍馬山の天狗の特訓は、もはや歴史的事実として認識されていきました。

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            鞍馬寺本殿
ニックネーム ちこりん at 21:15 | Comment(2) | TrackBack(1) | ●源義経●

2005年04月26日

●源義経●〜鞍馬からの脱出(2)〜ぴかぴか(新しい)源九朗義経

1174(承安4)年の春、十六歳となった牛若は、鞍馬山から忽然と姿を消しました。『平家物語』によれば、京都と奥州を行き来する金商人雪金売吉次と出会った牛若は、「この童を具して(連れて)下れ。ゆゆしき人を知りたれば、其の悦びには、金をい乞ひて得させんずる」 と自ら口説いて鞍馬を脱出し、藤原秀衡を頼って奥州平泉へ向かいます。途中、近江国の鏡の宿(滋賀県竜王町)で強盗に襲われるなどの危険な目に遭遇もしますが、ここで形ばかりの元服の式を挙げて「源九朗義経」を名乗ります。


その後、下総国の深栖三郎のもとに至り。ここで一年ほどしのんでいましたが、平氏に聞きつけられてはまずいという三郎のすすめもあって、再び奥州へ下ることとなりました。多賀国府(宮城県仙台市付近)では途中で別行動をとった雪吉次と再び合流し、吉次の案内で奥州に入って秀衡と対面しました。
ところで、史実によると義経のこの数年間の消息は、まったくわかりません。鞍馬山から抜け出したとはいえ、平氏の目を逃れながらの京都での生活などは思いもよらず、そのため諸国を転々と流浪し、土民や百姓に使役されるというような辛酸をなめる年月を送りました。これが奥州にたどり着くまでの義経の行動でした。

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   鞍馬山山頂付近
ニックネーム ちこりん at 21:36 | Comment(7) | TrackBack(3) | ●源義経●

2005年04月25日

●源義経●〜鞍馬からの脱出(1)〜かわいい遮那王

七歳の春、母のもとを離れた牛若(義経)は、京都の鞍馬寺モバQ東光坊蓮忍禅林坊覚日(かくにち)の弟子となり、ぴかぴか(新しい)遮那王と称しました。当初、父・義朝の菩提を弔うべく仏教や儒教などの学問に精進する日々でしたが、十一歳の時、系図を見て自分が源氏の嫡流であることを知り、父義朝の遺志を継いで平氏打倒することを自ら思い立ちました。

『義経紀』巻一では、ここに父義朝の乳母子鎌田正清(政家)の子の少進坊なるものを登場させて、牛若にして出生の秘密を明かし、源氏重代のこととその窮状を伝え、平氏への謀反を勧めるという筋立てになっています。

それからというもの、牛若は終日『本六韜(りくとう)』『本三略』などの軍書を読み、夜は人知れず鞍馬の山中で武芸の稽古をするようになったといいます。師匠のモバQ東光坊はこの頃しきりに出家を勧めますが、牛若はこれを拒みました。

モバQ東光坊蓮忍・・・鞍馬寺の僧。出自は不明。義経が母キスマーク常盤御前のもとを離れ、鞍馬寺で仏門に入るため預けられた時の住職。義経を仏門の道に進ませるべく、日々学問に励ませましたが、己の出自を知った義経は、平氏討伐の一念に燃え武芸のみに励むようになりました。そのため、平氏の目を恐れた蓮忍は出家を勧めましたが、義経のあまりの想いに断念したと言われています。

本六韜(りくとう)・・・中国周王朝の軍師・太公望呂尚の秘伝の兵法書。文韜、武韜、龍韜、虎韜、豹韜、犬韜の六巻六十編に分かれている。「韜」は元来、剣や弓を収納する袋の意で、転じて包み隠す意を持つ。
本三略・・・中国漢王朝の軍師・張良が黄石公から授かったといわれる兵法書。『六韜・三略』と併称されることが多い。


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            鞍馬寺本殿
ニックネーム ちこりん at 21:15 | Comment(6) | TrackBack(0) | ●源義経●

2005年04月23日

●源義経●〜常盤御前〜

1国内で初めて開かれたミスコンに優勝・・・。義経の実母である常盤は、一説によれば1138(保延4)年、に京都楊梅(あげもも)町(京都市下京区)で生まれましたが、その素性はよく分かっていません。小さい頃から美しさは際立っていたと言います。

1150(久安6)年6月、近衛天皇の中宮として入内していた藤原呈子(九条院)が、雑仕女(ぞうしめ)を一人募集することになりました。その選出方法は、都の美女千人を召出して、その中から百人。さらに十人としぼり、最終的に一人選び出す現在で言うミスコンテストのようなものだったと思われます。並み居る美女達が次々と篩(ふるい)にかけられる中で、見事最後に残ったのが、わずか十三歳の常盤でした。当時京都は天下の都で、その都の選りすぐりの美女になったといえば当然日本一に値します。後世、常盤御前が「絶世の美女」として知られる由縁はここにあるわけです。母常盤の経歴を見れば、「ぴかぴか(新しい)義経美男説」が生まれるのも当然で、「ちっ(怒った顔)醜男説」など吹っ飛んでしまいます。

また、「己の命と引き替えに、母(関屋)と子供達の命を助けて欲しい」と、涙がらに清盛に懇願し、清盛常盤の美貌に魅かれて、自分の側室になる条件で母と三人の子を助けています。つまり身をもって母と子を救ったわけでここに常盤の母としての強さを感じさせます。
その後、清盛の命で大蔵卿・藤原長成に嫁ぎましたが、源平双方の棟梁に愛されて子をもうけ、さらに藤原氏の子も産んだという複雑さは、それだけ常盤が周りの女性に比べて、容姿が優れていたと言えます。
ちなみに、常盤長成に嫁いだ時に、義経も一緒に連れ添っています。
一説では、のちに義経が鞍馬寺を出て奥州藤原氏に身を寄せることができたのは、継父長成と奥州で権威を振るっていた藤原基成が従兄弟にあたり、さらに基成の娘が三代藤原秀衡の妻であった関係によるものだと言われています。

2常盤の消息・・・1185(元暦2)年の壇ノ浦合戦で勝利し、念願の平氏滅亡を成し遂げた我が子義経が、やがて異母兄頼朝と不和となり、都をおわれることになります。頼朝の命で、娘廊の御方(能子)とともに捕らえられた常盤は、鎌倉へ護送され義経の行方を訊問されますが、のちに不問とみなされ釈放されます。その後、いったん都へ戻りましたが、風の便りで義経が奥州に落ち延びたことを知ると、待女の千種(ちぐさ)を伴って、我が子の後を追ったと言われています。しかし、それ以降の消息に関しては、未だ不明な点が多く謎とされています。

一説では美濃国不破の関(岐阜県関が原町)近くまで来た所で、土賊に襲われて金品を略奪された挙句殺されたといわれ、近くの山中には、哀れんだ里人によって建てられたと伝わる五輪塔が存在します。

またその他にも、群馬県前橋市、鹿児島県郡山町など全国各地に常盤御前の消息の謎が、未だ解明されていない中で、これだけ多くの墓と伝わるものが存在するということは、真偽はさておき、それだけ常盤御前が息子義経同様に悲劇性を持った人物として伝えられてきた証拠でしょう。
ニックネーム ちこりん at 19:53 | Comment(10) | TrackBack(1) | ●源義経●

2005年04月22日

●源義経●〜六波羅への出頭〜

常盤、大和にて、此事聞伝へて、『わが子を思うやうにこそ、母もわれをばかなしむらめ。我ゆゑ苦をうくと聞きながら、いかでか出て助けざるべき・・・』と思て、三人の子共を引具して、故郷の都へぞ帰りける」(平家物語)

母関屋が六波羅に連行され、責め苦を受けている事を聞いた常盤は大和で苦悩します。自分が我が子をいとおしく思うように、母も私のことをいとおしく思っているのだろう。私のために母が厳しい拷問を受けているということを知りながら、どうして出て行って助けないで居られよう・・・
常盤は苦悩した結果、三人の子供を連れて都へと帰りました。
都へと帰った常盤は、清盛の郎党伊藤景綱のもとに預けられ、そこで義朝の遺児たちを伴い来た事を告げ、母親の命を助けてくれるように嘆願しました。



常盤は子供達を連れて清盛の宿所に行きました。、今若乙若の二人を左右の傍らに置き、まだ二歳の牛若(義経)を懐に抱いて清盛と対面しました。
子供達を助けてくれなどとはもはや言わない。
「わらはうしなはせ給ひて後にこそ、子供をば御はからひ候はめ」
常盤は覚悟を決めました。まずはこの私を殺して欲しい。それから後に子供達をどうとも好きなようにして欲しい。子供達を思う常盤の気持ちと、傍らで母の顔を心配そうに見上げる子供達の顔を見て、清盛は思わず涙ぐみ同情しました。
結局、老母関屋は許され、常盤親子も赦免されました。ちょうど同じ頃、捕らえられていた義朝の三男・頼朝の伊豆への流罪が決まりました。これを聞いた常盤は、三人の子供達は死罪こそ免れたとはいえ、頼朝同様流罪は免れないだろうと覚悟をきめますが、三人はいずれも幼少であるという事を理由に、そのまま何処へも流されることなく都に留まることになりました。


常盤はこの後どうしたか・・・?『平家物語』によれば、常盤はこの後清盛と結ばれ、女の子を一人出産(能子)。この女の子はやがて花山院の左大臣、藤原兼雅(かねまさ)の上臈女房となり、ぴかぴか(新しい)廊の御方(ろうのおかた)と呼ばれました。常盤はというと、まもなく大蔵卿藤原長成に再婚しました。
(三人の子供達のうち、今若乙若についてはこのリンクを参照。)
まだ、二歳にすぎなかった牛若は、最初は父の敵である清盛のもとで母常盤とともに過ごしました。しかし、牛若の英明さを清盛が知り、恐れをなしたと言われています。そして、常盤が再婚した後は藤原長成に入り、ここでしばらく養育されました。


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        六波羅蜜寺
ニックネーム ちこりん at 17:20 | Comment(3) | TrackBack(1) | ●源義経●

2005年04月21日

●源義経●〜常盤の都落ち(2)〜

夕刻、幼い子供達を連れ、やっとのことで伏見の里にたどり着いた常盤は、夜更けにようやく一軒のみすぼらしい家を訪ねあてました。中からは一人の老婆が現れ、常盤をいぶかしそうに見つめますが、常盤は精一杯の嘘をついて一夜の宿を乞いました。
事情をそれと悟った老婆は別段問い返すこともせず、親子を中に招じ入れました。新しい筵(むしろ)を取り出して尻に敷かせ、焚き火をして冷えきった常盤の体を暖めさせ、食べ物を持ってきてこれをすすめました。常盤は「偏に清水の観音の御あはれみなりと、行末たのもしく」と思いました。

翌朝、旅たとうとする常盤を老婆はとどめました。まだ雪が降っていたからです。
「今日は一日、幼い子供達の足を休めさせ、雪が晴れてから・・・」と老婆は常盤を引き止めました。常盤は老婆の情にほだされて、もう一晩だけ世話になりました。その日は何事もなく過ぎていき、再び夜が明けました。常盤は老婆に感謝の言葉を述べて、泣く泣く老婆の家を後に。

道すがら、見る者あはれみ、情をかけて、馬などにて送る者あり、かちなる者も見すごさず、子供を負いだきて、5丁10丁送る程に、思の外に心安く、大和の宇多の都に付にけり」(『平家物語』)

ようやく大和国の宇蛇(奈良県大宇陀町)にたどり着きました。宇陀には常盤の伯父がいたのでこの伯父のの許を訪ね、身を隠しました。


「さても、九条院雑仕常盤腹の義朝が子供、三人あり。皆男子なれば、ただは置がたしとて、六波羅より兵共をさしつかはし尋ねければ、常盤・子供なし、常盤が母の老尼ばかりぞありける。『姫・孫の行衛しらぬ事はよもあらじ』とて、六波羅へ召出て尋らる」

一方、平氏方では、常盤の行方を探ろうと家に残っていた老母関屋をからめとり、六波羅に連行して尋問しました。常盤はこの母にも黙って家を出たので、どんなに尋問されようとも、常盤の行方をこの母が知るはずもありません。六十を超えた老いの命、今更何が惜しかろう。関屋は六波羅の武士たちによる厳しい拷問にも関わらず、娘と愛しい孫達の身代わりになろうとこれに堪えました。

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常盤御前・腰掛け石
ニックネーム ちこりん at 22:25 | Comment(2) | TrackBack(2) | ●源義経●

2005年04月20日

●源義経●〜常盤の都落ち(1)〜

常盤には、今若(後の阿野全成)、乙若(後の義円)、牛若(義経)という三人の男の子供がいました。

さてはあらじ物を
そのままではすまないだろう、殺されるに違いない。世間の人たちはこう噂しました。
世間の噂を耳にした常盤は、こうしていられない、こんままでは子供達の命が危ない、子供達を連れて身を隠そうと思い立ちました。家には年老いた母(関屋)やたくさんの使用人の女達もいましたが、誰にも知らせずに夜陰にまぎれて我が家を後にしました。


「兄は今若とて八になる、中は乙若とて六、末は牛若とて二歳也。おとなしきをば先にたてて歩ませ、牛若をば胸にいだきて宿所をば出ぬ。心のゆるかたもなさには立出ぬれど、行末はいづくとも思ひわかず、足に任せて行くほどに、としごろ心ざしをはこびけるしるしにや、清水寺へこそ参りたれ」(『平家物語』)

幼い子供達を連れて家をでたものの、どこへというあてがあったわけではありませんでした。ただ足に任せて歩むうちに、常日頃深く信仰していた清水寺にたどりつきました。
その日は清水寺の観音の前で、今若乙若の二人を左右に伏させて着物の裾をかけてやり、牛若を懐に抱いて泣かせまいとして夜通しあやしました。
「三人の子供が命、助けさせ給へ」
常盤はひたすら観音にこう祈るばかりでした。


「比が二月の十日の曙なれば、余寒、猶尽きせず、羽川の流も氷つつ、領の風もいとはげし。道のつららもとけぬが上に、又かきくもり雪ふれば、行べき方もみえざりけり」

翌早朝、清水寺を後にしました。立春を過ぎたとはいえ、寒さはまだ厳しく、清水寺の背後にある音羽山から流れ出る音羽川が、朝の寒さで凍りつき、東山の領にも風が吹き荒れて、道には氷が張り付いて溶けない上に、空が曇って雪が降り、前を見ることもできないような有様でした。厳しい寒さの中を子供達は母の常盤に励まされて歩きました。足が腫れ上がり血が出て、痛みに耐えかねた子供達が泣き悲しむ声が、平氏の手の者に聞かれはしまいか、気が気でなりませんでした。
その日の夕刻、やっとのことで伏見の里にたどりつきました。清水寺から伏見まではわずか十キロにも満たない距離でした。

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        清水寺
ニックネーム ちこりん at 17:20 | Comment(10) | TrackBack(4) | ●源義経●

2005年04月19日

●源義経●〜義経誕生〜

義経は、1159(平治元)年に清和源氏の嫡流・源義朝と側室常盤御前(NHKでは稲森いずみが役)の子として京都で生まれ、童名を牛若、九朗と称しました。兄・頼朝とは腹違いの兄弟です。義経義朝の末っ子として生まれましたが、説によっては義朝の九男ともいい、また八男、あるいは六男とも言われています。
義朝の九男説をとる代表的なものに、諸家の系図を集大成した『尊卑文脈』があります。これによれば、義朝には早死にした者をも含めて男子は九名あり、義経は末っ子であると言います。

一方、義経の母親である常盤御前についてですが、もとは近衛天皇の皇后九条院(藤原呈子)の雑仕女(ぞうしめ)として宮仕えしていました。雑仕女とは、後宮で雑役つとめ、皇后や中宮などの行啓の際には、笠をかぶり馬に乗って供奉(ぐぶ)する下級の女官です。
当時から常盤は、たぐいまれなる美貌の持ち主として知られていて、それを見はじめた義朝が側室にしたと言われています。義経はこの常盤を母に、今若(後の阿野全成)、乙若(後の義円)という二人の兄を持つ三人兄弟の末っ子でした。


1156(保元元)年、平治の乱で父・義朝や兄達が敗れこのことが義経の運命を大きく左右したことは言うまでもありません。

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源義朝の墓
ニックネーム ちこりん at 22:55 | Comment(4) | TrackBack(4) | ●源義経●