2007年10月10日

東国社会の自己主張〜東国勢の共通認識(6)

慈円のような都人にはない文化的な異質性に対する認識があったがゆえに、頼朝は最終的には東国の範囲に自己限定してその政権を樹立したものであり、異質性を乗り越えた全国政権展開への志向は、頼朝の晩年にいたってわずかに窺えるようですが、結局は承久の乱、さらには蒙古来襲によって、東西の人的な交流と、それにともうなう文化の交流が盛んになり、文化面での地均し(じならし)ができた鎌倉後期以降の課題として残されたのでした。


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2007年10月08日

東国社会の自己主張〜東国勢の共通認識(5)

「拾玉集」巻五に、慈円頼朝との歌のやり取りを巡る次のような話が収められています。それによれば1195(建久6)年3月、東大寺の再建供養のために京都へ来た頼朝が、6月末に63904鎌倉に帰るにあたって、慈円が、

あづまぢのかたに勿来の関の名は 君を都に住めとなりけり

と詠んだのに対し、頼朝

都には君に相坂近ければ 勿来の関は遠きとを知れ

と返したと言うのです。

このやり取りを解説すると、慈円の歌が「東国の方にある勿来(来てはいけない)という名前の関は、あなたに東国に来ないで都に住めという意味でしょう」、と頼朝がこのまま都に住みつくことを勧めたのに対して、頼朝の方は、「都に近い逢坂の関は、あなたとまた近いうちにお会いするという意味でしょう。でも勿来の関は私のところからも遠いのだということを知っておいてください」と応酬したものです。

ここには、期せずして都人と東国人との間の地理感覚の差、つまり63904鎌倉も勿来(福島県、歌枕として有名)も同じ「東国」でひとくくりにする都人と、「東国」でも「白河以東」は別扱いにする関東の人間との違いが現れていて面白いですが、慈円ほどの知識人であっても、東国については歌枕の知識以上に多くのことを知っていたわけではなかったのでしょう。

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2007年10月05日

東国社会の自己主張〜東国勢の共通認識(3)

承久記」の伝えるところによると、63919政子は、日本の侍たちは昔は三年の大番といって、朝廷の警護のために朗従・眷属を引き連れて、晴の舞台へと出たったが、大番が終わった頃には力も尽き果て、蓑笠を首にかけて徒裸足でようやく故郷に帰り着いたものを、頼朝が哀れんで三年を六ヶ月に縮めて、それぞれの侍の分限に応じて務めるように改めたのだとか、あるいは侍達が美役の召し集められて内裏大番を務め、雨の日も晴れの日も庭に敷革をしいて詰め、三年の間、故郷を思い妻子を恋しと思っていたのを実朝が改めたのだとか述べて、東国勢の奮起を促したことになっています。

見られるとおり典拠によっては内容は一致しないし、真偽の程も定かではありません。ですが東国の武士達が京都で受けた扱いに関してみれば大筋で間違いではないだろうし、再び同じような時代に逆行してはならないというのは東国勢の共通認識だったのは違いない・・・ところでしょう。

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2007年10月04日

東国社会の自己主張〜東国勢の共通認識(2)

承久の乱に際して63919政子が行った演説が東国勢を奮い立たせ、一気に京都へと殺到させる力となったことは、既に既述していますが(http://genji7.paslog.jp/article/449305.html)、この演説には、東国が律令国家の中で長い間与えられ続けてきた役割に対する、東国人の側の評価と不満が適切に表現されていたからこそ、それだけ多くの人々を動かし、その後も長い間語り伝えられるだけの力をもっていました。

それは防人歌にこめられた東国人の心の声にたたえるものだったと言えましょう。
では、63919政子の演説の要点は何だったのでしょう?

次回はその点をかいつまんでみようかと思います。

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2007年10月03日

東国社会の自己主張〜東国勢の共通認識(1)

東国の歴史を通観していえることは、夷をもって夷を制すというのが律令国家の基本姿勢で、その政策に乗って律令国家の側について戦った東国勢の中心人物が、都に出て社会的上昇を遂げてきたというのが、東国の歴史の中で反復してきた一つの型です。
しかも、その中心人物たちも、古い時期は別として、平安中期以降は東国に土着した京都の貴族層出身者の子孫が多いようです。そのため、、上昇志向が強く、京都へ出て立身しようというのもやむを得なかったとも言えるでしょう。

ですが、そうした過程によって、東国は一つの政権を樹立するに足るだけの軍事力を有しながら、統一の中心がなく、それを担う政治的な能力の持ち主も生まないまま、京都の朝廷・貴族たちに分断支配されてしまった・・ということです。この型をはじめて破り、東国に自立した政権を打ち立てたという点に頼朝の画期性がありました。東国を集結し京都から自立した独自の政権を持つことは、頼朝とそれを継承した鎌倉幕府に対して歴史によって負わせられた課題だったのです。

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2007年10月02日

東国社会の自己主張〜源氏と鎌倉の縁(4)

系図類によれば、こうして勇名を馳せた景政の鎌倉氏も、関東に土着した恒武平氏の一流で、為次の三浦氏とは近い関係にあり、大庭・梶原などの諸氏がその子孫に当たります。景政が勇名なのは、単に武勇の人であったということだけではなく、死後、御霊神として相模を中心とする各地に祀られたことにありましょう。

中でもよく知られているのは、63904鎌倉御霊神社でしょう。

祖先との縁にしたがって、頼朝63904鎌倉を幕府の本拠として選んでから、景政が一種の幕府の守護神的な役割を演じていた事は、「吾妻鏡」の記事に書かれていたような気がします(どの部分かは忘れてしまいましたが・・・)。

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2007年10月01日

東国社会の自己主張〜源氏と鎌倉の縁(3)

景政の話の典拠は、どんなに早いものでも鎌倉初頭より古いということは無いようですから、後三年の合戦より少なくても百数十年の後でしょう。ですが、そうだといって、この話が物語の成立時の創作であるとは限りません。

むしろ何らかの史実があって、景政の出身地であり子孫の繁衍していた63904鎌倉を中心とする相模一帯に伝承されていたと考える方が自然でしょう。特に景政の子孫にあたる大庭氏の場合は、武士の家としての威勢を誇示する逸話として、大事に語り伝えてきたということは、大いにありそうなことです。


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2007年09月30日

東国社会の自己主張〜源氏と鎌倉の縁(2)

源氏と63904鎌倉との縁を、象徴的に表す人物が鎌倉権五郎景政(景正)でした。
景政は名字に現れているように相模国63904鎌倉を本拠とする武士で、彼の武勇を語る有名な挿話があります。

それによると景政はわずか16歳で後三年の合戦に従軍し、勇戦する間に征矢によって右の目を射られました。矢は景政の首を貫き、甲の鉢付の板に刺さりましたが、景政は矢を折り棄てて自らはなった矢で相手を殺し、その後、自陣に退いて仰向けに伏しました。
そこで景政と同じ相模の出身である、これも高名のつわもの三浦平太郎為次が、皮の浅沓を履いたまま景政の顔を踏まえて矢を抜こうとしました。すると景政は刀を抜いて為次の鎧の草摺(くさずり)を捉え、下から為次を突こうとしたので、驚いた為次が咎めると、景政は弓矢に当たって死ぬのは本望だが、生きながら足で顔を踏まれたりするようなことは許せない。だから為次を敵として自分はここで死ぬのだ、と答えました。
為次は舌を巻いて何も言えず、改めて膝をかがめて景政の顔を押さえて矢を抜いてやりました。

周りの者達は景政の剛勇と武者魂に感嘆したといいます。

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2007年09月29日

東国社会の自己主張〜源氏と鎌倉の縁(1)

940(天慶3)年の平将門の乱の約百年後の1082(長元元)年は平忠常の乱が起きました。忠常は前上総介で上総・下総に勢力を振るっていましたが、国司に従わず、さらには安房守藤原惟忠を討ったため討伐されることになったものです。

この乱では当所追討使に任命された平直方が失敗したのを、甲斐守であった源頼信が改めて任命されると、忠常はそれ以前に頼信の家人であったことから、戦わずして降伏し、頼信の武名が大いに揚がりました。このことが東国での源氏勢力拡大の重要なきっかけとなり、以後、頼義義家の代の奥州でおきた前九年の合戦後三年の合戦に東国勢が付き従ったことから、源氏と東国との結びつきは一層緊密なものとなりました。

既に触れたことですが、鎌倉幕府の政権所在地となる63904鎌倉と源氏の縁も、頼義の時代に始まります。

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2007年09月28日

東国社会の自己主張〜東国と京畿内(7)

前述した状況の中で、平安前期の889(寛平元)年こと、桓武天皇の子孫である高望王(たかもちおう)が上総に赴いて土着し、貴種として重んじられ、その子孫がいわゆる坂東八平氏として勢力を広げる事になります。この坂東八平氏の一流から出て、東国の軍事力を独自に組織し、931(承平元)年から940(天慶3)年にかけて律令国家に対する反乱を起こしたのが平将門でした。

この乱そのものの意義については省略しますが、将門の乱を鎮圧できたのも、平将門と同族で常陸に勢力を張っていた平貞盛や下野国に土着していた藤原氏の一流藤原秀郷の兵力によるもので、将門の乱はもともとが一族の内部争いに始まったものとはいえ、大規模な武力紛争に対処できるような律令国家の常備軍がもはや存在しなかったことを如実に示すものでした。

平将門平定の功労者である平貞盛は乱後、東国を離れてやがて伊勢平氏の祖となり、秀郷は東国に留まって、その子孫は下野から北関東一帯に威勢を振るう小山氏ら有力豪族となっていきます。

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2007年09月27日

東国社会の自己主張〜東国と京畿内(6)

藤原仲麻呂の乱の鎮圧に参加し、後に東北地方への遠征にも従事して征討副将軍にまで昇った入間宿禰広成や、鎮守副将軍の安倍猿島朝臣墨縄らは、前述の律令国家の征討戦に協力して社会的地位の上昇を意図した東国豪族達の早い例でしょう。ですが、いずれも朝廷秩序の末端に過ぎない従五位下・外従五位下までの官位しか与えられていません。

しかも墨縄は789(延暦8)年に敗戦の責任を負わされて、かろうじて斬刑は免れたものの官位剥奪という処分を受けるのであって、この時の征東大将軍古佐美がなんら責任を問われることがなかったことと比べると、所詮は彼らは走狗として使いすてられるような存在に過ぎなかったという印象が強いでしょう。墨縄や広成の他の、上毛野・漆部と言った豪族達にしても、官位に関してはほぼ同じような状況でした。

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2007年09月26日

東国社会の自己主張〜東国と京畿内(5)

防人歌の多くは・・・・

大君の命畏み磯に触り 海原渡る父母置きて
(天皇の命令を承って、自分は磯を渡り海原を渡っていく、父母を故郷に置きながら)

吾等旅は旅と思ほど家にして子持ち痩すらむわが妻かしも
(自分の旅は、これが旅というものだと思ってあきらめるけど、家に残って子供を持ってやせるであろう私の妻が愛しい)

などのように、故郷に残した肉親を偲ぶ哀切な想いがにじみ出るような歌です。そこに示されているのは、律令国家の都合で肉親から切り離されて遠隔地に送られた東国人の怨嗟の声でした。

そしてまた北辺の蝦夷と呼ばれる人々が、律令国家の支配に抵抗して戦った際にも、西国から征討軍が派遣されるのではなく、東国の兵士たちが動員されて戦闘に従事しました。774(宝亀5)年陸奥の蝦夷が蜂起して桃生城を襲撃したとき、光仁天皇が坂東八ヶ国に対して、もし陸奥より急を告げてきたら、国の等級にしたがってそれぞれ五百から二千名の援兵を差し向けるように命令しているのは、その一例といえるかもしれませんね。

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2007年09月25日

東国社会の自己主張〜東国と京畿内(4)

東国の豪族たちに側も、大和朝廷への奉仕によって朝廷での官職を得たり、または在地での豪族間の勢力争いに有利な地位を獲得すると言う狙いがあって、大和朝廷の統治政策に積極的に協力したようです。律令国家による東国の軍事力利用は豪族層以外の一般人にも及びました。


その典型が防人(さきもり)です。

防人というのは外敵に備えて対馬・壱岐・筑紫など北九州の沿海部を防御するために派遣された兵士たちを言います。家族や生地から切り離されて、はるばる東国から難波に集められ、そこから船で送られた防人の悲惨な境涯は、防人歌として「本万葉集」のなかに残されています。


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2007年09月24日

東国社会の自己主張〜東国と京畿内(3)

東国と京畿内との対立の背景には、近年、考古学や民俗学などの成果に基づいて主張されている、弥生文化の伝統の上に成立した大和国家と、後から大和国家の版図に繰り入られましたが依然として縄文文化の伝統が色濃く残った東国との、文化的伝統の違いが存在する・・言われています。そういう意味でこの両地域の対立は、異質な文化の対抗関係に根差したものと見ることもできましょう。

そして京畿内の貴族達が東国の人間を未開・野蛮として蔑視してきた一方で、東国の軍事的力量は律令国家以前に遡る早い段階から高く評価されてきたこともまた事実です。5世紀後半の稲荷山古墳出土鉄剣の銘によって明らかになったように、代々の東国の豪族が「杖刀人(じょうとうじん)の首」として大和朝廷の大王に仕えてきたのも、そうした剽悍さが評価された一つの例です。
また、大化の改新に際して、蘇我入鹿の暗殺後わずか二ヶ月足らずという早い時期に、東国に八人の国司が派遣されたのも、東国の軍事的な潜勢力を高く評価するがゆえに、いち早く東国を掌握するために行われた措置でした。

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2007年09月23日

東国社会の自己主張〜東国と京畿内(2)

何とか熱が下がりましたので、気合入れて記事作成!

東国は古くから「吾妻」=東」と呼ばれてきました。
和歌の中で、「吾妻」にかかる枕詞として伝統的に用いられてきたのが「鳥が無く」という言葉です。なぜ「鳥が無く」なのかというと、一説には東の方が早く夜が明けるので夜明けを告げる鶏鳴(けいめい)が枕詞になったのだと言い、もう一つの説では、東国人は鳥が鳴くようにぺちゃくちゃしゃべっているだけで意味がわからないという、都人の文化的な偏見かもしくは差別意識に基づいたものだと言います。

語源的にムリに確定する必要は無いですが、近世になってヨーロッパ人の言葉を「侏離鴃舌(しゅりげきげつ:ぺちゃくちゃと鳥がさえずっているようで、何をいっているかわからない)だと侮蔑したことからすると、この枕詞も同様な意識で使われたことは大いにありそうです。東国で育った子の発音は舌が曲がっているように聞こえるという、平安中期頃の京都での批評も、そうした偏見と無関係ではないかもしれません。

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2007年09月21日

東国社会の自己主張〜東国と京畿内(1)

既述してある式目の制定の際の泰時の書状について、東国人の自己主張として貴重な例なのですが、幕府を生んだ武士社会の特性を考える時、背景となる東国の歴史を振り返らないわけにはいかないでしょう。
‘東国’の範囲というのは時代によって多少違いますが、古代国家の行政区画でいえば、だいたい三河・尾張より東にある諸国と考えればいいでしょう。ただ畿内に隣接する美濃・尾張の地域は早くから朝廷との結びつきが強く、天武天皇のクーデターといえる壬申の乱での軍事的貢献もあって他の地域とは異なる待遇を与えられていたので、必ずしも同一には論じられません。


その中で、ここでは所謂坂東八ヶ国と称された、今日の関東地方に当たる相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸・上野・下野の一帯を主な対象として、東国の歴史を考えてみようと思います。


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2007年09月20日

武士社会の実戦智〜思慮と狡智(5)

既述の事例を見れば、古代末から中世にかけての武士達の戦い方の基準にあるのは、「勝つ」という目的だけに収斂する実践的で合理的な思考なのだという事が分かります。そして頼朝が古代末の内乱に勝利し、頼朝政権が「勝つ」ことから「治める」ことへと目的を転換するに伴って、実践的・合理的な思考の収斂する対象も、自ら「治める」ことへと転化します。


言ってみれば実戦智の伝統の上に、治者の自覚が加わった・・・ということです。そこに成立したのが幕府の法制度でした。なので儀礼的・形式的な戦闘様式から実践的・合理的な勝つことに徹した戦闘様式への転換と、公家法から式目への転換とは、歴史的な相似形をなすものと言えましょう。

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2007年09月19日

武士社会の実戦智〜思慮と狡智(5)

前述の則綱の行為が「剛(甲)」と称されるのなら、「剛」とおいう言葉自体に、通常の用法とは異なったニュアンスが存在する事になります。


承久記」の中にも、杭瀬川の戦で京方の蜂屋蔵人という武士が、味方の敗色が濃いのを見て取って「逃ぐる甲の者(逃げるが勝ち)、落ちなん」といって馬を走らせて離脱する場面がありますが、武士のあるべき姿としての「剛の者」とは、単純に弓技・刀技・騎馬などの武技に優れているだけでなく、時には詐術に近い計略を用いてでも臨機応変に敵を倒したり、状況によっては無用な戦を避けて逃げるという能力をも含意していたのでしょう。

ただ詐術というとになると敵ばかりでなく味方もその対象となります。先の宇治川先陣の話で、わーい(嬉しい顔)高綱が遅れを挽回するために景季の馬の腹帯が緩んでいると注意し、景季が腹帯を締め直している間に追い抜いたのが良い例でしょう。

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2007年09月18日

武士社会の実戦智〜思慮と狡智(4)

さらに一歩進めれば、武者のあるべき姿は単に思慮に富むばかりでなく、時には狡智をも要求されるものだったとさえ感じられます。

ビール一の谷の合戦で、平家方の越中前司盛俊と戦った猪俣則綱がそうです。盛俊の片腕に挟まれ首をとられそうになった則綱は、頼朝に盛俊一族の助命を請い受けてやると約束して助けてもらう。ですが、則綱の同族の人見四郎がやってくるのを見ると、則綱は約束を破り、油断している盛俊を後から突いて深田のなかにまっ逆さまにはめ、首を取ってしまいます。

ですが、現代人の感覚では何となく釈然としないこうした場面でも、軍記物の作者は一切批判がましい言葉を載せていないようです。それどころか伝本によっては、盛俊に挟まれながら、なんとか助かろうと説きすかす則綱を、則綱は力は劣っているけれども「心は剛なりければ」少しも騒がずにしばらく息を休め、何でもないようにとりつくろったと、むしろ彼がむざむざ敵に首を掻かれなかった点を賞揚している感じさえあります。

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2007年09月17日

武士社会の実戦智〜思慮と狡智(3)

奥州藤原氏を討つために行った奥州合戦の際にも、1189(文治5)年の手紙に見られるように、頼朝は敗走する敵軍を追って逸る東国勢に、少数の敵をも侮らないで危険な行動を避け、勝手に行動しないで二万騎という数をそろえ、ひた押しに殲滅するように厳重に申し送っています。また、1190(建久元)正月、奥州藤原氏の残党大河兼任が乱を起こした際、小鹿島公業は兼任に迫られて逃走したと鎌倉に報じられました。ですが、その後公業自身が参上して、逃亡したのではなく兼任の囲みを逃れて図り事をめぐらそうとしたのだと弁明し、頼朝も御家人たちが一身の勲功を立てようと無勢で合戦するのは却って分別を欠くもので、公業の行動は思慮のあるものだと認めたそうです。

これらの話は、いずれも武者の勇気とは単なる暴勇ではなかった事を教えてくれます。

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2007年09月15日

武士社会の実戦智〜思慮と狡智(2)

一方、頼朝は合戦に臨んだ時は極めて慎重だったようです。

平氏追討のために西海にあった弟の範頼に宛てた1185(文治元)年正月6日付けの書状の中で、頼朝配下のように言っています。

「物騒がしからずして、よくよくのどかに沙汰したまうべし。構えて構えて国の者ども(遠征先の中国・九州地方の人々)に憎まれずしておわすべし。・・・・敵は弱くなりたりと、人の申さんに付きて、敵侮づらせたまうこと返す返すあるべからず。構えて構えて敵を洩らさぬ支度をして、よくよく認めて(準備して)事をも切らせ(決断し)たまうべし。」

血気にはやったり、在地の人間を敵に回したり、敵を侮ったりせず慎重に処断するように諌めているのであって、この一文には暴勇など影も形も見えません。

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2007年09月14日

武士社会の実戦智〜思慮と狡智(1)

ビール屋島の合戦の前に、猫梶原景時義経に軍船の進退を容易にするために舳先の逆櫓を付けたらどうかと進言↓したのを、義経がにべもなく退け、二人の間が険悪になったという逆櫓の論争の場で、義経は断固として、軍というのは家を出た日から敵に組んで死ぬことだけを思うもので、命を惜しんで逃げるくらいなら戦場に出るべきではないと言い放ちました。

この発言が過大に取り上げられて、源平合戦の頃から武士達は命を省みず戦ったものだと言われているそうです。
ですが現実の武士達の戦いぶりを軍記物などで見ると、それほど皆が潔いものではないようです。逆櫓の論争での義経の発言があまりに有名なため、かえって誤解を招きやすいですが、東国武者的な武勇といっても、思慮のない猪突猛進が賞揚されたわけではありません。そのことは他ならない義経自身が装束を頻繁に代えるという行動をとっていることでも示されています。

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2007年09月12日

武士社会の実戦智〜東国武士の行動様式(5)

前述の例とは対照的に、台風壇ノ浦の合戦に臨んで平家方の越中次郎兵衛盛嗣が、事前に源氏の大将義経の風体を知り合いに尋ねたところ、身をやつして良い鎧は着ないし、毎日朝夕に鎧を替えているということでした。要するに義経は良い鎧を着て一目で大将だとわかったり、特定の鎧でその人だと識別されるようなことは避けていたようです。

このようにひたすら勇敢な武将とされている義経でさえ、現実には敵の目標になるのを避けて頻繁に装束を替えるという策を用いてた言われています。
義経のように装束を替えて敵の目をくらますのは、武士は正々堂々と戦うという通念からすると、ずるいように思われるかもしれません。ですが、そもそもそういった通念は遥か後世の産物であって、それが古代末期以来の武者たちにも投影されているために、そう感じるに過ぎないでしょう。

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2007年09月11日

武士社会の実戦智〜東国武士の行動様式(4)

前述の与一の悲劇には戦に勝つための別の重要な条件が秘められていました。
その装束にあります。

出陣に際して頼朝が、与一の装束は派手に見えるから着替えよと注意したにもかかわらず、与一は晴の場だから過ぎた事は無いと返事をして、そのまま出かけていったそうです。しかし敵も味方も見分けられない薄暮の戦場で、俣野が与一を見つけて組む事ができたのは、兄の大庭に、与一は白い母衣(ほろ)を懸け裾金物がきらきらしていて馬も白いから、すぐ分かると教わっていたからで、与一の装束は絶好の目印となってしまったわけです。

目立つ装束の持つ不利な点が浮き彫りにされたものといって良いでしょう。

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2007年09月10日

武士社会の実戦智〜東国武士の行動様式(3)

旗揚げした直後の石橋山の合戦で、平家方の先陣だった大庭・俣野兄弟に誰を組ませようかと頼朝が諮問した時、岡崎義実は我が子佐奈田与一を推薦しました。与一は頼朝の命を受けて十五騎の勢を連れて、名誉の先陣として馬を駆って出撃します。与一の乗った馬は白葦毛で太く逞しい黒ハート夕貎という名の東国一の強馬で、もともと三浦介の許にあったのですが気が荒すぎて、与一だけが乗ることのできた馬でした。

ところが与一が途中で一人の部者を討ち取り、その首を取ったとき、黒ハート夕貎は鎧武者の身体が落ちるのに驚いて走りだしてしまいます。与一が轡を引いてもそのまま走り続け、ついには手綱が三つに切れ、仕方なく与一は馬に任せて走っていきました。そのうちに与一は俣野と出会い、組打ちとなって首尾よく俣野を組み敷きますが、馬の暴走の間に郎党と距離が開いてしまい助勢するものがいません。そうこうするうち俣野の加勢が駆けつけ、与一は討たれてしまいました。

この例に見えるように、実戦の場にあっては馬もただ強くあればよいというのではなく、いたずらに強い馬に乗って制御しくれず暴走され、味方から離れて敵中に突入し、援軍の無いままに討たれてしまったという事例は他にもあります。

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2007年09月09日

武士社会の実戦智〜東国武士の行動様式(2)

戦場での東国武士達の行動様式から、彼らが戦に勝つためにはどのような事を経験として重んじていたのでしょう?

先ずは馬の選定でしょう。
騎馬を主な戦闘手段とする坂東武者にとって、良馬を得る事がいかに重要であったかはいまさら指摘するまでもありません。わーい(嬉しい顔)高綱景季宇治川先陣争いも、名馬の獲得が巧名争いに直結する事を示していますが、それだけに戦場での相互のかけひき以前に、すでに良馬の入手を巡って武者たちは鎬をけずっていました。ですが既述している逆櫓の争論の際に、63814梶原景時は船の進退を逆櫓で自由に制御する必要性を説くために、陸地の軍は進退自由の良馬に乗って心のままに駆けたり引かせたりすることが肝要だという喩えを引いていて、その話が示すように、馬は進退自由に扱う事によってはじめてその真価を発揮できるもの・・・つまり、乗り手が自在に扱えないような馬は、いかに名馬でも乗ってはいけないということを言いたかったのでしょうね。

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2007年09月08日

武士社会の実戦智〜東国武士の行動様式(1)

もう一つの軍記物の名場面として、ビール屋島の合戦テニス那須与余一が扇の的を射止めた話です。

詳細はこちら⇒●源義経●〜屋島合戦(12))・●源義経●〜屋島合戦(11)を御参照してください。

ここでは平氏の代表する西国の文化と源氏方の東国文化との差異を観る事も可能でしょう。事実、策略を用いて敵ばかりか味方まで出し抜くという話は、源氏方に多いようです。ですが平氏の方でも台風壇ノ浦の合戦では、通常は主だった人の乗る唐船に軍兵たちを乗せ、平宗盛以下の中心人物は普通の兵船に乗って源氏の目をくらまし、源氏が唐船を攻めるところを取り囲んで討とうという図り事を巡らしているように、謀略を使わなかったわけではないです。
とすると、恐らくここに示されているのは、そうした地域的な特性以上に、敵を討つ、合戦に勝つ、という実利・実益のみをひたすら追求し、戦う者の本然の姿を示している源氏方と、それに徹しきれず、武者・武技の世界でも美意識への欲求を捨てきれない都人化した平氏方の価値観との差異なのでしょう。

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2007年09月07日

武士社会の実戦智〜機知を用いて窮地を脱す(2)

武士道出よく知られた例を挙げてみます。

一つは京都を占領した木曾義仲勢を討つために京都へ向かった東国勢の先陣が台風宇治川をわたる際、わーい(嬉しい顔)佐々木高綱梶原景季が渡河の一番乗りを競った、宇治川の戦いです。

この場面を、明治のとある史家は「いつも関東武士の勇ましかった面影をしのぶ」と賞賛していますが、軍記物の伝える実態は、そのようなものではなかったでしょう。
この話は、渡河に備えてわーい(嬉しい顔)高綱が生喰、景季が磨墨という名馬を、それぞれ頼朝から賜る発端から、わーい(嬉しい顔)高綱景季の先を越して河を渡す結末まで、一貫して二人の間の駆け引きの物語だといった方が良いように思います。

細かい筋は・・・こちら⇒●コーヒータイム●〜宇治川(2)

わーい(嬉しい顔)高綱の行為は、もし当時の武士の道徳的な通念の中に正々堂々と戦うという一条が存在していたら、それに反することになるはずですが、そうした非難は軍記物の中には見たりません。

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2007年09月06日

武士社会の実戦智〜機知を用いて窮地を脱す(1)

久々にレポート以外の記事になります。途中で休止してしまったため何処からはじめたらよいかわからなくなってしまいましたが、何とか中途部分を探し出しました♪区切りよく、次の題目からスタートとなっていました。

幕府の確立と武士社会を参照してください。

では、本題へ・・・。

‘武士道’もしくは‘士道’といった言葉があります。こうした言葉には勇気とか廉潔(れんけつ)とか正々堂々とかの理念がからみついて、特に近代になってから一定の社会的イメージを形成してきました。

そのため中世初期の武士達についても、無意識のうちに、そのイメージを投影して理解しようとする傾向が強かったようです。
ですが、源平争乱などに見える実戦の場での武士の行動様式は、勝つという目的を遂げる事に徹した実践的で合理的な側面が強く、後の時代の武士道観によって理解しようとすると誤りになることが多いです。

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2007年03月01日

『御成敗式目』と幕府訴訟の特質〜武力解決=私闘への歯止め(5)

既述にあげた例のように、幕府はこうした抗争の調停・鎮圧に当たる専門担当者は置かず、
その時々で将軍の命に応じて別々の人間を派遣するといったパターンをとっていました。
もちろん誰でもよいというわけでなく、本来、御家人の統制にあたるべき役職である侍別当の63723和田義盛63814梶原景時を始め、63732畠山重忠・三浦義村・北条時房ら幕府の重鎮とされた人々がそれに当たったことは当然ですが、問題はそうした人々でさえ、一族・一党という集団の利害から独立して行動することが難しかったというで点でしょう。これには各人の個性の差もあって、63723和田義盛のように常に和田あるいは三浦一族を中心に考えて行動する人間と、相対的に集団に拘束されず自由に行動する63814梶原景時のような人物とでは、必ずしも同列に論じられない面もありますが、一般論でいえば自己の属する集団優先と言う傾向は無視できません。

それゆえに、派遣する将軍の側も対立している集団の組み合わせに応じて、その時々で適切と考えられる人物、つまりどちらが側にも縁がなく同時に怨恨関係のない人物を選ばなければ成りません。

以上で、式目と初期の幕府法制の要点は述べましたが、式目や法制度に示されている武家法の思想史上の画期性は、その実用重視・合理性にあると言えるでしょう。それは泰時の手紙にも現れているような律令・公家法の煩瑣に対する不信の念にも通じるものですが、さらに、その実用性・合理性の淵源をたどれば、戦場の場で培われた武士社会の特性にまで行き着くことになります。

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2007年02月26日

『御成敗式目』と幕府訴訟の特質〜武力解決=私闘への歯止め(2)

前述の例を頼朝の時代を取ってみれば、1193(建久4)年2月、武蔵国の丹党と児玉党の間に確執があって合戦になろうとしているという話が聞こえてきたので、63732畠山重忠に彼らを鎮めるよう命じたという事件があったそうです。

あるいはその2年後の正月、藤原季光と中条家長が喧嘩をして、合戦になろうとしていると言うので、双方の縁者たちが馳せ集まったため、頼朝63723和田義盛を遣わしてとめさせたとも言います。
その後、家長は八田知家の養子なので知家に命じて出仕を止め、季光は幕府に召して、御家人たちに対して戦を行い命を失おうとするのは甚だ穏便ではないと、頼朝が直接に戒めの言葉を与えたそうです。


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2007年02月25日

『御成敗式目』と幕府訴訟の特質〜武力解決=私闘への歯止め(1)

式目のような法規範を必要とした社会的背景として、その他に重視されるべきことは、当時の御家人ら武士社会に根強い、実力によって紛争を解決しようという志向への対応です。

一般に個人同士または集団同士の争いの解決が、文字に表現されているにせよいないにせよ、何らかの非武力的な規則によって行われるという慣習が形成されるまでは、どの社会でもかなりの時間を要します。
しかも安定した社会であれば、そうした慣習が継続的に一定の力を持つことができますが、動乱などによって社会関係の変動が起きれば、改めて慣習が根付くまで時間がかかるでしょう。治承・寿永の争乱期を経た鎌倉時代の武士社会は、まさにそのような慣習的解決が力を失った社会でありました。しかも武士という、もともと武力行使を専業とする人々の集団だけに、互いに何か問題が起これば私闘に走る傾向は顕著で、記録に残っているだけでもそうした事件がいくつもあるようです。

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2007年02月24日

『御成敗式目』と幕府訴訟の特質〜土地所有を媒介として人間関係(6)

さらに幕府法の上で、所領関係の裁判だる所務沙汰と金銭貸借に関わる係争事件である雑務沙汰とが分かれるのは13世紀中葉より少し前だと推測されますが、このことは雑務沙汰に属するような事件の増大を意味するものではあっても、前述した幕府の態度の根本が変化したというわけではなさそうです。


これは幕府が、京畿内に比べれば金融・商業活動の展開が相対的に遅れた東国に基礎をおいていたことが一つの理由ではあるでしょう。ですが見過ごせないのは、そうした理由以外に幕府法の背後に、金融・商業活動に対する蔑視ともいえるような価値観が働いていたことでしょう。雑務の「雑」と言う言葉そのものに、こうした価値観は現れています。それはやがて江戸幕府にもつながるような武士社会の一つのエトスとも関連するものだったと言えます。


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2007年02月23日

『御成敗式目』と幕府訴訟の特質〜土地所有を媒介として人間関係(5)

ところが商品経済の展開につれて貸借から本来の恩恵的側面が後退し、貸す方は営利のため、借りる方も営農のためではないという、新たな関係が生じてきた結果、高利によって返済できずに所領を手放す御家人たちが現れ、幕府の基盤を揺るがすようになり、その延長線上やがて御家人の所領を確保するために徳政令が発布されることになります。


そして幕府が金銭貸借に関心を持ったのは、あくまでも金銭貸借の結果としての所領の帰属が左右されるような事態が生じてからのことであって、営利的な金銭貸借について幕府が積極的な関心を示したということではないと言えます。


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2007年02月22日

『御成敗式目』と幕府訴訟の特質〜土地所有を媒介として人間関係(4)

また、金利についての観念もまた、先述したスポーツ出挙のそれを継承しているようです。

スポーツ出挙の金利というのは細かく言えば多少の違いがありますが、最大で元本の一倍まで、期間としては一年というのが限度で、仮に期間が長くなってもそれに比例して金利が増える事はないようです。現代的感覚では理解できないかもしれませんが、要するに貸借期間に応じて利息が変動するという期間利子計算の観念が欠如しているわけです。

ですが、その理由は計算能力の問題ではなく、本来、貸借というのは困ったときの恩恵的なものであり、営利のためのものではないという、スポーツ出挙の根底にある共同体的相互扶助の考え方から発するものでした。


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2007年02月21日

『御成敗式目』と幕府訴訟の特質〜土地所有を媒介として人間関係(3)

もともと幕府法の中で想定されていた貸借関係は、律令国家のスポーツ出挙(すいこ)のような特殊な貸借であって、中世社会の新しい事態に対応したものではありませんでした。スポーツ出挙というのは後に貢納の一種もしくは営利的な貸借という形で律令国家の収奪の一部となりましたが、本来は天災などによる営農の困難を救うための種籾(たねもみ)など営農科の貸出であって、当初の理念は恩恵的・福祉的な貸借でした。

この基本理念は幕府法でも式目を挟んだ前後に発布された、追加法二十条・五十五条の二つの法律におけるスポーツ出挙の規定によって継承されています。


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2007年01月27日

『御成敗式目』と幕府訴訟の特質〜土地所有を媒介として人間関係(2)

以上のように式目に土地関係の規定が多いことは、律令では土地の帰属を巡っての争訟が本来想定されていなかったことによるし、そこにまた式目が必要とされざるを得なかった一つの理由でもありましょう。
そして、その根本は何よりもまず鎌倉幕府が農業生産のための土地所有を媒介にして、人間関係を編成する政権であったことによります。

ただし式目段階では土地関連法規といっても、譲与・相続・宛行・没収などによる土地の移動や、収穫物に対する実力による抑留・押領などが対象で、金銭的もしくは商業的な土地取引に関する法は、将軍から何かの勲功に対して与えられた恩領地の売買を禁じた四十八条のみです。まして土地取引以外の一般的な金融・商業活動に関する法は皆無で、金銭貸借や売買に伴う所領移動が問題となるのは、十三世紀の中葉のこととなります。

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2007年01月26日

『御成敗式目』と幕府訴訟の特質〜土地所有を媒介として人間関係(1)

前述で挙げたいくつかの条文に示されているように、人間相互の関係についての規範が、いずれも土地を譲り譲られる関係に表現されている点、つまり人間関係が土地を媒介にして現れていることは、式目のみならず追加法を含めた幕府法一般の特徴です。

式目五十一カ条のうち、承久の乱の戦後処理を含め、何らかの形で土地もしくはそこからあがる収穫物の帰属の問題に触れている法文は、控えめに数えても二十二条(四・五・六・七・八・十六・十八・十九・二十・二十一・二十二・二十四・二十五・二十六・二十七・三十六・三十八・四十三・四十四・四十六・四十七・四十八)、刑事事件の罰則としての所領没収まで含めると、さらに増えます。


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2007年01月25日

『御成敗式目』と幕府訴訟の特質〜式目五十一カ条の価値観(6)

以上のように既述した道徳的価値の中でも、幕府に奉公を励んだ兄が、にもかかわらず親から嫡子として扱われず所領を配分されなかった場合に、幕府は兄に嫡子の分の五分の一を割いて与えることしかできないという二十二条の規定に示されるように、主従という幕府にとっての根源的な人間関係よりも、親子あるいは夫婦という私的な関係の法が優先することも式目の一つの特徴です。

この点が時代の人間によっても式目の特徴として意識されていたことは、このころの文書に「かつは五十一カ条(式目を指す)にも、所領は親の心に任すべき由見得て候」という文言があることからも裏付けられましょう。


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2007年01月22日

『御成敗式目』と幕府訴訟の特質〜式目五十一カ条の価値観(5)

先に挙げた諸規定に共通するのは、主従・親子・夫婦という人間関係の具体的なあり方に従って、法の規定が変わるということです。それはまた式目の中心的な価値観に沿うものでもありました。

先述の泰時の手紙に「詮ずるところ、従者主に忠を致し、子親に考あり、妻は夫に従」うものだと記してましたが、ここに表明されている主従・親子・夫婦という人間関係を律する基本的な規範がとりもなおさず式目の中心的な価値観であって、この価値観に沿って「人の心のまがれるをば捨て、直しきをば賞して、自ずから土民安堵の計り事」となるように定められたのが式目だったと言えるでしょう。


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2007年01月21日

『御成敗式目』と幕府訴訟の特質〜式目五十一カ条の価値観(4)

さらに従来の公家法と背馳することによって、式目の特徴を表す条文もあります。

例えば主従関係について記した十九条では、誰かに忠勤を励んで所領をもらった人間が、その主人の子孫に違背した場合には、その子孫が取り戻すことができるという点で、他人に譲ったものは取り戻せないという公家法の規定とは異なります。
この条文と同じことは、女子に譲り与えた所領を、その娘が親に反抗した場合は親が取り戻せるとした十八条、父母に先立って死んだ子供に与えた所領は親が取り戻せるという二十条、子息へ譲った所領は親が任意に取り戻せるという二十六条などの、親子関係に関する諸法にも該当します。

また夫婦関係についての、重科があって離別された妻は前夫から譲られた所領を知行できない(二十一条)とか、亡夫の所領を譲られた後家が再婚した場合には、その所領を亡夫の子息に与える(二十四条)といった規定も同じです。


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2007年01月20日

『御成敗式目』と幕府訴訟の特質〜式目五十一カ条の価値観(3)

まず最初は、治承・寿永の争乱承久の乱とを経て、東国はいうまでもなく場合によっては西国にまで及ぶ行政権を行使するようになった幕府の地位を反映する、いわば行政主体としての統制や治安維持を意図した条文です。


これに該当するものとして、寺社の修理と祭祀・仏事の励行(一・二条)、守護人の職務・権限(三・四条)、地頭の非法禁止(五条)、謀叛人の扱い(九条)、盗賊・悪党を匿う罪科(三二条)、強盗・窃盗・放火人の罪科(三十三条)、惣地頭の非法(三十八条)、百姓への領主の非法(四十二条)、他人の所領の押領(四十三条)などの条文が挙げられます。


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2007年01月19日

『御成敗式目』と幕府訴訟の特質〜式目五十一カ条の価値観(2)

そもそも承久の乱の戦後処理という限定的な
目的に関する法まで含んで五十一条という条数では、広範な争訟事件すべてに対応するような立法など無理であって、当初から網羅的・体系的な法典というより、当面する問題への最低限の実際的な原則としての性格が強かったと考えた方が良いでしょう。


ですが式目が当面する課題を解決する実効力のある規範として制定された事は、逆にその条文の中に、当時の社会が直面していた問題性のいくつかが直接的に反映される要因となったのも事実です。そうした問題性を逐次検討してみようかと思います。


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2007年01月18日

『御成敗式目』と幕府訴訟の特質〜式目五十一カ条の価値観(1)

式目本文の具体的な内容は、どのようなものだったのでしょうか。

実は編纂された式目が果たして公布当初から五十一カ条であったかどうか、またはその内容・編目が原形通りに伝えられているかについては、不明確な部分が残されています。

さらにそうした問題を措いても、式目本文を分類しようとすると、実施には配列の順序を含めて編纂の意図がよく分からない点が多く、分類するのは非常に難しいようです。


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2007年01月17日

『御成敗式目』と幕府訴訟の特質〜簡素な武家法(5)

幕府初期の法制における、簡素性を示す一つの事例を挙げてみます。

完成された段階での幕府法では三問三答といって、原告(訴人)と被告(論人)による、それぞれ三回ずつの訴訟書面の提出があって、その後に幕府法廷での奉行人による審理に入る事になっています。
ところが、初期にあっては必ずしも、判決という形で決着が付かなくても、原告が訴えたことに対して被告の側がとりわけ反論しなければ、一回の幕府側の質問書(問状)が判決の代わりをするという形が見られたのでした。

この際の問状に付されている「事実(コトジチ)ならば」という文言は、事態が訴人の主張するとおりならば、訴人の要求するところに論人は従えという合意のある文言であり、これに対して論人が反論しなければ審理は実質的にすんだことになります。


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2007年01月16日

『御成敗式目』と幕府訴訟の特質〜簡素な武家法(4)

評定衆の設置式目の制定とは、幕府初期の不安定な法制度が、特定人格に依存する部分を減少させ、安定的なそれへの第一歩を印したものだと言うことができます。

しかし、それ以後も武士の法制は古代国家の律令のような網羅的な法典の編纂や、体系的な法曹制度の展開については緩やかで、形式的な整合性や手続き上の厳密性にこだわらない傾向が強いです。


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2007年01月15日

『御成敗式目』と幕府訴訟の特質〜簡素な武家法(3)

頼朝の死の直後、1199(建久10)年4月1日に、問注所が将軍御所の郭外に独立して設けられたことは、裁許が将軍個人の手から離れたことを誰にも見える形で示す第一歩であって、同じく12日に訴論について頼家の直断が停止されたことも同様な意味を持っていました。

頼家に比べると政治家としての力量では遥かに優れていた実朝の時代には、こうした法制の非人格化の動きもしばらく休止します。

ですが実朝の暗殺後、ー(長音記号2)政子の中継ぎを経て、その後に来るのが名目的でしかも幼少の頼経となれば、再びいやでもこの課題が浮上せざるを得えないでしょう。式目はこの状況に対する解答であった・・・とも言えます。

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2007年01月14日

『御成敗式目』と幕府訴訟の特質〜簡素な武家法(2)

個別・臨時的であったり、原則の明確でないような裁決は、結局は裁決する人間つまり将軍の個別的能力に依存するところが大きく頼朝のように卓越な指導者がいる場合には、非常に的確な対応が行われる反面、もし指導者に力量がなければ恣意的な裁量に陥り、結果として権力への不信を生む原因となります。

従ってこうした法則から普遍的・非人格的な法制への転換は、鎌倉幕府にとっての一つの課題でした。


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2007年01月13日

『御成敗式目』と幕府訴訟の特質〜簡素な武家法(1)

頼朝から実朝まで源家三代将軍から紛争に当たって下した裁決は、『吾妻鏡』や個々の文章に記されている以外に、その当時、法規範という形で成文化されていたわけではないようです。このことは法理的にも手続的にも、紛争事例に応じて一回ごとに個別・臨時の裁決が下された事を意味します。

頼朝の裁許は京都朝廷と管掌の問題で抵触しない限りは、ほとんど即決に近い形で行われていたと推測されます。例えば、鹿島社の神主中臣親広と下河辺政義とが常陸国橘郷を巡って争った事件について、1185(文治元)年8月に「御前に召され一決を遂ぐ」とありますし、それより一年半ほど後に、夜須行宗と猫梶原景時台風壇ノ浦合戦の行賞について争った時も、頼朝は両者を両前に呼んで直断しています。

しかも、そうした場合頼朝の態度は必ずしも一貫した原則にこだわるものではないようです。1193(建久4)年に大江行義の娘が美作(みまさか)の所領を梶原朝景に押領されたと訴えた事件で頼朝が朝朝景に尋ねたところでは、むしろ朝景のほうに分があると思われましたが、朝景は困窮するわけでもないので「理を忘れて」所領を譲るようにと説得して、朝景がこれに服したという話が伝わっています。

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2007年01月12日

泰時の襲職〜評定衆の設置(5)

幕府裁判で奉行人たちの公平への志向が、政治的状況を離れて、どの程度貫徹できたかを測る指標があるわけではないですが、「非勘」、つまり誤った裁決を行ったという理由で処分を受けた事例があることは、裁判の厳正さについて幕府がかなり配慮していたことの証左とはなるでしょう。

その一例として1241(仁治2)年5月、問注奉行を務めていた大江以康(もちやす)が、紀伊五郎兵衛入道寂西と同七左衛門尉重綱とが陸奥国小田保追入・若木両村を巡って争った裁判の折に、裁決を誤ったとして所領一ヶ所を没収するという処分を受けているようです。

この裁判の詳しい内容はわかりませんが、訴訟の裁決が裁決する人間にとっても緊張を強いられるだけの厳正さを要求されていた事は認められるでしょう。

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2007年01月11日

泰時の襲職〜評定衆の設置(5)

式目の最後には、幕府の裁判を担当する奉行人たちが連名で、1理非の判断については親疎・好悪を交えない、#63880;道理であると自分が思う事を、奉行人仲間を憚ったり権勢者を恐れたりせずに申し立てる、3判決が下された事件に関しては、すべて判決に携わった奉行人たちの連携責任で
ある、など裁判に臨む態度を神仏に誓約しています。


ここの署名人は、先にあげた評定衆十一名に泰時・時房を加えた十三名でした。かつて石母田正氏が評価したように、この一文は裁決を下す人びとの集団としての責任感と倫理観とを示す、高い精神性を持った文章です。


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2007年01月10日

泰時の襲職〜評定衆の設置(4)

「物も知らぬ夷戎どもが書き集めた」などと貴族達に嘲笑されるのを当然のこととして予想しながら、にもかかわらず、この書状に見える泰時の態度は決して卑屈なものではないです。


むしろ「ただ道理のおすところ」を記したという点に泰時の本意があると見れば、そこには非現実的で無力な公家法対して、新たな法である武家法の優位を、ほとんど誇るかのような自信が窺えます。

鎌倉初期の段階では、東国人の心情を文章に表現した文学作品などは極めて少ないです。そういう意味では式目と、それに付随する泰時の手紙とは、「夷戎」であることを自認した東国人の自己表現の貴重な例として挙げられると思います。

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2007年01月09日

泰時の襲職〜評定衆の設置(3)

前述の手紙の要点は、次のようになります。

1訴訟の場で、当事者の地位の上下や権力の強弱によって、同じような係争点の訴訟であるにもかかわらず判決が異なる事の無いように、あらかじめ式目を設けておく。

2この式目によって文字を知らない人々でも、あらかじめ考えることができ、判決もやたらに変わったりすることがない。

3本来なら律令格式などの公家法によって、裁判が行われるべきでしょうが、地方の人間は公家法について知っているものは極めてまれで、重罪である盗みや夜討などを企てて一身を損なう人びとも多い、法律の存在を知らずに罪を犯した人間が、事後に公家法に照らして裁判されるというのは、知らずに落とし穴に落ちるようなものだ、そうした事情に配慮して頼朝も代々の将軍も、公家法に準拠して裁判したりはしなかった、式目を制定すると、京都などでは物を知らぬ夷がかき集めたものだといって、笑う人びともいるだろうが、あらかじめ定めておかなければ従う事もできないのだから、このように制定したのである、

4式目を関東御家人・守護所・地頭には皆見せて、心得させるように、

5式目にもれたことは、追って記し加える、

6式目の内容は特定の法典に準拠するものではなく、道理のおすところを記したものである、また武家の人々の計らいのためだけのもので、これによって京都朝廷の決定や律令の規定がいささかも変更されるものではない。

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2007年01月07日

泰時の襲職〜評定衆の設置(2)

評定衆設置から七年目の1232(貞永元)年8月、式目五十一ヶ条が公布されました。この式目とそれ以外の単行法とによって幕府法の全体が構成されることになりますが、式目以外の単行法を式目より以前に発布されたものも含めてすべて追加法と呼んでいます。

編纂した式目泰時が、当時、六波羅探題として京都にいた弟の重時に送った際の手紙が残されているそうで、そこには泰時式目を編纂するに当たって、どのような心構えで臨んだかが記されているそうです。

手紙は1232年の8月8日付と9月11日付の二通がありますが、内容的には大差はないようです。

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2007年01月06日

泰時の襲職〜評定衆の設置(1)

泰時の治世の初めの出来事として特筆すべきことに、まず1225年末に行われた評定衆の設置があります。

政務に熟練した人びとや御家人中の長老格の人びとから評定衆と称する役職者が任命され、彼らが合議によって幕政運営や御家人の訴訟審理に当たるという制度です。
当初、評定衆に任命されたのは、中原師員・三浦義村・二階堂行村・中条家長・町野康俊・二階堂行盛・矢野倫重・後藤基綱・太田康連・佐藤業時・斎藤長定の11名でした。

この評定衆設置の時から、幕府の訴訟処理に政治権力者から一定の距離を置いた客観性への歩みが始まり、やがて『御成敗式目』となって結実するような訴訟経験の蓄積も行われるようになったと考えていいでしょう。


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2006年12月30日

泰時の襲職〜頼朝期待の人(10)

将軍もまた、承久年中に京都から将軍職予定者として63904鎌倉に来ていた頼経が、1226年正月、右近衛少将に任じられて征夷大将軍を継ぎ、正五位下の位を与えられました。


頼経は前年の12月に元服したばかりで、まだ九歳でしたが、実験者ー(長音記号2)政子の死に当たって幕政の基本を再確認する意味で、将軍職を空位にしておくことは許されなかったのでしょう。



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2006年12月29日

泰時の襲職〜頼朝期待の人(9)

執権が義時から泰時へと交代したことが一つの時代の終わりを象徴するように、この時期は幕府開創当時の人びとが、ようやくその姿を消そうとしていた時です。

義時の死の翌年、1225(嘉禄元)年6月10日には覚阿が、そして7月11日にはー(長音記号2)政子が相次いで世を去りました。義時の代わりに泰時という優れた後継者を得た事が、ー(長音記号2)政子の安心に繋がったものだったのでしょうか・・・。覚阿78歳、ー(長音記号2)政子69歳と伝えられています。


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2006年12月28日

泰時の襲職〜頼朝期待の人(8)

一方、ー(長音記号2)政子は深夜1人で三浦義村を訪れ、義村の異論を封じた上で、泰時の襲職を公表。
こうした経過をたどって、泰時義時の後継者となったわけです。

そして執権となった泰時は、実雅や伊賀氏の処断は行いましたが、遺産の配分では弟妹らに厚くし、弟の政村にも寛容に対するなど、一族の融和に努めました。


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2006年12月27日

泰時の襲職〜頼朝期待の人(7)

ですが、一歩間違えれば重大な幕府の危機となったかもしれない事態を収拾したのは、泰時の伯母であって、泰時を高く評価していたー(長音記号2)政子でした。

6月28日、泰時63904鎌倉に着いて初めてー(長音記号2)政子のもとへ参りましたが、その折、ー(長音記号2)政子泰時に時房とともに将軍を後見して執権を務めるように命じました。泰時は時期尚早ではないかと入道覚阿63899大江広元)に相談しましたが、覚阿も人びとが不安がっている際だから、早く決定すべきだという意見でした。


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2006年12月26日

泰時の襲職〜頼朝期待の人(6)

1218(建保6)年に御家人統制に当たる要職である侍別当となって、義時の後継者としての地位を保証されたかに見えた泰時ですが、1224年に義時が死んだ後の泰時への執権職交代は、それほど円滑に行われたわけではないようです。

京都にあった泰時が、義時の急を聞いて鎌倉に戻ったのは6月27日、義時の死後すでに二週間ほどが経過していました。

その頃、義時の後妻である伊賀氏が弟の政所執事伊賀光宗らと図って、娘婿の一条実雅を将軍に、また実子の政村を執権にしようと、かねてから謀議をめぐらしていました。中でも政村の烏帽子親であった三浦義村が、その仲間に誘われたことは、三浦氏が幕府草創以来の有力豪族であったことから大きな意味を持っていました。それに対して泰時が政村らを討つために京都から帰ってくるという噂も飛び、政村の周辺は騒然としていたようです。

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2006年12月25日

泰時の襲職〜頼朝期待の人(5)

以上の話から伝わってくるのは、謹厳実直でおごることなく謙虚な泰時の人柄です。

吾妻鏡』ばかりでなく、それ以外の史料類に当たってみても、こうした泰時の人物像を否定するような材料は見当たらないので、これが泰時の実像であったとして誤りではないでしょう。

そしてまた、このような人物であったが故に、泰時は幕府を安定した組織に作り上げるのに適材だったということもできるかおしれません。


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2006年12月24日

泰時の襲職〜頼朝期待の人(4)

他方、泰時の側も頼朝に対する敬慕の念は深く、頼朝の死後、その菩提を弔う法華堂に詣でても堂上に上がらず、勧められると、生前も対等な場には上がらなかったものを、まして没後になってそのようなことはできないと辞退したそうです。

あるいは将軍頼経に随伴して京都へ赴いた際、坊門忠信が面会したいと連絡してきたのを、泰時は風邪気味だといって断わりました、これは承久の乱の時に忠信が後鳥羽方に属して罪科に処されそうになったのを、泰時がとりなしたために許されたことに対して、忠信がこの機会にお礼しようというつもりで連絡してきたのを、泰時は予想していて、あえて断わったのでしょう。


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2006年12月22日

泰時の襲職〜頼朝期待の人(3)

前述の『吾妻鏡』の例を見てみます。

泰時がまだ金剛という幼名で呼ばれていた十歳の時、遊んでいた彼の脇を多賀重行という御家人が馬で通りかかりましたが、子供だと思って馬鹿にしたのか、下馬の礼を取らずに乗り過ごしました。
ところが、それを聞いた頼朝は腹を立て、礼は相手の老若ではなく地位によるのであり、金剛は重行などと同輩に扱われるべき存在ではないと叱責したそうです。


慌てた重行はそのような事実はないと陳弁し、泰時も重行を擁護しましたが、頼朝かえって重行の不正直な態度に厳罰を与える一方、他人の非をかばう泰時の態度に感心して、年来所持していた刀を与えたといわれています。

この話の真偽は別として、泰時の元服の際にはみずから烏帽子親となり、泰時の最初の名は頼朝の名の一字を受けて頼時とつけられたほどです。その後何時の頃か、頼時は泰時と改名しましたが、頼朝の死後一年ほどは頼時を称していたことが記録に残っています。

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2006年12月21日

泰時の襲職〜頼朝期待の人(2)

義時の後を継いで執権となり、鎌倉幕府を主導するのが義時の嫡子泰時です。この時、泰時は数えで42歳。泰時の母は「阿波局」という名前が伝わってはいますが、詳しい事は何も分からないです。あるいは早く亡くなったものなのか・・・。


吾妻鏡』には泰時がいかに優れた人物あったかを語る挿話がいくつかります。もちろんそれらは潤色の可能性も高く、すべてをそのまま真実とするのはためらわれますが、人物の一端を知る材料としては役に立ちます。


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2006年12月20日

泰時の襲職〜頼朝期待の人

1224(貞応3=元仁元)年6月13日、執権北条義時はすでに病の重い事を知り、将軍頼経の許を得て出家の後、巳刻ごろ世を去りました。歳62。以前より脚気だったところへ、胃腸病が重なったもののようです。

もっとも承久の乱の中心人物だった尊長が捕らえられて六波羅に運ばれた時、早く首を切れ、さもなければ義時の妻が義時に与えた毒薬を自分にもよこせと叫んだと言いますから、義時が妻によって毒殺されたという噂も飛んだらしいです。数日後、京都にも義時が死んだことが伝わりました。


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