「義経」第12回「驕る平家」で、
平重盛が亡くなります。
平重盛(NHKでは勝村政信が役)・・・
清盛の長男で母は右近将監高階基章の娘。小松谷に邸があったことから「小松宰相」「小松殿」と言われ、内大臣になってからは「小松内府」とも呼ばれました。又、1177年(治承元年)の
鹿ケ谷事件後、滅罪生善の志により東山の麓に四十八間の精舎をたてて一間に一つずつ灯龍をかけ毎月十四〜十五日の両日に火を点じて祈りをささげた所から「灯龍大臣」とも呼ばれました。
重盛は、父・
清盛の自慢の息子ですが、その性格は極めて誠実・温厚だったと言われています。武勇においても、
平治の乱で
悪源太義平と騎馬戦を繰り広げた話は有名です。
鹿ケ谷事件では父・
清盛を諌めて法皇幽閉をとめさせたこともあります(TVでは自分自ら法皇処罰を提案していました)が、
殿下乗合事件では執拗に子の恥をそぐために関白・
藤原基房に仕返しをはかっておりこの所業が唯一の疵(きず)といえます。
1179年(治承3)七月二十九日没。享年・41歳(42歳説もあり)。彼の早世は平氏の将来に暗い影を落とすことに・・・。
殿下乗合事件・・・1170年(嘉応2)、法勝寺へ参る途中の摂政・
藤原基房の行列と遠乗り帰りの
平維盛・資盛の一行が路上でかち合いました。この場合、下級者は乗り物から降りて上級者に挨拶をするのが礼儀でしたが、
資盛達は降りなかったので
基房の家来達はその無礼を咎め、
資盛の車をこわすなどして恥辱を与えました。帰邸して
基房は相手が
重盛の子と知って下手人を引き渡して
重盛に詫びましたが
重盛はその者たちを許そうとせずかえって仕返しをはかりました。この報復は、世間では平氏の横暴さきわまりと噂され『平家物語』では「平家の悪行のはじまり」となってうたわれています。

ちなみに同年・1179年(治承3)には、
清盛の三女
盛子も24歳の若さで薄幸の一生を終えました。1164年(長寛2)にわずか9歳で関白・
藤原基実と結婚(政略的な要素が濃い)。ところが、二年後、夫が急死しその遺領を相続しましたが藤原氏の非難を大きくあびたことが亡くなった根本原因だとされています。
平重盛<矢先稲荷神社蔵>さんより