2008年02月15日

そして次なる時へ・・・・・

以上で一区切りがつきました。

次からは、大見出しとして「ちっ(怒った顔)蒙古来襲」や「メモ徳政令」に関した記事を考えています。

その前に・・・

ここで区切りができましたのでまた、鎌倉の神社やお寺の紹介をしていこうかと思います。
今度はちょっとマニアックな・・というか小さいお寺とか神社とかをどうかなぁ〜と♪

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2008年02月14日

北条氏と怨霊〜続く短命、怨霊へのおびえ(7)

以上述べてきたように北条氏による怨霊慰撫の施策は、古代末期の崇徳や藤原頼長の怨霊に対するそれと変わるところはないようです。

でも、古代末期までの怨霊に比べると、鎌倉期の怨霊には疫病・戦乱・飢饉と言った大規模な社会的影響を行使するというより、直接の政治的な敵対者に対して仇をなすという、言ってみれば個人的な復讐の色合いが強くなっています。
このことは社会の激動期を過ぎたという時代性とともに、人々の信仰一般が古代社会のものよりも個人的性格を強めたと言う、宗教的な心の変化が影響しているものと考えられるかと思います。

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2008年02月13日

北条氏と怨霊〜続く短命、怨霊へのおびえ(6)

少し飛んで1252年正月、長厳の霊が13歳になる少女に憑き、自分は後鳥羽の使として以前から関東に来て時頼亭に住んでいたが、隆弁法印が転経をおこなったために追い出されたので、今は京都に帰って後鳥羽の御所に報告し、来年、再びやってくるだろうと託宣を行ったそうです。この託宣を受けたためなのかもしれませんが、2月12日には関東安全の祈りとして、時頼亭で如意輪法が行われました。

そして1254年(建長6)年4月に、時頼の男子両名の名字を寺号とした聖福寺鎮守の神殿が上棟されましたが、「本吾妻鏡」はこの寺の創建について、幕府の長久に続くとことと、また特に時頼の息子2人の息災延命とを祈願して建てられたと記していて、寺の建立されたのが鎌倉の守護神である鎌倉権五郎景政と縁の深い相模国大庭御厨の内であって、御霊信仰と関係のある鶴岡若宮の別当僧上が大勧進となっている点から考えても、怨霊慰撫の一環である事は間違いないでしょう。
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2008年02月12日

北条氏と怨霊〜続く短命、怨霊へのおびえ(5)

さらに、1248年の12月には、神社仏寺領に関して、地頭が先例にない行為を行う事を禁止し、規定通り厳密に職務を遂行する事と、伊勢神宮以下の主な神領の荘官からの上申書は、到着するにしたがって上達するよう決定されているようですが、これも単に一般的な神仏の尊重ではなく、その直後に時頼亭で行われた怪異を祓うための信読大般若経(しんどくだいはんにゃきょう)と関連した一連の怨霊対策と考えてもいいでしょう。


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2008年02月09日

北条氏と怨霊〜続く短命、怨霊へのおびえ(4)

翌年の1248年2月には、既述した永福寺の堂修理が行われました。

頼朝によって1189(文治5)年に創建されて後、60年を経て堂舎は雨露に侵されて痛んでいて、1244年に小修理が行われたようですが、その後はなおざりになっていたようです。ところが1249年が創建の年と同じ己酉(つちのととり)の年に当たる上、時頼永福寺を再興するようにという夢のお告げを蒙ったこともあって思い立ったものだそうです。

60年も大きな修理をせずにいたということは相当に痛んでいたんではないでしょうかね。

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2008年02月08日

北条氏と怨霊〜続く短命、怨霊へのおびえ(3)

泰時の死後、数年を経た1245〜47年のころから、北条氏による怨霊鎮撫の措置が目立つようになります。
このころひらめき鎌倉中では喧嘩闘靜が頻繁で、さらに経時の妻の死、経時の死と続いた上、将軍正室となった檜皮姫も病床にありました。この病気は「本吾妻鏡」には単に「御不例(ごふれい)」とだけあって、どんな病気かははっきりしていません。ですがこれもまた北条一族にとって、怨霊など超自然的な力による北条氏の企てへの妨害と取られたことは想像に難くないです。檜皮姫が発病して以来、その平復を祈って様々な修法が行われたそうですが、1246年に名越光時の陰謀と言う大事件が起きるに及んで、後鳥羽の怨念によるものだというので、1247年4月、鶴岡八幡宮の北西山麓に揺れるハート今宮を創建して後鳥羽・順徳後鳥羽の護持僧長厳を祀り、上野片山荘を神領に宛てました。

これが今に残る鶴岡新宮の創建です。

ですが、それらの努力も甲斐なく、1247年5月13日、姫は18歳という若さで亡くなりました。

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2008年02月07日

北条氏と怨霊〜続く短命、怨霊へのおびえ(2)

時頼の幼名が戒寿、そしてその子が宝寿(時輔)・正寿(時宗)・福寿(宗政)さらに幸寿(貞時)・成寿(高時)・万寿(邦時)・全寿または亀寿(時行)・菊寿(或いは兼寿、泰家の子)・金寿(泰家の子)・松寿(友時)と、時頼以降の北条氏の男子に、宝・福・松などの縁起の良い文字と、「寿」との組み合わせでできた幼名が特徴的なのは、怨念に怯えつつ子供達の長寿を祈る心意が、そこのこめられていると見ることができます。


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2008年02月06日

北条氏と怨霊〜続く短命、怨霊へのおびえ(1)

その死について怨霊の祟りが云々されたといっても、時房は66歳、義村にしても60歳を超えていたことは間違いないでしょうから、とりわけ祟りによる短命という見方は無理のように見えます。同様に泰時にしても60歳と言われていますから、これも同様です。

ですが泰時以後、彼の子孫の男系をたどって、自然死を遂げた人々の没年を調べてみる、当時の衛生事情を考慮に入れても、すごく短命の感が強くて、祟りと言われても納得できそうな気もします。
時氏28歳、経時23歳、時頼37歳、宗政29歳、宗頼20代前半?、時宗34歳、貞時41歳、兼時32歳・・・となっています。

これらに女性の中で北条氏にとって政治的に特に重要な意味を持った二人の女性、竹御所と檜皮姫の没年齢、32歳と18歳を併せて考えれば、何らかの北条氏の意図を妨害する超自然的な力の介在を感じても無理はないでしょう。

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2008年02月05日

北条氏と怨霊〜後鳥羽の置文(3)

仏道のために積んだ善根の力を逆に魔道のために用いるという考えは、すでに崇徳にまつわる伝説の中に見られたようです。つまり帰京を切望しながら讃岐の配所で没した崇徳が、血をもって五部の大乗経を書写し、その経の奥に、この写経は理世後生のためではなく天下を滅亡させるためだと書き付けたという話で、大略同様な話が「本源平盛衰記」や「本平家物語」延慶本・長門本などの軍記物、さらには「本古記」にも載せられていたりします。

そして崇徳の怨霊の供養にもっとも熱心だった満月後白河が、後鳥羽にそれについて教えていたということは、後鳥羽の発想が崇徳の先蹤を追うものだったことを物語っています。

本明月記」によれば1235年の春頃に、配流された三上皇のうち、すでに没した土御門を除く後鳥羽・順徳について道家・教実から還京の話が持ち上がったそうですが、家人がそろって賛成しないという泰時の書状によってえなく潰えたらしいです。とすると後鳥羽のこの置文は、すでに還京の望みの絶えた後鳥羽の怨念を示すものであって、崇徳になぞられて考えるのが、いかにもふさわしい・・・かと思えます。

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2008年02月03日

北条氏と怨霊〜後鳥羽の置文(2)

以下・・・後鳥羽の置文の一部です。

自分は法華経の導きで生死の境界を出ようとするものである。しかし、百千に一でも、この世の妄念に引かれて魔縁(魔物)となることがあれば、この世のために災いをなすことがあるだろう。もし千万に一つでも我が子孫が世を取ることがあれば、それはすべて我が力だと思うように。
それはわが身にある善根功徳をすべて悪道に回向(えこう)してこそ、それほど難しいことをなすことができるからだが、そえによって自分の身に留まる善根はなくなって、自分はいよいよ悪道に深くはまってしまう。だから我が子孫が世を治めるようになったなら、神事仏事ではなく我が菩提をひたすら弔うことこそ、何にもました祈りである。このことは後白河法皇が自分におっしゃったことだけれど、深く考えることもしなかった。だから我が力をもって世を治めるようになった天皇が、我が菩提を弔う以外のことを行えば、その人に祟るであろう、と。


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2008年02月02日

北条氏と怨霊〜後鳥羽の置文(1)

後鳥羽が怨霊として祟りをなす・・・と考えられた背景には、後鳥羽自身が残した置文の存在も大きいようです。

水無瀬宮文書」に収める1237(嘉禎3)年8月25日付の後鳥羽の置文の写しには、‘災い’や‘祟る’の文言が・・・・・。ちょっと不気味な感じがします。

次回はその文言を見てみます。

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2008年02月01日

北条氏と怨霊〜後鳥羽の祟り(5)

記述のような文脈の中では、既に述べた泰時の死も、単なる自然死とは見放されない感じがします。
これも「本平戸記」の記述によると、最期の時を迎えた泰時は前後不覚となり、火のような熱で他人をその傍に寄せ付けず、悶え苦しんだ挙句に息絶えたと言います。また将軍の手紙が奈良に届き、顕徳院に御霊が現れ、説明のつかない怪異が起こったと言う話を記してあったと、行範なる僧侶が伝えています。
この泰時の最期の様は、「平家物語」に記された演劇平清盛の最期を思わせるような‘熱ち死に’です。また泰時の死の直後、六月に藤原道家顕徳院の諡(おくりな)を後鳥羽と改めることを経高に語っているところからして、泰時の死と後鳥羽の祟りとが連関するものと考えられていたことは明白でしょう。

承久の乱で勝利し、天皇位まで自由に決定できるほどの力を持った北条氏であっても、目に見えない怨霊の脅威に対しては、その鎮魂を祈る以外、なす術はなかったのでしょう。

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2008年01月31日

北条氏と怨霊〜後鳥羽の祟り(4)

本平戸記」のなかで僧正覚教(かくきょう)が語ったと言う、高野奥院のさる徳の高い上人が見た夢は、さながら説話のような感じがします。

----上人が高嶺に攀じ登ると貴人が多く集まっていたが、誰の居所かはわからなかった。
そこへ一人の貴人が参入したので、誰かということを下僕に尋ねると賀茂大明神で、伊勢太神官が尼野大明神に使として遣わすために呼んだのだと言う。その後、伊勢太神官は、不慮の事態で遠方に赴いたのは前世の宿報だが、遂に故郷である都を見ることができないのは深く恨みとするところで、まず炎旱疾飢より始めて点火の損亡させようと、ついては神々に承知してもらいたいという顕徳院の訴えを披露し、申し分はもっともなので、尼野大明神に伝えてほしいと賀茂大明神を遣わす。
上人は賀茂大明神の帰還を待って変事の内容を聞こうと思ったが、咎められて追い払われたので返事は聞くことができなかった。           以上

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2008年01月30日

北条氏と怨霊〜後鳥羽の祟り(3)

既述した話を記しながら、経高は承久の乱で武家が天下を取ってより、すでに20年になりますが、これらは武家滅亡の兆しではないかと、むしろ喜ばしいような口吻で結んでいます。

その後も「本平戸記」には天狗・天魔の出現と、それを後鳥羽の怨霊と結びつけ、幕府の衰亡の兆しとする記述が何回か登場しています。

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2008年01月29日

北条氏と怨霊〜後鳥羽の祟り(2)

次は同年2月22日の幕府の衰亡に関する憶説です。
この日は折から後鳥羽の祥月命日で、供養が行われたばかりでしたが、やって来た大蔵卿菅原為長との世間話の間に怨霊の話が交じられています。

---為長のもとに先夜、関東からの縁者から便りがあって、鎌倉では天魔の蜂起を思わせるような奇怪な事件が起きている。例えば連夜放火が行われるので、辻ごとに守護人をおいて下手人一人を搦め取って禁固しておいたが、朝になると身柄がなく、木の株に縄が付いたままになっていた。また火事が度重なり、中でも四日のそれは大火事になったし、六波羅にも天魔が姿を現した。      以上


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2008年01月28日

北条氏と怨霊〜後鳥羽の祟り(1)

とりわけ後鳥羽関係の怨霊記事が多いのは「本平戸記(へいこき)」(民部卿平経高が記した日記)です。
いくつか引用してみます。
まず後鳥羽の死の翌年1240(仁治元)年正月には、時房の死に関する噂が現れています。

幕府の飛脚が六波羅に到着し、時房が急逝したと報じた。日頃病気もなく、多少不調を訴えたが、特別なこともないので家中の者も警戒していなかった。ところが急変して24日の戌の刻に遂に亡くなった。時房義時の弟で、義時と車の車輪のように幕政に携わり、承久の乱以後すでに20年の歳月を送っている。この時房が今になって急死するというには怪しい。
人々が言うには、昨年の暮れ北条一族とともに幕政を主導してきた三浦義村が急死し、今年もまた時房が急死するというのは、ひとえに顕徳院の仕業である。その上、時房の家来が去年の暮れ、顕徳院や後鳥羽の護持僧であった長厳僧正が時房を召し取るという夢想を得たところ、果たして時房が亡くなった。こうなるといろいろ思い合わさないわけにはいかない。関東の運も衰えてきたのだろうか・・・・。       以上

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2008年01月26日

北条氏と怨霊〜根深い怨霊信仰(5)

怨霊信仰の根深さに新たな要素を付け加えたのが承久の乱でした。

三上皇の配流、天皇の廃位と言う前代未聞の結果に終わった承久の乱から20年ほど経て、1239(延応元)年2月22日、乱の主謀者である後鳥羽が配流された隠岐で没します。後鳥羽の諡号は、当初は隠岐院と称されたそうですが、すぐに顕徳院と改められたそうです。
この諡号は恐らく崇徳院にならったものと思われ、この時点ですでに後鳥羽の怨霊の祟りが懸念されていたようです。

そして、承久の乱以来、幕府に決定権を奪われた形の朝廷貴族たちの怨恨もあって後鳥羽の死以降、北条氏に対する怨念の祟りが、政情不安や不幸な出来事が起こるたびに人々の脳裏に浮かぶようになったようです。

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2008年01月24日

北条氏と怨霊〜根深い怨霊信仰(4)

既述ように怨霊慰撫の措置が行われていたこと自体、いかに怨霊信仰が根深いものだったかを物語っていて、源家もしくは北条氏に不幸な事件が起こるたびに、怨霊の祟りが公然と密やかに囁かれていたということですね。

1199(正治元)年正月13日の頼朝の死について、「保暦間記」では海上に現れた志田義広源義経源行家安徳天皇らの怨念の仕業だと記しているようです。
また、そのような風説に一番恐怖を感じていたのは、外ならぬ源家か或いは北条氏の一族だったのかもしれません。

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2008年01月23日

北条氏と怨霊〜根深い怨霊信仰(3)

幕府の祭祀の中心鶴岡八幡宮にも、怨霊の鎮魂と言う性格があったようですが、その対象は主に平家の関係者のようですね。

それにたいして、頼朝が1189(文治5)年に建立した永福時(ようふくじ)は、頼朝が奥州合戦の後、泰衡の跡である陸奥・出羽両国を知行することとなった際、関東長久のために義経泰衡の怨霊を慰撫しようとして建立させたもので、壇場の飾りつけはぴかぴか(新しい)平泉中尊寺を模して作られたそうです。


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2008年01月22日

北条氏と怨霊〜根深い怨霊信仰(2)

幕府の開創者源頼朝の時代には、治承・寿永の争乱が、保元の乱で敗死した崇徳上皇藤原頼長らの怨霊によって起こされたのだという風説が広く行われました。そうした怨霊譚は、「本玉葉」「吉記」「百錬抄」などの記録類や、「本平家物語」「本保元物語」などの軍記類に見ることができ、後白河を始め京都朝廷の関係者ばかりでなく、「吾妻鏡」にいくつかの記事があるように、源頼朝もまた崇徳上皇の怨霊を鎮めるのに熱心だったようです。

でも怨霊が生前に仇をなした人間に祟るというのであれば、源頼朝以下の幕府関係者にとってもっとも怖るべきは、まず治承・寿永の争乱で西海に没したバースデー安徳天皇をはじめ平氏の人々の怨霊であり、さらには奥州で殺された源義経や奥州藤原氏の怨霊だということになるでしょう。

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2008年01月21日

北条氏と怨霊〜根深い怨霊信仰(1)

これまでいくつか、鎌倉幕府と怨霊との関係についてちょこっと触れきた部分がありますが、ここで鎌倉時代前半期を通じて幕府と怨霊信仰とのかかわりがどのようにになっていたかを書いて行こうと思います。

怨霊と聞くと怖いイメージがありますが、御我慢ください♪

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2008年01月20日

時頼の政治と皇族将軍〜引付の新設(5)

ある歴史学者は、この後嵯峨院政で始められた評定制の評定内容に、所領裁判が含まれていないことに注目しているそうです。

それは幕府の裁判制度が本来、御家人・武士階層の間、または彼らと荘園領主層との争訟を扱うために設けられたにもかかわらず、朝廷での訴訟制度の不備を理由に、管轄外の階層からの訴訟をもち込まれる事が多かったのを、幕府側がこの時点で改めて朝廷側に対応策を具体的に促すために、この院評定制の導入を働きかけたのでは・・・と述べています。

また同時期に行われたかがり屋の廃止も、本来は朝廷の検非違使に属している京都の治安維持を微視が代行してきたのを中止する措置として、院評定制度の新設とほぼ同一の意味を持つと位置付けています。

なるほど・・・幕府と朝廷との支配する領域がより厳しい一線として敷かれた・・という感じでしょうかね・・。

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2008年01月19日

時頼の政治と皇族将軍〜引付の新設(4)

一方で、幕府と朝廷の間にも、この時頼期には新たな展開が見られます。

頼経を中心とする将軍側勢力と執権勢力との衝突がいよいよ激化する1246(寛元4)年の正月、後嵯峨は後深草に皇位を譲って院政をはじめます。
その後嵯峨に対し時頼は、頼経の還京によって事態が小康状態を迎えるとともに、8月、使節を送ってことの経過を報告し、徳政の興行と関東申次の更迭を予告しました。そして、10月、幕府は関東申次を九条道家から西園寺実氏に代えるとともに、再度の徳政興行を申し入れました。

これに応じて後嵯峨は新たな制度として院の評定制を始めます。これは院政の最高議決機関として設けられた機関で、評定衆には西園寺実氏・土御門定通・徳大寺実基・吉田為経・葉室定嗣の五人が任命されました。

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2008年01月18日

時頼の政治と皇族将軍〜引付の新設(3)

さらに制度的な側面でも、幕府の最高意思決定機関である、執権・連署に評定衆が加わった評定会議の権限が次第に形骸化し、得宗の私邸での会議が実質的な権限をもつに至ります。その端緒には、建長年間に、時頼の私邸で秘密会議が行われた時に始まるようです。

得宗家の私的使用人に過ぎない御内人の筆頭である内管領が、幕府侍所の次官(所司)に任じられて、侍所を事実上、主宰するようになったり、鎌倉の市中行政を担当する地奉行に御内人が任命されるようになるのも建長年間のころでした。

要するに将軍職の形骸化の進展と見合う形で、北条得宗による幕府権力の私物化が本格化する、その端緒が時頼期に求められるわけです。

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2008年01月13日

時頼の政治と皇族将軍〜引付の新設(2)

犬引付設置の反面、時頼の代には、後に‘得宗専制’と称されるような北条得宗の専制的な政治体制の萌芽と見られる現象が生まれます。

それは、評定衆の構成員のうちに占める北条一門の比率が次第に増加する事や、新設の犬引付衆にも、次第に北条出身者が増えると共に、引付頭人に評定衆の中の北条一門の有力者が任じられるようになった事に現れています。

また、北条一門による守護職の集積傾向も、時頼の執権就任後、宝治合戦の後より次第に顕著になってきました。

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2008年01月12日

時頼の政治と皇族将軍〜引付の新設(1)

宝治合戦、または将軍の交替とめまぐるしく情勢が動いた時頼の執権期でしたが、その中で、時頼は注目すべきいくつかの施策を行っていました。
その一つに犬引付の創設があります。
1249(建長元)年、時頼は御家人同士、または御家人を相手とした本所・領家の訴訟を扱う機関として、言ってみれば評定衆の補助的な役職となる犬引付を新設しました。犬引付は当所一番から三番までに分けられ、頭人には北条政村・北条朝直・北条資時が、引付衆には二階堂行方・行泰・行綱・大曾根長泰・武藤景頼らが、それそれ任じられました。

犬引付設置の狙いは、訴訟の迅速・公平を期するため判決の準備機関をい設けることにあり、時頼が御家人層の利害に配慮していた事を示すものです。

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2008年01月11日

時頼の政治と皇族将軍〜宗尊の将軍襲職(5)

一方で北条氏は、頼経が謀叛の旗印として担がれるという苦い経験から、将軍に対する規制を一段と強め、その職の形骸化に努めてもいます。

例えば1252(建長4)年4月、従来は鶴岡臨時祭ごとに将軍が参宮して奉幣していたものを、以後は停止し、奉幣も使に委ねるという決定がなされました。その理由は、親王の出行が容易ではないことに求められていますが、この措置によって鎌倉の祭祀権者としての将軍の地位が多目的なものとなるので、政治の実権のみならず宗教的な側面でも将軍の無力化が図られていった・・と見ることができます。

でも御家人の忠誠の対象が将軍と言う人格的存在にある以上、将軍が北条氏の掣肘を超えて独自の権力を持つようになることは、やむをえない現象でもあったでしょう。藤原将軍に代えて京都から迎えられた宗尊でしたが、彼もまた1266(文永3)年謀叛が発覚したとして将軍職を奪われ、京都へ送還されます。この時、頼経の事件で処分された名越光時の弟の教時が挙兵を企てると言う一件があって、登場人物こそ代わっても全く同じような構図が繰り返されるのは、将軍という人格的中心を抜きにしては存在し得ない幕府という機構の本質に根差した問題と言うほかないでしょう。

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2008年01月09日

時頼の政治と皇族将軍〜宗尊の将軍襲職(4)

4月5日の晩方、六波羅から飛脚が到着し、宗尊の将軍襲職が正式決まりました。宗尊の63904鎌倉入り後、幕府は将軍御所の改築のほか、将軍御所内の番衆として、北条一門や御家人の中から格子番を創設し、さらに1257(正嘉元)年には院御所にならって廂番(ひさしばん)を設けて、番頭は公卿・殿上人、番衆は名門の御家人から選ぶというように、宗尊に対する敬意を形の上で表す事に努めています。

そして1260(文応元)2月5日には近衛兼経の娘が、時頼の猶子となって63904鎌倉に到着し、3月21日、宗尊の正室となりました。これによって北条氏出身の女性が将軍に嫁するという女系相承の原理は、曲りなりにも貫徹されたということになります。

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2008年01月08日

時頼の政治と皇族将軍〜宗尊の将軍襲職(3)

一方で、廃職の憂き目を見た頼嗣は、3月21日に63904鎌倉の御所から佐介にある越後守盛時の家に移り、次いで4月3日には妻子を連れて京都の帰途につきました。


御所からの転居も京都への出発も、いずれも陰陽家は憚るべき日だと具申したにもかかわらず、押して決行したもので、幕府の強硬な態度が示されたものと見ていいでしょう。
さらに追いうちをかけるように、新将軍の御所造営に伴い、旧将軍御所を破棄する件でも、時頼は陰陽の禁忌を無視して行うよう決定を下しました。

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2007年12月29日

時頼の政治と皇族将軍〜宗尊の将軍襲職(2)

3月5日には京都からの飛脚が鎌倉につきました。これは行方。景頼の要請について上皇のもとで論議が行われ、六波羅に対して幕府としては第一皇子と第三皇子の、いずれかを望むかという質問があったためで、時頼・重時らが相談の結果、第一皇子に決めて飛脚を帰しました。それに伴って翌日、藤原泰経が六波羅の北条長時と在京御家人の有力者たちに、皇子の鎌倉への道中の手配や供のことを取り計らうようにという命令を伝えるため出発しました。

3月19日、宗尊親王は鎌倉へ向けて仙洞御所を出発、八葉の車に乗ってまず六波羅に入りました。翌日から東海道を一路鎌倉へとたどった宗尊は、4月1日、固瀬宿に到着、迎えの人々と合流して行列を整え、稲村ヶ崎より由比ヶ浜の鳥居、下の下馬橋、中の下馬橋、小町口を経て、時頼邸に落ち着きました。

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2007年12月28日

時頼の政治と皇族将軍〜宗尊の将軍襲職(1)

ちょうどこの謀叛事件直後、2月21日に道家が没します。歳六十。この頃道家は頼経の事件で大きな痛手を受け、三浦氏の滅亡の後には光村と密かに連絡していたのではないかと疑惑を抱かれ、幕府との関係が冷却しきった状態でした。他方で西園寺実氏が幕府との親密さをマ増し、西園寺家の威権が清華家の中でも抽んでていて、摂家をも凌駕するばかりとなったのに比べて、道家の京都でに威勢は凋落の一途をたどる中での失意の死でした。

頼経の事件や宝治合戦はあったものの、将軍頼嗣の祖父であると言う事で幕府から特別の処置は受けないまま過ごしてきた道家dしたが、鎌倉で了行法師らが捕らえられて白状した直後に死んだ事から周囲は疑惑を抱き、幕府側が手を回して謀殺したのでは・・・と怪しむ人々もいたことでしょう。


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2007年12月27日

時頼の政治と皇族将軍〜謀叛事件(6)

2月20日、二階堂行方と武藤景頼が使節として京へ赴き、時頼・重時の名によって、頼嗣の代わりに上皇の第一皇子か第三皇子(後の亀山天皇)を63904鎌倉へ送るよう後嵯峨に要請しました。その要請状は時頼の自筆で重時が加判しましたが、他の人々はそのことを知らされていませんでした。

頼嗣の廃職の理由は、頼嗣が文武の才に乏しく、賎しい遊興にふけって国家の政務をおろそかにしているため将軍の武威が行き届かず、人々が重んじようとしないので乱世の基となるからだということでした。ですが実際には頼経の廃職以来の道家ら京都勢力と幕府との駆け引きが、こういう形で決着をつけられた・・・と見るべきかと思います。


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2007年12月25日

時頼の政治と皇族将軍〜謀叛事件(5)

1252(建長4)年正月7日、「本吾妻鏡」は子の刻から丑の刻にかけて人々が甲冑を着し旗を掲げて、幕府と重時邸にはせ参じたという事件について記しているようですが、それがどんな事件だったかは述べていないようです。

ですが翌8日の条に、次代の将軍となる上皇の第一皇子宗尊親王が仙洞御所で元服した記事を載せている事から見て、恐らくこの事件は頼嗣廃職と関連する事件だったとしてよいかもしれません。


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2007年12月24日

時頼の政治と皇族将軍〜謀叛事件(4)

「北条九代記」が伝える謀叛の内容は、前将軍頼経が京都に帰った後、密かに諸方の武士を語らって謀叛を起こそうと企てたので彼らもそれに同意し、三浦一族と示し合わせましたが、時期が合わず、時勢のへ変転を待つうちに命運が尽きて捕らえられたものだそうです。謀叛の一類は、27日に処分が決まり、この事件で集まった近国の御家人たちには時頼が対面して礼儀を尽くした上で、それぞれを国に帰し、一件落着・・・となったようです。

この謀叛事件の詳細には不明な点も多いですが、いずれにせよ宝治合戦かそれよりさらに前の頼経追放事件との関連性が強いらしいです。ですが、そうなると道家・頼経とつながる現将軍の頼嗣の心底も疑わしくなってきます。

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2007年12月23日

時頼の政治と皇族将軍〜謀叛事件(3)

このように宝治合戦の後処理が一段落して、12月29日、恩賞が行われました。

ただ幕府草創以来の功臣として北条氏に劣らない威勢を誇った三浦一族の討滅は、その後も多くの余波を生みました。
宝治合戦より4年余後の、1251(建長3)年12月、月初めより何となく騒がしい気配があり、風説が飛び交う中、武装した侍が行き来し、幕府や時頼邸の警備が厳重になるなどの前兆の後に、月末26日に至って騒動が起きました。つまりこの日、未の日、武藤景頼らが了行法師・矢作左衛門尉・長久連(ちょうひさつら)らを生け捕りにしました。
彼らが謀叛を企てたというもので、諏訪兵衛入道蓮仏が子細を聞きだしたところ、謀叛の次第がことごとく露顕したと言い、その後、鎌倉中はいよいよ騒動して、大勢の御家人達が競い集まりました。

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2007年12月21日

時頼の政治と皇族将軍〜謀叛事件(2)

一方、三浦氏の慰霊のため8月14日には神馬・剣などが相模国の一宮に奉納されました。これに先立って同社の杉が数本焼け、神火だと報告してきたことが、この奉納の直接の契機で、三浦氏は相模の大豪族だったことから、一宮の神が三浦氏の滅亡を憤っていると解釈されたそうです。
奉納の使者は三浦の一族ではありましたが時頼側について生き残った佐原時連で、これは慰霊を鎮めるには、その怨霊の血を引く人間によって祀らせるという、古代からの慣例に従ったものだそうです。

さらには8月20日には、鎌倉の街中に住む浪人を追放すると言う命令が出ましたが、これは恐らく不穏な人間を排除しようという狙いだったのでしょう。

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2007年12月20日

時頼の政治と皇族将軍〜謀叛事件(1)

1247(宝治元)年7月17日、北条重時が六波羅から鎌倉へ帰って、経時の邸を居所と定めました。重時は27日には将軍家の別当、そして幕府の連署に任じられます。

8月1日の八朔は武家の儀礼の世界では贈答が行われるそうですが、この年の8月1日には恒例の贈物を止めるようにという命令が出され、将軍家に物を贈ることは時頼・重時以外は禁止となりました。
この措置は言うまでもなく、執権・連署という権力の中枢部分以外の人間が将軍と特別な関係を持つことを未然に防止しようと言う意図があります。

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2007年12月18日

将軍頼経の追放と宝治合戦〜宝治合戦(3)

6月15日、泰村の後家が、泰村が重宝だから紛失しないようにといって託したので大事に身に付けていたと言って、合戦の直前に時頼が泰村に送った書状を返してきた一方、光村に関しては、24日に、その陰謀の企図を示す自筆の書状が献上されました。これらの話を考え合わせると、三浦氏内部に泰村の穏健路線と光村の激派路線との対立があったと想定することができます。
特に光村はまだ駒若丸と呼ばれていた時代にも、実朝を討った公暁の弟子として騒ぎを起こしていて、反権力的な志向が強かったということがいえそうです。

このちっ(怒った顔)宝治合戦は、すでに述べた経時の襲職以来、顕在化した将軍側近勢力と北条得宗家勢力との対立が最終的に清算された事件として捉える事ができ、その結果、将軍側近勢力は一掃されたものです

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2007年12月17日

将軍頼経の追放と宝治合戦〜宝治合戦(2)

合戦が終わってから時頼は飛脚を六波羅の北条重時のもとに送って、朝廷に伝える内容と、西国の地頭・御家人達への伝達内容とを記した二通の書状と、「一.謀叛の輩のこと」と題した事書一通を届させました。

63904鎌倉での合戦が終わり、上総一宮の館にいた泰村の妹婿の千葉秀胤、常陸の関政泰ら、三浦氏に与した人々との掃討が進む中で、泰村らが法華堂に乱入した際に、逃げ送れて天井裏に隠れ、彼らの話を聞いていたと言う法師が尋問を受けました。
それによると、光村が一族全てを取り仕切っている様子で、頼経が将軍在職中に道家が内々に伝えてきたとおりに、すぐに事を企てていれば、泰村が執権となることは間違いなかったのに、なまじ泰村がぐずぐずしたために亡びる羽目になってしまい、後悔してもし足りないと語っていたそうです。そして光村は人に見分けがつかないように自分で顔を削り、その流血が頼朝の絵像を汚したばかりか自殺死体を隠すため法華堂を焼きははらおうとまでしましたが、泰村がしきりに制止したので火をつけることはできませんでした。他方、泰村は穏やかな様子で一族の功績を振り返り、誅戮される悔しさを述懐しながら、時頼も後になってきと思い合わせることがあるだろう、だが冥土に赴く身でいまさら時頼を恨む事もないと、涙を流し声を震わせながら語ったと言います。

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2007年12月14日

将軍頼経の追放と宝治合戦〜宝治合戦(1)

1247(宝治元年)6月5日、いよいよ一触即発の形勢となった中で、時頼は泰村のもとに使を遣わして三浦氏討伐の意思はないことを伝え、泰村の側も、それを受ける構えでした。ですが覚地に、もしこのまま和平となれば、今後三浦氏はいよいよ増長して安達氏は対抗できなくなるだろうと叱咤された安達義景・泰盛らは、泰村の返事が時頼に伝えられる以前に兵を挙げ、それをきっかけに双方の軍勢による合戦へと突入していきました。

時頼方が泰村邸の南にある人家にかけた火が燃え盛って、折からの南風によって泰村の低に煙を吹き付け、たまりかねた三浦一党は頼朝の法華堂に篭ります。初め永福寺に陣取っていた光村も、もはや逃れる事は出来ないから、同じことなら頼朝の絵像のお前で終わりを迎えようという泰村の言葉に従って法華堂に合流しました。

やがて押し寄せた時頼の軍と三刻ほども闘いましたが、矢尽き疲労しきった三浦勢は泰村以下、総勢五百余人が自殺して果てました。この合戦をひらめき宝治合戦またはひらめき三浦氏の乱と呼びます。

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2007年12月13日

将軍頼経の追放と宝治合戦〜伏線(8)

この頃、京都に帰された前将軍頼経は関東の鬼門に当たる方角に五大明王院を建てて、験力(げんりき)のある高僧や陰陽師の類を重んじて、譜代の武士たちを可愛がるなど、政権復帰への策動を思わせる動きを見せていて、三浦一族mの中でも先に触れた光村は、幼少時より頼経に親しんでいたことから、頼経との間に固い約束があったととり沙汰されていたよいうです。

せすが三浦一族の総領である泰村は時頼に対して陳弁に努めるなど、わずかに破局に至るのを食い止めようとした形跡が窺えます。


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2007年12月11日

将軍頼経の追放と宝治合戦〜伏線(7)

檜皮姫が死去した直後、5月18日に光り物が西から東へと空を渡り、光がしばらく消えやらぬうちに、安達義景の甘縄の家に一流の白旗が出現したのを見た人がいたそうです。さらに、26日には鶴岡の鳥居の前に、三浦泰村が慢心して命令に従わないので近いうちに誅罰を加えるということだから、よくよく謹慎するようにという、何者が立てたとも知れない立て札が出現しました。

5月末から6月初めにかけては、三浦一族が着々と武備を整える一方で、それに相応じるように時頼の側も御家人たちを招集する様子が「吾妻鏡」の記録を埋め、次第に緊張が高まっていきます。

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2007年12月08日

将軍頼経の追放と宝治合戦〜伏線(6)

既述した状況の中で、出家して覚地(かくち)と号して高野山に入っていた安達景盛63904鎌倉に到着し、時頼と連日何事かを相談する一方、息子の義景や孫の泰盛に、三浦の一党が武芸に秀でて頭角を現しているのに、安達氏はもと武備を心がけないと彼らに対抗できないと諌めたそうです。

そして5月13日、将軍頼嗣の正室である時頼の妹檜皮姫が18歳で世を去りました。この女性も竹御所同様、将軍と北条氏との血の融合という重大な役割を担う人物で、その死は北条氏への何らかの祟りを感じさせるものであると同時に、言い方は悪いですが頼嗣の利用価値もまたそれによって大きく揺らいだ・・と言えましょう。

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2007年12月05日

将軍頼経の追放と宝治合戦〜伏線(5)

他方「吾妻鏡」の記事によれば、63904鎌倉でも年明け早々から何となく不穏さを予想させる事件ばかりが続いたようです。

頼朝の法華堂前の火事、冬の雷、羽蟻の群集、光り物の飛行、鶴岡八幡の神殿の扉の故障、時頼の妹(足利泰氏の妻)の死去、由比ガ浜の潮の赤変、大流星、黄蝶の群飛など、正月から三月まで当時の感覚では不吉とされるような変事が目白押しだったそうです。

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2007年12月03日

将軍頼経の追放と宝治合戦〜伏線(4)

また西園寺実氏も同じ頃、独自に使いを関東に遣わして何事かを打ち合わせしたらしく、恐らくその結果だろう、翌1247(宝治元)年正月、摂関が道家の子実経から近衛兼経へと交代になります。

頼経の帰京以来、幕府の道家に対する評価をめぐって、色々な噂があった中で予想された事態だったのでしょうが、実経はわずか一年ほどの在職で、正月にもかかわらず「門々これを閉じ、北の小門ばかりこれを開く」という逼塞のありまさで、上皇も本意ではないですが幕府の意向に従ったものらしいです。


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2007年12月02日

将軍頼経の追放と宝治合戦〜伏線(3)

頼経との別離に臨んでの光村の態度は、やがて起こる三浦氏の討滅にいたる伏線と考えられますが、同じような伏線は外にもあります。

例えば8月、鶴岡で放生会があり、頼嗣もその場に臨みましたが、流鏑馬の際、急に射手の1人が病気で出場できなくなり、その場の相談で三浦家村に射手が命じられました。でも家村はすでに永く流鏑馬はやっていないことを理由に断わりました。すると改めて家村の兄泰村に家村務めさせるようにという命が下り、泰村が家村の説得にあたりました。家村は今度は馬を用意していないといって渋りますが、泰村には用意の馬があったので、ついには家村は拒否する理由がなくなり、見事に射手を務めて賞賛を浴びたという一件です。

この事件を改めて考えてみると、新しい権力に反発する家村と、それを宥めて何とか一族の安泰を確保しようとする泰村、そしてこのような命令に対する態度によって三浦氏の忠誠を試そうと言う時頼という、三者三様の駆け引きの場面とも見えます。

この時点で少なくても表面上は、時頼も泰村を特に危険視してはいなかったように見えます。9月には、わざわざ泰村を招いて施政についていろいろと相談していて、その中で自分ひとりで将軍を補佐するのは独断になる恐れがあるので、六波羅の重時を鎌倉に呼んで万時を相談しようと思っていると話したそうですが、泰村が賛成しないので、しばらく差し控えるといったこともあったようです。

年末には、京都の頼経から時頼の元に書状が届きましたが、その内容は伝わっていないそうです。


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2007年11月29日

将軍頼経の追放と宝治合戦〜伏線(2)

定嗣の申し入れと関するか、または願文に記しているような道家自身の決心によるものなのか、9月4日、前摂政道家は西山に退隠することとなりました。

これに先立って8月1日、先に頼経が帰京するに際して付き従っていた北条時定らな帰途に就きました。ですが、その中で三浦光村だけは御簾の際に残って、数刻退出せず涙にくれていたそうです。こえは20余年にわたって傍らに仕えたことを思っての故で、その後光村は、必ずやもう一度頼経を鎌倉に迎えたいと人に語ったそうです。

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2007年11月28日

将軍頼経の追放と宝治合戦〜伏線(1)

一方、幕府の方も、京都朝廷の動揺を防ぐ措置をとっていたようです。頼経が京都へ帰ってよりひと月ほど後、葉室定嗣は六波羅探題重時の招きによって、病を押して出向きました。

その折、重時は時頼が重時に送った書状を示して、頼経が入道して帰京した経緯を説明するとともに、頼嗣は安泰で、謀略を企てた人々を罪科に処したが関東は静穏であること、また叙位除目についての指示などを伝え、定嗣から上奏するように申し入れたそうです。

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2007年11月26日

将軍頼経の追放と宝治合戦〜道家の恐怖心(4)

道家の次男良実が道家によって義絶されたのも、以上の一連の騒動が直接の原因だったようです。

良実はもともと父親と不和でしたが、母が西園寺公経の娘であった関係から公経の後援で関白にまで昇進しました。しかし道家の強請によって1246(寛元四十七)年、その地位を弟の実経に譲らされました。名越光時の事件と頼経廃職というあわただい動きの中で、道家はそうした軋轢のあった良経が北条氏に通謀して道家の不利を図ったのではないかと疑い、良実を義縁しました。

後に1251(建長3)年に時頼が親書を送り、心安く過ごすようにと申し送っていることから、良実が時頼らに幕府関係者と親密であったことは推測できますが、父を陥れるために通謀したとまでは言い切れないでうs。むしろこの一件は、いかに道家が恐慌状態であったかを物語るものとした方がいいでしょう。ですが九条家の相続を止められた良実が後に五摂関の一つ二条家の祖と成り、結果として九条家の勢力を削ぐこととなったのは、それが幕府の意図したところかどうかは別として皮肉なめぐりあわせです。

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2007年11月24日

将軍頼経の追放と宝治合戦〜道家の恐怖心(3)

6月26日に道家は同様の願文を認めていますが、それによると既述の願文の外に、道家は後鳥羽の皇子雅成親王を皇位に即けようと図った疑いもかけられていたようです。

雅成は順徳と同母で、承久の乱に際して後鳥羽と行を供にしたため但馬に流された親王です。また7月17日に道家が藤原氏の氏神春日社に収めた長文の願文には、誓文を上皇に奏するとともに幕府にも伝えた由が記されているので、またはこの6月の二通の願文がそれに当たるのでは・・と推測されます。

他の史料によって裏付けられないので、道家が63904鎌倉の事件にどの程度関与していたかはわかりません。ですが真偽は別として、これらの願文類を書き、しかもそれを幕府に伝えたというところに、道家が幕府の嫌疑を受けることに対して、いかに恐怖心を抱いていたかが示されている・・とも言えます。

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2007年11月23日

将軍頼経の追放と宝治合戦〜道家の恐怖心(2)

既述した二つの公家の日記はともに、この事件が頼経の父道家に及ぼす影響を気にしているようですが、そのことは誰よりもまず道家本人が感じていたに違いないでしょう。九条家に伝えられた史料のなかに、この年6月10日付の道家の願文が残されており、この願文で道家は事件と自分との関わりをすべて否定しているようです。

そこには下記のようになっています。

両部界会の諸尊聖衆ないし梵天帝釈・四大天王・日本国中王城鎮守の諸大明神に敬って申し上げます、近頃、関東に騒動がありましたが、頼経が告げ送ることもできなかったので、その由来は知りませんし、相談も同意もしておりませんし、知りも聞きもしません、また調伏法を行って経時を呪詛したということについては、調伏法を修すように頼経にいわれていないので、自分が修したことも人に修させたこともありません、もしこの二つの事について当座の災いをのがれるために嘘をついたなら、神祇冥道・諸尊聖衆が一々和が身中を照らし、その毛穴ごとに神罰を蒙り冥罰を受ける事でしょう・・・と。

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2007年11月22日

将軍頼経の追放と宝治合戦〜道家の恐怖心(1)

ともあれ、こうして事件が一段落した7月11日に、頼経は鎌倉を出発して帰京の途につきました。その一行は東海道を西へとたどって28日、粟田口から京都へ入り、同日寅の刻、頼経は北条重時の若松別荘に旅装を解きました。

以後、頼経は1256(康元元)8月11日、痢病によって世を去るまで、政界の表面に浮上することなく終わります。

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2007年11月21日

将軍頼経の追放と宝治合戦〜北条光時らの陰謀(6)

同じ時期の権中納言葉室定嗣の日記「葉黄記」にも、下記のような情報が伝わっているようです。

6月6日、関東の飛脚が到来。頼経の御所は周囲にかためられて、近習の定員は召し籠られた。光時は、出家して伊豆国に流され、その弟の時幸は自害し、千葉秀胤は本国の上総へ多いやられ、そのほか降伏した人々は召し籠められたという。これらは時頼の処置か。
6月10日、世間が騒がしく、人々の噂もうるさくなってきました。今朝、道家の身辺に心配な事が起きたというので尋ねたが、別段の故ことはなかった。どれも、皆天狗の仕業か。

6月15日、重時の使い安達泰盛が、昨日関東からやってきて、頼経は来月11日に帰京するという。いろいろな噂が飛ぶが、一件は落着したようです。

いずれも、その記事の全てが正確というのはいえないでしょうけど、少なくても鎌倉の政情の一部は伝えているものと考えても良いでしょう。

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2007年11月19日

将軍頼経の追放と宝治合戦〜北条光時らの陰謀(5)

京都にいた公家側の、この年の記録を見てみます。

近衛兼経の日記「岡屋関白記(おかのやかんぱくき)」によれば、次のような経過をたどっています。

---6月9日、関東で事件があった。頼経が謀略をめぐらして、武士達に命じて時頼を討とうとしたり、調伏の祈りなどを行ったが、このことが発覚して騒動となった。頼経の側近の藤原定員を搦め捕って拷問したところ、罪状を認めたそうだ。
頼経は幽閉されているというが、使者が簡単に通れるような状態ではないので京都の人間には事実はわからない。頼経の父親である道家は恐ろしく思っているだろう。

6月16日、このところ天下は轟々たる騒ぎで、あるいは武士達が憤りのあまり、来月11日には頼経を関東から京都に追放するという。この騒動について聞くところでは、頼経が父親の道家と示し合わせて謀をめぐらし、武将達を語らって故泰時の子息達を討とうと企て、かつまた僧徒に調伏・呪詛させたのだという。経時の早世はこの故で、その陰謀が発覚したので大事に及んだものだ。

京都の風聞は以上のようですが、虚言なども加わっているので当てにはなりません。近日のことは、皆天魔の仕業でしょうか・・・。

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2007年11月18日

将軍頼経の追放と宝治合戦〜北条光時らの陰謀(4)

6月1日、光時とともに出家した弟の時幸が自害し、7日には光時の陰謀に加わったとされる評定衆後藤基綱・狩野為佐・千葉秀胤と評定衆兼問注所執事の三善康持が罷免されます。追って13日、入道して法名蓮智(れんち)となった光時は伊豆の江間に配流となり、所帯所職の大半は収公、千葉秀胤は上総国に追放されました。

「保暦間記(ほうりゃくかんき)」によると、光時の陰謀というのは、光時が頼経の近習としておぼえがよかったが、それにおごって、自分は義時の孫だが時頼は曾孫だから自分が執権となるべきだと考え、将軍の方も光時に同心していた・・・というものです。

いつの世も人は「権力」というものに惹かれていくものなんですね・・。すこしでも「引く精神」があればこのような陰謀は起きなかったかも・・・。

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2007年11月16日

将軍頼経の追放と宝治合戦〜北条光時らの陰謀(3)

北条氏一門の名越流に属する越後守光時は将軍御所にいましたが、この日の明け方に家人がやってきて呼び出したので、早々に退出して再び御所には戻りませんでした。出家して髻を時頼に捧げて陳弁したと言います。これは時頼を追討しようと一味を叫合し、変心しない旨を相互に連署した起請文を書いた張本が、名越一門だということが時頼に聞こえたためだったとか・・・。

光時の弟の時章・時長・時兼らはあらかじめ叛逆するつもりはないということを時頼に弁解していたので、特別な事はありませんでした。また定員(さだかず)は出家の上、安達義景に預けられました。時頼の周辺の有力者は、北条政村・北条実時・安達義景らに、三浦泰村が加わったメンバーです。

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2007年11月15日

将軍頼経の追放と宝治合戦〜北条光時らの陰謀(2)

5月22日、秋田城介安達義景の家中を巡って甘縄の辺りで騒動が起こり、広範囲に及んでいったそうです。24日、辻々は固められ、下馬橋を通行しようとした狩野為佐(ためすけ)は、時頼の厳命を受けてそこを守護する渋谷一族に、時頼方に加わるなら引き留めないが将軍御所へ行くのなら許すわけにはいかないといわれて争いになりました。

そうした状況でいよいよ物騒になってきましたが、夜半には皆、甲冑を着け旗を掲げ、それぞれの思うところに従って、あるいは将軍のいる幕府へ、あるいは時頼のもとへかけつけました。

翌25日も不穏な状況は変わらず、時頼の館の警固も緩む気配は無く、甲冑つけた侍が四方を囲んで警戒していたそうです。その中を頼経に近侍する但馬前司藤原定員が、頼経の使と称して時頼亭にやってきまshたが、殿中に入れることはできないと断られ退出しました。

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2007年11月13日

将軍頼経の追放と宝治合戦〜北条光時らの陰謀(1)

経時の死によって、潜伏していた前将軍頼経と執権北条氏との対立が一気に火を噴きます。

経時の死の直後1246年閏4月18日戌の刻、にわかに鎌倉中が騒がしくなり、甲冑をつけた侍達が街中に満ち溢れました。20日には近国の御家人たちが馳せ参じ、誇張ではありますが幾千万ともしれにあとまでいわれ、連日騒動が続いたようです。

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2007年11月12日

後嵯峨天皇の即位〜後鳥羽の怨霊(5)

不安のうちに年が明けて翌1246(寛元4)年、すでに決定していた頼経の帰京は、またもや理由不明のまま延期となります。2月には将軍の正室となった檜皮姫が病気で、邪気の疑いありとして祈りや祓えが行われたようです。この時期、執権の周辺は病に魅入られたかの状態だったそうです。

そして3月23日、遂に経時は命を永らえる見込みが無く、二人の息子は未だ幼いということで、執権を弟の時頼に譲る事とし、時頼もそれを了承しました。執権を退いた経時は4月19日出家を避け、閏4月1日に23歳で死去、遺骸は佐々目山の麓に葬られたそうです。

それにしても23歳の死去は余りにも若すぎますね。

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2007年11月11日

後嵯峨天皇の即位〜後鳥羽の怨霊(4)

経時の病気は8月の中頃までには一旦軽くなりましたが、入れ替わりに今度は将軍頼嗣がにわかに発病しました。

病状は首が腫れるというものでしたが、これも邪気のせいだということで陰陽の修法が行われたようです。さらに9月4日には経時の妻(宇都宮泰綱の娘)が15歳という若さで亡くなり、将軍の病が治らないまま経時も病気が再発するという変事が次々と起こったそうです。

そうした中で11月、頼経が翌年の2月に帰京することが決まり、それに付き従う者も定められました。


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2007年11月09日

後嵯峨天皇の即位〜後鳥羽の怨霊(3)

頼経がまだ鎌倉にとどまったまま、五月にはあけて7歳となった頼嗣の嫁取りの日時が決定され、7月に経時の妹で16歳の「檜皮姫公(ひわだひめぎみ)」が将軍の正室となって、将軍御所へ移りました。

これが幕府の基礎強化策であることは間違いないところでしょう。
このころ京都では、奈良のある姫君の待女に佐渡院(順徳)が託宣し、7月上旬に事件が起きると告げたという風説が広まっていたようです。

こうした事態の推移のうちに7月5日、頼経は久遠寿量院で出家します。これは平素の願いであった上、この年の春ごろに彗星・客星が異変を示し、それに病気が重なったために思い立ったものだと「吾妻鏡」は記しているようですが、その後の政変劇と照らし合わせると、幕府が不安要因である頼経の排除を図ったものでしょう。一方で、頼経は、それに先立つ6月に六字供・日曜供という密教の修法を行っているようですが、これもまた経時の呪詛のためと・・といったとこでしょう。

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2007年11月08日

後嵯峨天皇の即位〜後鳥羽の怨霊(2)

以上のように慌しい関東の状況は、京都にも刻々と伝えられていました。「平戸記」の四五年五月末から六月にかけての記事には、頻々とやってくる関東の飛脚や風聞の様子が日を逐って書き連ねていまうs。
以下のようになっているようです。

五月二十八日、関東のことについて種々の風聞が聞こえてくる。
五月三十日、関東の情勢を聞くため、ある者に会った。
六月一日、関東の事について、ある者が告げ送って、事はすでに発覚したといって詳しくその子細を語った。
六月六日、関東から早馬が六波羅に到着したと言うが、どういうことなのか分からないので皆怪しんでいる。合戦の準備が報告されているが不審である。
六月十八日、経高が道家のところに行くと、関東のことなどについて話があり、経時の病気は重いということ、また道家が天皇の意思を奉じて関東に、何事か重大事を明年に行うようにと伝えたら、道家のほうで計らってほしいということだったという。


こうした「平戸記」の記述からは、この四五年の五月・六月頃に何らかの尋常ではない事態が幕府周辺で起こっていたと推測はできますが、肝心のところが「事」とか「重事」とか「この儀」などの表現で明らかにされていないので、ちょっともどかしい気もします。

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2007年11月07日

後嵯峨天皇の即位〜後鳥羽の怨霊(1)

経時は1245(寛元3)年の5月末に黄疸を患って以来、体調が勝れず、それによって幕府の政治体制に、さらに不安定な要素がふえることとなりました。先に頼経が後鳥羽を祀った事の意味を説明しましたが、幕府側でも経時の病気は後鳥羽の怨霊によるものと考えられていたようです。
吾妻鏡」には、経時が管理する武蔵国の乃貢を入れておく倉のうちに小さな蛇が出現し、5,6日もだえ苦しんだ後に死に、それによって占いや祈祷を行ったという記事が、すでに経時が病気になる一週間程前に載っているようです。ここには占いの結論は載せていないようですが、経時の管理する倉だということをわざわざ記しているところから言って、経時の身の上の変事との関係を暗示していると解していいかもしれません。

そしてこの前兆を受けて、経時の発病後、久遠寿量院(くおんじゅりょういん)で七僧法会・法花五種妙行・金泥法華経五修行などの供養が、いずれも後鳥羽の菩提を弔うために行われています。

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2007年11月06日

後嵯峨天皇の即位〜泰時の死と不穏な情勢(6)

頼経のこうした行事の意味について「吾妻鏡」は何も記していません。ですが後鳥羽の供養は良いほうに解釈すえば、供養することによって、その怨霊を鎮め祟りを防止することを意図したともとれますが、そうでないとすれば、むしろ怨霊に祈願してその力をによって幕府関係者に災いをもたらそうという呪詛の意味だったとも考えられます。承久の乱によって幕府に敗れた後鳥羽の最大の怨敵は、いうまでもなく鎌倉幕府関係者、それもとりわけ執権北条氏一族です。したがって北条一族の打倒を企てる者にとっては、後鳥羽の怨霊に頼る事はきわめて有効な手段だと考えられたかもしれません。この時期の頼経の行動は北条氏呪詛の企てであった可能性が強いとも言われています。事実、経時の死後、頼経が経時を呪詛によって殺したという風説が京都にまで伝わっているそうです。

1244年8月、将軍職を譲った大殿頼経は翌年春に京都へ帰ることが決定されました。ですが翌年2月の出発日まで決められながら、12月末にいたって、政所の火事によって行旅の用品その他の品々が全て燃えてしまったことを理由に、延期の処置が取られるという不可解な推移をたどります。

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2007年11月04日

後嵯峨天皇の即位〜泰時の死と不穏な情勢(5)

執権職を巡る前述のような不安定な状況の中で、引退した頼経もまた独自の意図を抱いて行動をはじめました。

例えば将軍を退いた後、6月に頼経は後鳥羽院追善のためとして、後鳥羽の実筆を形木として刷り写した法華経百部を供養し、8月には御所で五壇法を修し始め、さらに環京が決まった9月には、再び後鳥羽院追福のために刷り写した法華経を持仏堂におもむいて読みはじめたそうです。


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2007年11月02日

後嵯峨天皇の即位〜泰時の死と不穏な情勢(4)

前述の不安定性を生み出した一つの要素に、何よりも新たに執権についた経時が、その器量の点で果たしてふさわしかったか否かと言う問題があります。

それは1241(仁治2)年11月に、63904鎌倉の若宮大路の下馬橋あたりで、三浦一族と小山一族とが酒宴の紛れで喧嘩騒ぎを起こした一件に図らずも示されています。
このとき、経時は家来に兵具を付けさせて三浦方に遣わしましたが、そうした行動が軽率だったとして泰時によって謹慎を命じられていて、他方、同じ事件で弟の時頼はその慎重さを泰時に賞され、結果として両者の器量の差が露わになってしまったようです。

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2007年10月31日

後嵯峨天皇の即位〜泰時の死と不穏な情勢(3)

泰時の子時氏は早世していたので、時氏の長子である経時が泰時を継いで執権となります。

ところが京都側の史料に窺える泰時の死の前後の不穏な情勢から、経時の執権襲職に反対する勢力が存在する事と、その中心が将軍頼経だったらしいことが推測されるそうです。これにたいして経時は襲職後、幕府裁判権の行使者が執権である事を明示するなどの措置をとって、将軍権力を制限する意図を露骨にしているようです。さらに1244(寛元2)年4月には、将軍頼経の六歳になる子息頼嗣の元服が行われ、同時に頼嗣は将軍職をも引き継ぐ事となりました。

この急な交代は「吾妻鏡」によると、日照りなど天変が続くので頼経がにわかに思い立ち、しかも5・6月は頼経にとって日柄が悪いので、4月のうちに儀式を行う事になったとのこと。ですが、この将軍職交代には、史書の表面には登場していませんが、執権職を巡って頼経を巻き込んだ何らかの策動があって、その反動が頼経の将軍職引退となったのではないかと思われます。

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2007年10月30日

後嵯峨天皇の即位〜泰時の死と不穏な情勢(2)

既述の状況の中で、5月20日には関東で合戦の企てがあって、すでにそのことが発覚したという伝聞があり、朝廷周辺も騒がしくなりました。将軍御所あお守護する者たちが甲冑をつけているという不審な話も京都まで伝わってきました。5月28日に道家から送った使者が途中から使を送って、幕府が命令を下して関所ごとに守っているので三日間交渉していますが、まだ通る事ができない、どうしたらよいか指示して欲しいと言ってきました。

29日の夕方、関東の使が道家の元に来て、泰時が赤痢を患って医者を派遣して欲しいと望んでいると伝えました。6月4日、将軍の使が昨夜、道家のところへ到着し、関東は平穏だと報じましたか、この話は作り事だという情報が流れました。

このように泰時の安否と、それに伴う関東の不安定な政情について、いろいろな噂が伝えられるうちゅ、ようやく6月20日の夜、関東の飛脚が六波羅に到着し、泰時が15日の夜に亡くなったことを報告します。

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2007年10月26日

後嵯峨天皇の即位〜泰時の死と不穏な情勢(1)

後嵯峨への譲位を決めて半年と経たない1242年5月、泰時は病床に就きます。発病してから死に至るまでの泰時を巡る鎌倉の情勢には、不透明なものがりました。この間の推移は京都側の記録によると以下のようであったらしいです。

泰時は4月の27日から患っていたようですが、よくなったというので5月5日には沐浴をしました。ところが翌日から再び病気が悪化したので、将軍に出家する許しを得ました。ですがその後、病気は一時待ちなおします。
5月14日には六波羅探題である北条時盛・重時の両名が、京都を発して鎌倉へ向かいました。泰時が出家の時、その家来たち50人ばかりが同時に出家し、十日の夜になって泰時の弟の朝時も出家しましたが、この朝時の出家に対しては、兄弟といっても日頃疎遠であったのに不審なことだと耳にしたものは皆驚いたそうです。

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2007年10月25日

後嵯峨天皇の即位〜天皇位の空白(6)

1242年正月二十日夜、邦仁は元服の後、冷泉万里小路の四条大納言邸に移りました。これにつき従う殿上人10人は、皇位争いを反映して平定以下全て皆、源姓の人々でした。

また邦仁が後嵯峨として即位した直後の同年4月には除目が行われ、権大納言に源顕定、権中納言に源顕親、参議に源通行、安芸守に源仲貞、蔵人に源兼頼、右近衛中将に源雅家、少将に源親頼、蔵人頭に源通成、正4位下に源春光、左近将監(さこんのしょうげん)に源則長など「源氏党の繁昌」といわれるような状況となりました。


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2007年10月24日

後嵯峨天皇の即位〜天皇位の空白(5)

一方、決定を待ち受ける京都の人々の様子も、「平戸記」は事細かに記しています。

それによると、京都の人々が関東の決定を伝える飛脚を待ちつづけて空しく暮れた
正月17日、土御門の皇子が武士の縁によいって位につくという情報が伝わりました。
その縁者というには土御門定通で、彼の妻が泰時重時らの姉妹なので、私に使者
を関東に遣わして、親しくも申し入れたものだと言う。さらに19日、土御門の皇子
を即位させるという幕府の意向が伝えられると、経高は再び、そもそもこのことを
関東が計らうというのは末世の至極だと嘆きます。
そして邦仁は祖母の承明門院が庇護し、故源通方が養育してきましたが、承久の乱
で土御門に縁坐したもので、それを定通が位に即けて自分が執政になろうとして、
しきりに飛脚を発し、九日以来、工作してきた結果が今日の仕儀となった、と言う背後の
消息を載せています。

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2007年10月23日

後嵯峨天皇の即位〜天皇位の空白(4)

この時の泰時の決断に関して、次のような話が伝わっています。

四条の死を告げる早馬が泰時のもとに到着した時、折から泰時は酒宴の最中でしたが、報を聞くや物もいわずに座を立って障子をまわして篭り、三日三晩寝食も忘れて思案し、泰時は心中では土御門の皇子を位に即けようと思っていましたが、一人の思案には余ると考えて鶴岡社へ参って籤を引いたところ、思い通りに土御門の皇子が当たったので安達義景を使にして、このこの事を朝廷に申し入れした。その際、義景が途中から馳せ戻って、もし京都ですでに順徳の皇子が位に即いてしまっていたらどうしたらよいかと泰時び尋ねた所、泰時は、もしそのようなことがあったら位から下ろしてしまえと義景に申し含めたそうです。

この挿話には、承久の乱をくぐった後の朝幕の力関係が如実に示されていると言えるでしょう。

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2007年10月19日

後嵯峨天皇の即位〜天皇位の空白(3)

道家は舅の西園寺公経と図って、順徳の皇子で仲恭の異母弟になる忠成王(ただなりおう)を強く推しました。この実現のためには道家は祖父兼実の墓所に告文まで捧げたそうです。ですが土御門の母(承明門院)が源通親の養女で、またその皇子邦仁王の母親は通親の子通宗の娘であった関係から、通宗の弟、前内大臣定通らは邦仁王の即位を幕府に働きかけ、両勢力の対立の中で天皇位は11日間の空白を生じました。その挙句、泰時は京都側の大方の推測とは逆に、承久の乱に際して後鳥羽と同一歩調をとった順徳の系統を忌避し、新幕的だった土御門の皇子邦仁を選んで皇位に即けました。これが後嵯峨天皇です。

承久の乱の戦後処理とならんで、武士が天皇位の決定権を握った事件であり、しかもその決定を待つために天皇位の空白を生むと言う、京都の公卿にとっては、朝廷衰亡の極みとも思える事件でした。

平経高は「およそ空位数日に及ぶひとえにこれ関東の所為なり」と憤慨し、その悪質さを非難する悪罵を自分の日記「平戸記」に書き付けました。

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2007年10月18日

後嵯峨天皇の即位〜天皇位の空白(2)

道家が既述のように対立を押してせkっかく位につけた四条も、1242(仁治3)年正月九日、突然事故で世を去ります。12歳でした。


御付きの人々が転倒して慌てる姿を見ようと、廊下に滑石を塗りつけたところ、かえって自分がそれによってひっくり返ったと言います。あまりに押幼い話ですが、この頓死によって、後継者を誰にするかが問題となりました。

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2007年10月17日

後嵯峨天皇の即位〜天皇位の空白(1)

彗星が出現する以前から、道家が何らかの企てを抱き、それにまた家実の側が反撃を意図していたことを示す事件があります。

この1232(貞永元)年6月、道家は北野の朝日寺の観音を奪い取るという暴挙にでましたが、その理由は観音の胎内に呪詛の品を篭めてあるという疑いがあり、仏師を召して仏像を破って調べるためで、しかもその呪詛を行ったのは家実だという嫌疑がかけられていました。藤原定家も、この年の11月頃から定家邸の橘の木に生絹の小袋が懸けられ、中に梵字を書いたものが入っていて、不動の絵像を包んであって只者とは思えないので僧侶に見せると、呪詛物だったという話を記しているそうです。

これなども当時の京都朝廷においての暗闘の渦が、定家にまで及んだことを示しているのかもしれません。

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2007年10月16日

後嵯峨天皇の即位〜利用された天変(6)

道家のとった曖昧な態度は幕府の側から見れば不満以外の何ものでもなく、結果として道家は、乱に反対して後鳥羽側に幽閉された西園寺公経・実氏より、一段下った評価を幕府側からうけることとなったため、実家との交代が要請されたものでしょう。乱後7年を経た1228(安貞2)年、道家は改めて関白に返り咲き、さらにその子教実に代わりましたが、1235(嘉禎元)年3月、教実の病気により道家が再び摂政となります。

道家は、その地位を一層強固にするために、幼い四条の即位を急いだものと考えられます。後堀河の譲位に関して、幕府側は必ずしも賛成ではなかった様子で、道家が再三の飛脚によって申し送った結果、ようやく実現しましたが、世評では、これによって道家・教実の親子と西園寺公経が政治をほしいままにするものと受け取られていたようです。

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2007年10月15日

後嵯峨天皇の即位〜利用された天変(5)

考えてみれば、承久の乱で鎌倉方が敗北しても、道家その人にとって大きな損失とはならなかったか、もしくは敗北したほうが好都合ではなかったんじゃないでしょうか。仲恭が順徳から譲位された結果として道家は摂関になったばかりで、この体制を変えたくは無かったでしょうし、他方で鎌倉に将軍予定者として子息の頼経が臨んでいるといっても、後鳥羽の打倒目標は義時と北条氏なのであって、四歳の頼経が乱の政治的な責任をとらされるはずもなく、うまくすれば北条氏の排斥によって頼経が実質的な権力を握ることも可能になったかもしれません。

となれば・・・

道家はせいぜいのところ形勢願望が賢策だったに違いないでしょう。

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2007年10月14日

後嵯峨天皇の即位〜利用された天変(4)

九条・近衛両家の角逐の中で、1221年道家は良経の娘を母とする仲恭天皇の即位によって摂関の地位を物にしたこもつかの間、承久の乱によってたちまち仲恭は廃位、道家も幕府の要請によって再び近衛家実と交代する羽目となりました。道家は息子の頼経が将軍となった縁で、親幕的であったように思えますが、承久の乱での道家の立場と言うのは、いささか曖昧だったようです。

頼経との関係から、義時など幕府有力者との親交の形跡が窺えるにもかかわらず、後鳥羽の挙兵にたいして積極的に荷担しないにしても、明確に反対の意思表示をした形跡もありません。

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2007年10月13日

後嵯峨天皇の即位〜利用された天変(3)

この頃の九条家の歴史をたどると、頼朝の後ろ盾で摂関となった九条兼実が1196(建久7)年の政変で失脚した後、摂関の地位は近衛基通に移り、一時は九条良経に戻ったものの、それも短期間で良経の死によって近衛家実に代わります。

良経の子・道家にとって摂関の地位がいかに切望されたかは、彼の日記『玉蘂』によく示されています。つまり1212(建暦2)年二月七日条には、今朝、ある女房が道家が二度摂ろくに補されるという吉夢を見た、最初は11年間、二度目は22年間だという、これを聞いて自分は感涙少なくなかったと記していて、1220(承久2)年五月二十三日にも、今朝、女房が道家が摂関の地位につくという夢を見たので念誦し、八幡・春日・北野ならびに三宝に祈りを捧げたとあります。

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2007年10月12日

後嵯峨天皇の即位〜利用された天変(2)

承久の乱で後鳥羽方が敗北した結果、希代の幸運を拾った後堀河も、1232(貞永元)年10月、在位12年、歳にして21歳で、2歳の四条天皇に譲位します。
「二歳の受禅、六条院の外、本朝未だその例を聞かず」(『岡屋関白着記』)といわれた、この譲位の直接の理由は、二年前から連々と起きた天変地位にありました。

既述のように1230(寛喜2)年は異常気象によって全国的に不作で、その結果翌年にかけて「寛喜の大飢饉」と呼ばれる飢饉が起きています。そしてこの1232年も8月に大風が吹き収穫が危ぶまれているところへ、閏9月初め東南の空に彗星が出現!その色は白く雲のようで核となる星ははっきりとは見えないですが、彗星であることは間違いなく、この不吉な前兆に対して天皇も種々の祈祷を行うなど手を尽くしたそうですが、依然として消えないため、にわかに譲位を行うこととなったようです。為政者の不徳が天災を招いたものだという考えから、天皇が責任を負うことになったわけです。


でも、この一件の背後には九条流藤原氏の策動があったそうです。即位した四条の母親、中宮竣子は道家の娘で、その母は西園寺公経の娘であって、要するに外戚として九条家が勢力を回復するための絶好の機会として天変が利用されたというわけです。

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2007年10月11日

後嵯峨天皇の即位〜利用された天変(1)

御成敗式目』を制定し幕府政治の基盤を据えた泰時の治世も、その晩年に至ってようやく、行く末についての一抹の不安が人々の頭に浮かぼうとしていました。

もっとも承久の乱で一敗地にまみれた感のある京都朝廷の人々にとって、それから二十年ほどの幕府干渉下のもと主体性の喪失は、実力はなくとも歩ころだけは高い貴族たちだけに耐えがたいものがあったようで、彼らの中にはむしろ幕府の動揺に対する願望を託すように、不吉な前兆を読み取ろうとする人々もいたようです。


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ニックネーム ちこりん at 06:42 | Comment(0) | TrackBack(0) | ■北条時頼の登場■