2005年08月03日

●後白河法皇●〜後白河院の野望と挫折

1156(保元元)年、父霧鳥羽法皇の崩壊後、兄崇徳上皇が起した保元の乱に、平清盛源義朝の活躍で勝利すると、荘園整理の基準を自らの即位時点に求めるなどの強硬な保元の整理令を下して、摂関家の勢力削減を進めるなど皇室権力を強化しようとしました。その後、在位わずか三年で二条天皇に譲位すると父祖同様に院政を開始。むかっ(怒り)後白河院が望んだのは、祖父小雨白河院時代の絶対権力でした。この時は源氏と平氏の双方を巧みに競わせることができましたが、時代の流れとともに武家が台頭しはじめていました。むかっ(怒り)後白河院は武家の権力闘争に巻き込まれ、平治の乱(1159年)、鹿ケ谷事件(1177年)、法住寺合戦(1184年)と三度も軟禁・幽閉されています。独自で武家に対抗する術がなかったからです。

平氏や木曾義仲が滅ぼされて均衡が破れ、ついに源氏の棟梁・源頼朝が権力を掌握しました。


義経頼朝に対抗する相手としてむかっ(怒り)後白河院に巧みに利用されました。しかし、義経と強硬派の公卿に押されて頼朝追討の宣旨を出したことは、逆に頼朝に全国に守護・地頭を設置させることになり、武家政権の確立をより早く進めてしまいました。頼朝から「日本一の大天狗」と酷評されていますが、むかっ(怒り)後白河院とて三度のクーデターに巻き込まれているので、義経の強硬手段を恐れたことでしょう。しかし、義経は朝廷を楯にすることなく、潔く京都から落ち延びました。これが義経最大の美談として残ったのです。

義経奥州藤原氏を滅ぼし、全国を統一した頼朝が望む物は、「晴れ征夷大将軍」の位です。しかし、むかっ(怒り)後白河法皇とてこれを認めるわけにはいきません。独自の武家政権の確立は、朝廷権力の崩壊を招きかねないからです。むかっ(怒り)法皇はこの期におよんで。頼朝権大納言、さらに右近衛大将に任じ、公卿政権の内部に取り込もうとしましたが、頼朝はすぐに辞退します。

こうした朝廷と武家の頂点同士のせめぎ合いは、1192(建久3)年3月13日、むかっ(怒り)後白河法皇が病により、66歳で崩御することで幕を閉じます。4ヶ月後の7月20日に。頼朝は念願の「晴れ征夷大将軍」に任じられました。これが一般に知られる演劇鎌倉幕府の成立です。

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ニックネーム ちこりん at 23:17 | Comment(6) | TrackBack(3) | ●後白河法皇●

2005年06月25日

●後白河法皇●〜皇位継承争いと無類の暗王

むかっ(怒り)後白河法皇(雅仁【まさひと】親王)は、1127年(大治2)年に鳥羽上皇の第四子として生まれました。母は待賢門院璋子(しょうこ)で、当時天皇だった崇徳は実兄にあたりますが、実は崇徳霧鳥羽院の子ではなく、祖父小雨白河院の子であったと言われています。

1129(大治4)年、祖父小雨白河院が崩御したため父霧鳥羽院が権力を掌握。小雨白河院と関係の深かった待賢門を遠ざけて、美貌と才知で名高かったキスマーク美福門院を寵愛し、生まれた躰仁(なりひと)親王をすぐさま皇太子にしました。さらに二年後には崇徳天皇を強制退位させて、幼い皇太子を手(グー)近衛天皇として即位させるなど、祖父小雨白河院に劣らないほどの専制ぶりを発揮。この時点でむかっ(怒り)雅仁親王の即位など本人はもちろん周囲の誰もが予想しませんでした。しかし、1155(久寿2)年に、手(グー)近衛天皇が崩御したことで状況は一変します。

手(グー)近衛天皇には子がなく後継者問題をめぐって、むかっ(怒り)雅仁親王の子守仁(もりひと)親王を推す父霧鳥羽院と、我が子重仁(しげひと)親王を推す兄崇徳上皇が対立。結局、聡明な守仁親王が皇位継承者と決まりかけましたが、今度は父のむかっ(怒り)雅仁親王が健在なのにかかわらず、即位させることは不適当だという異論が出されたため、急遽、中継ぎとしてむかっ(怒り)雅仁親王が即位することになります。これがむかっ(怒り)後白河天皇というわけです。この時むかっ(怒り)後白河天皇は29歳。当時は幼帝が一般的であったので、この即位は異例でした。

しかし、この頃のむかっ(怒り)後白河天皇と言えば、今様や朗詠などの遊芸にうつつを抜かすなど、天皇の器にふさわしくない生活を送っていました。そのため、父や兄からの評価は非常に低く、むかっ(怒り)後白河天皇誕生の実現者である藤原信西でさえ、その遊興生活ぶりに、「無類の暗王」と酷評するほどだったと伝えられています。

hojuji-01.jpg【法住寺】
不動が身代わりになり法皇を救った身代わり不動明王の信仰で知られています。
ニックネーム ちこりん at 12:15 | Comment(2) | TrackBack(2) | ●後白河法皇●