後白河法皇(雅仁【まさひと】親王)は、1127年(大治2)年に鳥羽上皇の第四子として生まれました。母は待賢門院璋子(しょうこ)で、当時天皇だった
崇徳は実兄にあたりますが、実は
崇徳は
鳥羽院の子ではなく、祖父
白河院の子であったと言われています。
1129(大治4)年、祖父
白河院が崩御したため父
鳥羽院が権力を掌握。
白河院と関係の深かった待賢門を遠ざけて、美貌と才知で名高かった
美福門院を寵愛し、生まれた躰仁(なりひと)親王をすぐさま皇太子にしました。さらに二年後には
崇徳天皇を強制退位させて、幼い皇太子を
近衛天皇として即位させるなど、祖父
白河院に劣らないほどの専制ぶりを発揮。この時点で
雅仁親王の即位など本人はもちろん周囲の誰もが予想しませんでした。しかし、1155(久寿2)年に、
近衛天皇が崩御したことで状況は一変します。
近衛天皇には子がなく後継者問題をめぐって、
雅仁親王の子守仁(もりひと)親王を推す父
鳥羽院と、我が子重仁(しげひと)親王を推す兄
崇徳上皇が対立。結局、聡明な守仁親王が皇位継承者と決まりかけましたが、今度は父の
雅仁親王が健在なのにかかわらず、即位させることは不適当だという異論が出されたため、急遽、中継ぎとして
雅仁親王が即位することになります。これが
後白河天皇というわけです。この時
後白河天皇は29歳。当時は幼帝が一般的であったので、この即位は異例でした。
しかし、この頃の
後白河天皇と言えば、今様や朗詠などの遊芸にうつつを抜かすなど、天皇の器にふさわしくない生活を送っていました。そのため、父や兄からの評価は非常に低く、
後白河天皇誕生の実現者である
藤原信西でさえ、その遊興生活ぶりに、「無類の暗王」と酷評するほどだったと伝えられています。
【法住寺】不動が身代わりになり法皇を救った身代わり不動明王の信仰で知られています。