ですが荘官をふくむ、志賀島の人々が、領家に進めるべき貢納物は、年貢米だけではありません。
預所自身、おそらく領家の求めに応じて、たとえば二尺口の茶碗鉢であるとか、鰺の塩辛などの入手方につとめたことが、報告書の中に記されています。これらの品々は、貢納物というよりは、むしろ贈与の境界内にあって、進済量や品目に関する規定はなく、ときどきの領主側の注文に荘官がこたえて奔走する、というのが基本的な状況だったようです。鰺の塩辛や茶碗鉢は、たとえ入手できなくても「未進」扱いにはならないのでしょう。
貢納と贈与の堺は、からずしも判然としなくて、後者が前者を包み込んでいるような印象ですが、後者の層が厚いほど、上級領主の荘支配は安定性を増し、志賀島のもっている王家領荘園としての基盤は、モンゴル来襲を経て、なお健在であった・・・と言えるでしょう。
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