2008年07月14日

境界領域の島々〜さまざまな貢納品(3)

年貢は、荘の惣田数から、荘の鎮守社に寄進された田や、荘官たちの給田、または不作や荒廃田を差し引いた田数を基準として課せられます。
ですが荘官をふくむ、志賀島の人々が、領家に進めるべき貢納物は、年貢米だけではありません。
2海人たちの進物は、その代表例で、これは一般に「公事物」と呼ばれます。関東御公事のように、御家人知行の田数を機銃とする公事もありますが、志賀島の場合、たとえ「恒例」であっても、海人たちの採る魚貝類や海藻を、田数に換算する試みは、なされなかったでしょう。

預所自身、おそらく領家の求めに応じて、たとえば二尺口の茶碗鉢であるとか、鰺の塩辛などの入手方につとめたことが、報告書の中に記されています。これらの品々は、貢納物というよりは、むしろ贈与の境界内にあって、進済量や品目に関する規定はなく、ときどきの領主側の注文に荘官がこたえて奔走する、というのが基本的な状況だったようです。鰺の塩辛や茶碗鉢は、たとえ入手できなくても「未進」扱いにはならないのでしょう。

貢納と贈与の堺は、からずしも判然としなくて、後者が前者を包み込んでいるような印象ですが、後者の層が厚いほど、上級領主の荘支配は安定性を増し、志賀島のもっている王家領荘園としての基盤は、モンゴル来襲を経て、なお健在であった・・・と言えるでしょう。

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2008年07月13日

境界領域の島々〜さまざまな貢納品(2)

さて、志賀島を預かる荘官と領家は、年貢の納入額をめぐって、前年来、一種の緊張関係にあったようです。

補任権をもつ領家のまえに荘官が折れた結果、報告書3にいう「未進分」が生じたもので、荘官は、これを現物ではなく現地の市で米を銭貨に換え、京都へ送りました。一石あたり四升の「雑用」もさることながら、去年分の年貢を今年取れた米で納めることは、荘官、領家ともになじまなかったのでしょう。荘支配にかかわる諸用途は、訴訟費用もふくめ、荘年貢の中から捻出されるのが、当時の習わしで(これを立用【りょうよう】と言います)、もしも土蔵を新たにたてるならば、あらかじめ領家の承認を得なければなりません。4における「御指合」とは、。そのような意味です。

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2008年07月11日

境界領域の島々〜さまざまな貢納品(1)

志賀島の年貢は、米です。
本米」を箱に詰めるのは、俵に穴を開け、中身を抜き取る不心得者がいたからです。報告の1に言っている一石あたり四升の「雑用」を考えれば、この時代に物質運送の困難さがしのばれます。

積荷の扱いや、航路の選択は、すべて「梶取(かんどり)」とよばれる船の指揮者にゆだねられていて、乗組員の生命の安全も含め、無事に京都の荘園領主のもとにゆきつけるかどうかは、その判断一つにかかっていました。
現地から領家方に差し出される「送文」には、品物の量や種類とともに、梶取の名を記すことが、とくに求められたほどだそうです。荘園の検注帳のたぐいに、しばしば梶取の給田(梶取給といい、荘園領主の収むべき年貢が、そのまま与えられる)が見出されるのは、以上の事情によります。

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2008年07月10日

境界領域の島々〜志賀島代官の報告書(4)

かつてこの島を襲った惨劇の記憶は、四半世紀の年月の中に埋もれてしまったのでしょうか。

代官の報告書は、いちめんの田地に稲穂が実りつつある様を、あきらかに伝えていますが、島に、はたして年貢のかけられる「公田」が、どれほど設定されていたか、はなはだ心もとない感じです。博多湾の後背地をなしている荘公領は、第二次モンゴル来襲を戦った人々の恩賞地となりますが、そのひとつ、筑前野介庄は、荘民をもたず、他の荘公領から言ってみれば入作地が荘田の大部分を占めていたと言われています。
この証言によって見ると、志賀島の住民は、博多湾の背後にひろがる荘公領に出作し、それらの耕作地(名田)は、野介庄の場合とは逆に、志賀島の荘域と見なされたのではないでしょうか?

ほぼ同じ時期に、モンゴル領済州島の島民たちは、高麗領珍島の田作を耕作していたことが知られています。

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2008年07月09日

境界領域の島々〜志賀島代官の報告書(3)

13世紀最後の五年間にいたり、対蒙古の戦闘体制はようやく解かれましたが、来襲の脅威はなお去らず、薩摩沖に兵船が現れたり、鎮西諸国の社から怪異が相次いで伝えられたりする始末でした。

そのような状況下、志賀島では、京下りの荘官が現地を支配して、年貢米を、または銭貨に換え、または現物のまま、送り出していたそうです。
南北朝時代の初期、志賀島は、足利将軍家に代わって鎮西支配をおこなる人物の直轄領として史料上に現れているようですが、この報告書は、地頭あるいは守護所について、まったく言及するところがないです。博多湾を守る蟹のはさみは、恐らく鎮西探題府の領域支配圏の外にあったのでしょう。

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2008年07月06日

境界領域の島々〜志賀島代官の報告書(2)

14世紀のはじめ、志賀島代官が京都の領家にあてて書き送った報告者があります。

1御年貢「本米」は、御指示のとおり、箱に納めてお送りいたしますが、ところどころに設けられた関所の通過料を別にいたしましても、一石当たり四斗の「雑用(ぞうよう)」がかかってしまいます。さまざまに手段を尽くしまして、一石当たり三斗で済むようにいたしました。御不審がありましたら、鎮西諸国の荘園を知行する方々にお尋ねください。
2志賀島の海人たちの「恒例」進物につきましては、すでにお送りいたしました。品目及び数量の報告書を別紙にてお届けしておりますので、御受取をいただきたく存じます。
3現在(8月下旬)は、米が安く銭が高い状況になっておりますが、去年の未進分につきましては、とくに夏和市(米が高く銭が安い)のレートで銭に換えて送らせていただきました。
4御領の作毛は、現在に至るまで損亡がありませんので、よろこんでおります。このところ、御米を納める土蔵の造作にかかっておりますが、少々「御指名(さしあい)」に預かることはかないませんでしょうか。また御報告いたします。

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2008年07月03日

境界領域の島々〜志賀島代官の報告書(2)

日本列島の境界領域は、南(坊津おとび薩南諸島)、北(津軽、糠部郡)いずれも、北条嫡流(得宗)家の所領で埋められていましたけれども、ここ西の境界は、五島列島といい、あるいは志賀島といい、鎌倉時代が最後の30年をむかえるころになっても、得宗もしくは他の北条氏一門領の設定された形跡は見当たりません。

ちなみに、筑前宗像社は1302(乾元元)年、鎌倉の得宗公文所の直接支配下に入っています。

付近一帯の海が、ふるくから天皇家の荘園であったことが関連しているのかもしれません。

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2008年07月02日

境界領域の島々〜志賀島代官の報告書(1)

ぴかぴか(新しい)シオマネキという蟹がいます。片方のはさみが極端に長くて、頭上に掲げながら小刻みに動かすのでそんな名前がつたそうです。
博多湾は、この蟹とよく似た形をしていて、長い右のはさみの先が、志賀島(しかのしま)に相当します。島とは言っても、潮が引けば海中に隠れていたはさみの枝が現れて(これを海の中道というらしい)、香惟宮(かしいのみや)方面と地続きになります。

1281(弘安4)年6月、鎮西御家人たちははさみの枝を駆けて、志賀島のモンゴル軍との間に激しい戦闘をくりひろげました。島には、蒙古塚が残っています。
この地は、鎌倉時代を通じて、天皇家を「本家」と仰ぐ、言ってみれば王家領荘園であって「領家」の代官が現地に居住して、モンゴル来襲後も、地頭方の掣肘をうけることなく、荘支配をおこなっていたそうです。

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2008年07月01日

境界領域の島々〜地頭代から地頭への書状(5)

最後(第十二)の書状に登場する智光房(ちこうぼう)なる人物は、覚円のライバル(別の地頭)として浦部島に送り込まれながら、じつは守護所の意を受けていたらしいです。

覚円は、智光房が「府」つまり肥前国守護を兼ねる小弐氏の根拠地(大宰府)へ宛てた報告書をうつしとり、地頭の許へ送りました。「ただ申し上げただけでは、信じてくださりそうもないので、このようにいたします。智光房の正体をご存じないまま、浦部島の公事をお任せになり、わたくしを失おうとなさいましたのは、よくよくの不思議と存じます」。

地頭のうかつさを嘲笑する、この書状がすぐに破棄されず、曽孫の代まで伝えられたことこそ、まことに不思議・・・というほかないです。

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2008年06月30日

境界領域の島々〜地頭代から地頭への書状(4)

覚円は、紙すきの職人を手許に置いて召し使っていました。

第七の書状は、この職人(覚円は「下人」とよんでいる)が同僚と争い、突き殺してしまたため、身柄を拘禁されたことを伝えています。
「これにては力及ばで、え留めず候」というからには、浦部島から別のところへ移されたのでしょう。殺害人の逮捕は、ところの地頭の権限ではありますが、覚円は「然るべく候はば、請け留めせしめ給ひて、入道に給ふべく候(できることなら職人の身柄をとりもどして、私にお返しください)と貞の曽祖父(地頭)の許しというよりは、むしろ仲介をもとめており、浦部島の検断権の、すくなくても一部分は守護所によって掌握されていた可能性があります。

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2008年06月29日

境界領域の島々〜地頭代から地頭への書状(3)

第四の書状で、覚円は「御墓寺の用途銭」二貫文と塩一石を送りました。

前者は、地頭の要求によるもので、菩提寺の費用負担は、主人が従者に課す「御公事」の範疇に含まれるようです。第五の書状では、おそらく京都大番役を終えて帰国した貞の曽祖父に、なかなか挨拶に出向けないことを詫び、紙二十帖、「津料」の銭一貫文、イノシシ肉の塩漬けの桶一つ、おなじく鹿肉一桶、鹿皮五枚を贈っています。
ただし、「津料」は、浦部島に寄港する貿易船から取り立てる「前分」であって、覚円は、地頭から徴収権を与えられていたようです。

第六の書状では、恐らく津料徴収権につき「御恩を蒙る」ため、二貫文の銭が進められたそうです。これを「任料」と言います。

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2008年06月27日

境界領域の島々〜地頭代から地頭への書状(2)

地頭が、地頭代に課す、基本的な貢納物は、麦(麦地子【むぎじし】、公事物の一部かも)です。現実とは必ずしも合致しない課税対象地(名【みょう】)が、年ごとに設定される形をとったようです。麦地子のほかにも、浦部島と鷹島の間には、さまざまな物品がゆきかいました。

第二の書状で、青方覚円は、地頭に対し「夏狩」によって得た鹿皮5枚を進めています。これは「皮員」、つまりなめした皮であって、他にも「毛地串」十連が送られました。鹿もすくなくなりました・・・。今年は「公事」が多く、百姓も島を去るものが目立つ、と覚円は述べていますが、第三の書状の「あなたの仰せで平八と弥三郎がやってきて、二、三十日間の間、狩をつづけた上に、また、目代が下ってきて、双方の公事が重なり合っております」というコメントをみてみると、地頭の郎党だちばかりでなく、守護所あるいは国衙の使者も、何年かに一度は、小値賀島を訪れたのかもしれません。この書状で覚円は「地頭殿」に対し、米と腹病治療のための、よき薬酒をもとめました。

第九の書状は、酒一個と籾種二斗1升が与えられたことを記しています。

後者は、地頭による勧農権(春の初め、地頭が耕作者をまねいて籾を貸与する。第九の書状は、2月9日付け)の行使でしょうか。

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2008年06月25日

境界領域の島々〜地頭代から地頭への書状(1)

「存じのほかなる由の御使、給て候事こそ心得候はね」と、第一の書状は書き起こされます。

青方入道(法名を覚円)は、鷹島に子息を1,2人送り、地頭に使えさせていたそうです。その子息が、何か地頭の気に入らない振る舞いをしたため、問責の使者が小値賀島を訪れました。覚円は、「御式条」を引き、自分が責めを負ういわれのないことを力説します。

親が僻事をしても、現場に居合わせなかった子に罪をかけてはならず、また、子が僻事をしても(僻事にかかわっていない)親に科(とが)うぃ及ぼしてはなりません。そのように承っております。具体的な状況を尋ねもせず、ひたすら責め立てる御使は、見苦しゅうございます。

ここに引用された「御式条」は、たぶん【御成敗式目】第十七条、承久の乱に宮方に加わった御家人への罪科を規定した中にある「ただし、父子の間が著しく離れており、音信を通じ合った形跡がなければ、宮方に加わった罪を及ぼすのは難しい」でしょう。
鎌倉幕府の発する法が、個々の場合に即して読みかえられつつ、受容度を強めてゆく状況は永仁徳政令の伝播の際、顕著に認められるけれども、覚円の抗議は、すでにそのような幕府法受容のあり方を示す、と言ってもいいでしょう。

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2008年06月24日

境界領域の島々〜「青方文書」の世界ー鎮西御家人内部の断層(3)

14世紀はじめ、平戸松浦氏の当主、峯藤五貞は、半世紀前、敵方の白魚九朗入道行覚(ぎょうかく)の祖父、青方入道が、貞の曽祖父に書き送った書状12通を提出し、もって白魚氏の御家人身分事態を否定しようとしました。
書状中の青方入道は、地頭、貞の曽祖父の代官として浦部島を預かっている印象が強く、
地頭代が地頭を幕府法廷に訴えることは、できないからです。

地頭側にとって、切り札と見えた、これらの書状は、意外にもたいした証拠能力を認められず、1315(正和4)年6月、浦部島は白魚氏に事実上安堵されたそうです。おそらく、探題府はいやしくも御家人身分にかかわるがごとき問題に、私状を援用することを好まず、幕府の下知状などから帰納しえる理論によって、争いに結着をつけようとしたのでしょう。ですが、青方入道が鷹島在住の「地頭殿」の許へ差し出した、12通の書状は、日本列島中、もっとも大陸に近い地の、モンゴル来襲直前の様子を、生き生きと伝える好素材となっているそうです。

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2008年06月23日

境界領域の島々〜「青方文書」の世界ー鎮西御家人内部の断層(2)

浦部島は、五島列島のほぼ中央部、小値賀島(おじかじま)の一部をなしていて、開発領主の系譜を引く青方(白魚)氏と、宇野御厨全体の執行(預所兼地頭)として、この地の領域支配をめざす平戸松浦氏との間に相論が絶えませんでした。
ひとしく鎮西の海に生きる武士団でありながら、後者は東国御家人とまったく同じ立場に立ち、前者の支配圏への侵入をはかるのです。

争いは鎌倉の法廷に持ち込まれ、また松浦党の別のメンバーがあらたに小値賀島全体の領有権を主張するなど長期化し、モンゴル来襲後も延々と続けられたそうです。
弘安の第二次来襲の際、小値賀島も、また平戸松浦氏の居住地(鷹島)も、モンゴル軍に占領され、大きな被害を蒙ったはずですが、両者が鎮西探題府に差し出した、何十通といおう訴状の中に、モンゴルに関する言及を見出すのは難しいようです。

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2008年06月20日

境界領域の島々〜「青方文書」の世界ー鎮西御家人内部の断層(1)

肥前国の西に広がる海は、古来、宇野御厨という天皇家の荘園です。

海面や川の流れ自体が、一つの単位所領となるのは、他にも事例があって、例えば越後国の北部、国境近くを流れる荒川は、鎌倉時代、荒川保と呼ばれる国衙領であり(保司は、政村流北条氏の有力被官。主君が六波羅探題のとき、検断頭人をつとめ、探題の任が満ちると、今度は国務の代行者として、荒川保を知行したらしい)、平安京を北ら南に流れる堀川は、十世紀半ば、祇園社に寄進されて神領となりました。

丹波国の山々からきりだした木材を堀川の流れに浮かべる商人たちは、従って、祇園社の神人(じにん)というわけです。
肥前に伊万里から平戸(島)、五島列島の島々に至る海面は、松浦党とよばれる、海の武士団の勢力圏であって、彼ら松浦党のメンバーこそ、宇野御厨(松浦庄)の中心的存在であったのでしょう。天皇家のため、牛を育てる責務をもつ松浦党の人々は、東国御家人に準じている存在となりました。松浦党の勢力圏が、例えば筑前宗像社や薩摩入来院のような状況に至らなかったゆえんです。鎮西御家人としては異例の、この幸運は、しかしながら、松浦党と他の現地住人とのあいだの争いの火種となってしまいます。

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2008年06月18日

境界領域の島々〜対馬国司、守護所と争う(5)

銀の採掘者に、粮米をあたえるのは、国司の任務でした。

そうである以上、対馬島の銀山は、国司の管轄下にあって、また島を根拠地とする海民や浦々の人々の支配権も、国司が握っていたはずです。鎌倉時代の対馬は、全島が一個の地頭職として、守護少弐氏の知行の客体となっていたそうですが、国司の権限はなお健在で、着岸料(前分)にしても、ただ得分を受け取るだけでなく、「前分」取立てに至るもろもろの手続きに、自らの代官が守護代と対等な立場で加わることを求めています。

1278(弘安元)年4月、朝廷は、焼失したままになっていた東寺(教王護国寺)五重塔の修繕料所として対馬島を選びました。この決定は「正税無実」つまり年貢がモンゴル来襲への備えに投入されたため、現実的な力を生じるには至らなかったようです。ですが、異国警固の最前線に、朝廷がなお支配圏を維持し続けたことは確か・・・と言えます。

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2008年06月16日

境界領域の島々〜対馬国司、守護所と争う(4)

弘安10年は、第二次モンゴル来襲から6年しか経ていません。島内には、戦いや残虐行為の痕跡が、至るところに残っていたでしょう。

そのような状況下「唐船」の寄港を国司申状は当然視します。申状は「条事定」という朝廷の儀式で読み上げられる、いってみればテクストであり、内容自体をモンゴル来襲以前の「古文書」と見なすこともできますが、第一次モンゴル来襲(文永の役)の数年後、執権北条時宗が貿易船に信書を託して禅僧をまねいた前例もあり、弘安10年のころの対馬島に「唐船」が寄港した可能性は否定しがたいものがあります。

モンゴルとの戦いは、人々の心に大きな恐怖心をのこした、と推測されますが、境界領域での交流自体は、最も深刻な痛手を蒙った地域であるにもかかわらず、早い時期に回復されたのではないでしょうか。

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2008年06月14日

境界領域の島々〜対馬国司、守護所と争う(3)

「当国は田地をもちませんので、船に乗って商売をするものたちが、浦々に着岸いたしましたとき、かれらから「前分」を取り立て、それを大宰府への「済物(さいもつ)」にあてておりました。
ところが、最近、当国の守護所は、着岸船に対する取立てに国司方を介在させようとせず、すべて自分のものにしております。どうか、大宰府の使も、当国の守護所も、国司の承知なしにかってな行動をするものを差し止めていただきたい。
とくに「唐船」着岸の時、徴収する「前分」につきましては、国司が守護人に対し対等の立場にあることを、朝廷の正式な手続き(宣下)によってしめしてくださいますよう、謹んでお願い申し上げる次第です。」

国司は、ふたつの状況に対し、抗議を行っています。
一つは、守護所が着岸船からの「前分」徴収をとりしきっていること。もう一つは、そのため「済物」が整えられず、大宰府の使が「済物」を求めて対馬島に立ち入って来ること、です。

鎌倉時代の大宰府は、小弐氏による在庁官人の掌握がすすみ、丹波、播磨両国と同じような状況になっていました。ですが、最近、若狭熊野社で発見された文章によって、現地を統轄する小弐氏上に、いってみれば知行国主のような形で、京都の上級貴族の得分権が設定されていたことがわかりました。「済物」を求めて対馬島に赴いたのは、この上級貴族の使者でした。

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2008年06月12日

境界領域の島々〜対馬国司、守護所と争う(2)

第二条は、他国、北九州の沿岸地域からやってくる海民のために、対馬島の漁場が荒らされていることを訴え、しかるべき取締りを要求する。
第一条といい、また第二条といい、いすれも現地の状況をリアルに伝える良い史料ですが、特に第三条は、同国のうえに交錯する、二つの統治権のありかに触れた何行かがあり、より大きな価値を持つものと思われます。その内容のあらましというのが下記のようになっています。

当国は田地をもちませんので、船に乗って商売をするものたちが、浦々に着岸いたしましたとき、かれらから「前分」を取り立て、それを大宰府への「済物(さいもつ)」にあてておりました。ところが、最近、当国の守護所は、着岸船に対する取立てに国司方を介在させようとせず、すべて自分のものにしております。どうか、大宰府の使も、当国の守護所も、国司の承知なしにかってな行動をするものを差し止めていただきたい。
とくに「唐船」着岸の時、徴収する「前分」につきましては、国司が守護人に対し対等の立場にあることを、朝廷の正式な手続き(宣下)によってしめしてくださいますよう、謹んでお願い申し上げる次第です。

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2008年06月11日

境界領域の島々〜対馬国司、守護所と争う(1)

1287(弘安10)年7月、朝廷のある儀式で、三箇条からなる対馬国司(守)の申状が読み上げられていました。同国が京都の知行国主へ送る年貢は銀で、「粮米」を採掘者ったちに与えなくてはなりません。国内に田畑はなく、鎮西七ヶ国(南九州の三国を除き、壱岐国が入る)から国ごとに五百国ほどの米が送られるのをならわしとしていました(この叙述は、鎌倉時代の対馬国が、鎮西七ヶ国に、それぞれ百二三十丁ほどの荘園を設定していた、というに等しい)。

ところが、最近になって、これらの国々は「粮米」を送ろうとしません。どうか当国に、もとのごとく米を送るよう、とりはからっていただきたい・・・・これが第一条の趣旨です。

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2008年06月10日

境界領域の島々〜高麗国の浦々を襲う武士団(4)

肥前守護職が、夜討人たちの帰還後、ただちに身柄と略奪品を押さえようとしたのは、大宰府(肥前の守護は大宰府を管轄する小弐氏の当主)と高麗の施政者の間に、このような事件について、ある種の了解(連絡)があった可能性をさししめしています。

まもなく、高麗は、モンゴルの侵略に直面し、国土の大部分を割きとられて、苛酷な支配下にしたがうことを余儀なくされますが、松浦党に代表される、筑、肥の国々の武士団は、依然として国境の海を出入りしていたでしょう。「複雑化する領域支配圏」をしめくくるものとして、境界領域に半ば含まれるような地、やがて何百、何千という異国の軍船に囲まれて、多くに人々の生命が失われる地の状況について次回は見ていきます。

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2008年06月08日

境界領域の島々〜高麗国の浦々を襲う武士団(3)

肥前鏡社の実体は、すでに明らかですが、社の本所は、幕府自身であって、なので守護所は、社を根拠地とする武士団に手をつけることが、できないです。
摂津多田院の御家人たちのように、彼ら鏡社の武士団(松浦党のメンバーかも)は、根拠地に備わる特権(不入地)のもと、北九州の海に乗り出し、境界領域の彼方の浦々を襲い、海賊行為をはたらきました。

この時代、とくにモンゴル来襲後「悪党」とよばれる人々が、いっせいに姿を現してくるような考え方が漠然とおこなわれていますが、「悪党」がれっきとした御家人である場合でも、決して少なくありませんでした。


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2008年06月07日

境界領域の島々〜高麗国の浦々を襲う武士団(2)

守護所の注進に接した鎌倉幕府は、預所の言い分を非とし、容疑者と、かれらの乗っていた船、そして高麗国から奪い取ってきた品々を、ことごとく守護所の召し渡すべきむね、隠岐左衛門入道(政所執事、二階堂の一族)に命じます。

おそらく夜討に加わった武士や略奪品は、社と外界との境界(おそらく上海)で守護所の使の手に委ねられていたに違いありません。

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2008年06月06日

境界領域の島々〜高麗国の浦々を襲う武士団(1)

だいぶ、体調がよくなりました。記事を続けようと思います。

肥前国に鏡社という神社があります。

筑前宗像社と同じく、多くの社領をもち、一つの荘園と目すべき存在でした。この地は、肥前平戸から筑前今津へと連なる、長大な海岸線の只中に位置していて、海の武士団が社領に居住し、活発な活動を行っていたようです。

御成敗式目が制定された年の秋、かれらは対馬海峡をこえて高麗国の沿岸地域に「夜討」をかけ、たくさんの珍宝を盗み取りました。犯行は、ただちに肥前国の守護所の知るところとなり、容疑者の身柄を押さえるため、守護所は鏡社へ申し入れを行いました。
高麗国での「夜討」に、検断権を行使しようとしたのです。ですが、守護所の企ては、たやすく実現しません。社の預所は、「守護の沙汰を交ふるべからず」として、申し入れを拒んだからです。

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2008年06月04日

「不入地」をめぐる状況〜宗像社大宮司、六波羅職員となる(6)

幕府職員の中には、西国の幕府荘園領に本領をもつ者が、散見されます。

肥前の安富の他にも、紀伊の雑賀、阿波の飯尾がそうで、モンゴル来襲のころの宗像大宮司長氏(氏業の嫡子)は、やがて六波羅奉行人宗像左衛門尉長氏として、訴訟関係史料中に痕跡が残っているそうです。西国出身者でありながら、かれらは「鎌倉中」の人々にたち交わる存在となりました。

眼前の敵に対抗するため、より大きな力の庇護に走る・・・。鎌倉幕府の西国支配は、このような動きも織り込みつつ、次第に求心性を強めつつあったようです。
来るべきモンゴルの来襲は、幕府の西国支配の進展度を問う、試金石となるでしょう。

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2008年06月02日

「不入地」をめぐる状況〜宗像社大宮司、六波羅職員となる(5)

1287(弘安10)年、不思議な事件が起きます。

安富氏の年貢未進を、預所は、鎮西探題の前身機構(鎮西談議所。大友、小弐の両人と阿東国出身者で、かつ北条嫡流家の家人に準じている二名による合議体)に訴えましたが、談議所は、「本人が鎮西に戻ってくるまでお待ちください」という留守のものの回答を受け入れて審理を見送ったのです。
文永2年から弘安10年までおよそ20年・・・。この20年の間に、安富氏の支配圏は強化され、預所の立ち入りを許さない「不入地」となっていたのであって、それは、鎌倉幕府内部の序列で、安富氏が、預所に肩を並べるほどの位置に立った可能性を示唆するものでしょう。1269(文永6)年の関東引付(所務相論を担当する部局)には「安富民部三郎泰嗣(やすつぐ)」なる奉行人の存在があるようです。

幕府領の住人は、幕府職員となることによって、自らの本領を守り抜いていたようです。

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2008年05月31日

「不入地」をめぐる状況〜宗像社大宮司、六波羅職員となる(4)

肥前雲仙岳のふもと一帯も、旧平家領(鬼界ヶ島に流されたちっ(怒った顔)平教経の婿丹波少将成経の生活は、この地に広がる平家領荘園によって支えられました)として鎌倉幕府の支配下に入り、現地住民安富氏は、幕府草創期、武蔵国から乗り込んできた預所の圧倒的な力の前に、次第に勢力圏を奪われながら、苦闘を続けます。

1265(文永2)年、預所の郎党たちは、年貢取立てを理由に安富氏の屋敷地まで侵入し、殺傷行為に及びました。状況は安富氏にとってほとんど絶望的と見え、御家人身分すら失われる危険性がありました。

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2008年05月30日

「不入地」をめぐる状況〜宗像社大宮司、六波羅職員となる(3)

宗像社に対する預所の支配は、次第に厳しさの度を強め(三浦氏の有力な家人が現地に派遣され、独自の支配機構を形成していたようですが)、社家側の支配圏にまで踏み込んでくるようになりました。社に伝わる記録によると、氏国の後継者、氏業(うじなり)は関東へ下り、幕府法廷にて、三浦泰村と対決したようなのです。

あきらかに道理は社家方にあるにもかかわらず、預所側は権威をもって訴人をねじ伏せ、氏業の願いはかないませんでした。しかし、ここに一大転機が訪れます。目宝治合戦がそれです。

泰村を指導者とする三浦一族が滅亡したため、宗像社の現地勢力は、辛くも危機を脱することができたのでした。もしも、目宝治合戦が起こらなかったならば、恐らく、預所三浦泰村が大宮司職を兼帯する、関東にとってより高次の支配が、宗像社領のうえに出現したでしょう。合戦当日、氏業は自ら戦場に出、三浦氏の族滅に力を尽くしました。たぶん敗訴後も鎌倉にとどまっていたのでしょう。それは、東国御家人の支配に耐えてきた者の復讐戦でしたけれど、氏業の戦いが、より巨大な力のもとに実現したことも、また確かでしょう。

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2008年05月28日

「不入地」をめぐる状況〜宗像社大宮司、六波羅職員となる(2)

御成敗式目制定の前年、後継者問題に直面した彼は、鎌倉に赴き、訴を幕府当局(問注所)に提起しますが、それに先立って、預所父子のりょう解を得た形跡があります。


当時、三浦義村、泰村父子は、大庭御厨の西、相模国のほぼ中央を占める要衝、田村の地を手に入れ、相模川右岸の高台に広大な屋形を構え、夏秋のあいだは、そこにいたらしいです。
宗像社の大宮司は、おそらく、三浦氏の相模国支配の拠点として、この別荘を、いくたびか訪れたことでしょう。


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2008年05月26日

「不入地」をめぐる状況〜宗像社大宮司、六波羅職員となる(1)

承久の乱は、朝廷に対する、幕府の優位を決定的にしたばかりでなく、首謀者やそのその側近たちを本所にいただく、多くの荘園を関東にもたらしました。その数は、旧平家領を凌駕するとも言われています。
幕府が地頭職とともに、荘園領主側の職の補任権をも握って、一元的な支配をおこなう地は、とくに西国の国々に、いちだんと緻密性を増していきました。

筑前宗像(むなかた)社は、このとき幕府領となり、北条氏に比肩する有力者、三浦義村、泰村父子が預所に補任され、社および筑前国中にひろがる社領を支配にありました。関東に権威を背に負う彼らに対抗することは、極めて困難でした。宗像社の人々、なかんずくブティック大宮司氏国(宗像社地頭と見てみいいです)は、当初、新預所に接近し、その意をむかえることによって、預所のめざす一円支配を、すこしでも緩和しようと努めました。


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2008年05月25日

「不入地」をめぐる状況〜西国に分布する幕府領荘園(4)

平家領荘園の荘官たちは、一門の人々の家人であった事例が、少なくありません。かれらは一の谷に、屋島に、そして壇ノ浦に戦い、捕らわれ、あるいは本領へ逃げももどりました。
鎌倉幕府は、かれらの地位を、そのまま安堵する途を選ぶのですが、それは必ずしも、かららが鎌倉幕府によって許されたことを意味することではありません。

肥後南西部の山間地、日向国との境界領域に広がる広大な平家領では、1192(建久3)年、設置された預所職が、幕府による荘支配の、ひとつの画期をなします。預所は、初代政所別当、大江広元でした。

以後は、ほぼ一世紀の間、歴代の預所(遠江笠原庄と同じく、守護の関係者は、一人もいない)は、開発領主の勢力圏に介入を試み、ついに地頭職を奪って自ら兼帯するに至ります。鎌倉時代の荘公領での基本的な力関係(地頭方が預所の勢力圏を侵害し、たとえば下地十分のような状況に立ち至る)とは全く逆のこの状況は、他の旧平家領のうえにも認められ、預所(北条氏一門やその他「鎌倉中」の有力者ばかり)による一元的な荘支配を幕府はめざしていた・・・と言っていいでしょう。

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2008年05月24日

「不入地」をめぐる状況〜西国に分布する幕府領荘園(3)

本家から預所に至る荘園領主たちは(下位者の職ほど職務の意味合いが強くなる)、皆朝廷方の人々で占めていて、鎌倉幕府が「左斜め下本所」となるゆえんが、イマイチはっきりしません。

現地の開発者たちを糾合して生まれた政権がなぜ最大の荘園領主たりえるのでしょう?

問題の鍵は「パンチ謀反人の遺領は、鎮圧者に与えられる」という中世社会の基本律にあるようです。つまり、草創間もない鎌倉幕府の首長は、平家追討の賞として、4、5百箇所にも及ぶ、平家領荘園の本所、領家となったのです。

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2008年05月23日

「不入地」をめぐる状況〜西国に分布する幕府領荘園(2)

荘園は、現地の開発者が、朝廷メンバーを名義人と仰ぐことによって、国衙支配圏から分離して成立します(成立主体が現任の国司とういう場合もあり)。

さて名義人ですが、宮廷社会内での各々の立場に即して、得分の一部を上級者へ寄進したり、または下位者に与えたりするうちに、現地からもたらされる上納分を、上は天皇家から、下は五位、六位の中下級の職員たちが分かち合うシステムが形成されていたそうです。

天皇や摂関家の得分権を本家職(ほんけしき)といい(女院領は、本家職の集積したものといえます)、本家の下に設定された権限を領家職(りょうけしき)と言います。このどちらかが荘官の任命権をもつ「本所」となり、預所を現地へ送って荘の支配につとめました。言ってみれば所務相論(土地をめぐる争い)の基本的なパターンのひとつは、預所の勢力圏に地頭(代)が食い込むことによって生じるといえます(もうひとつのパターンは、地頭一族の勢力争い)。

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2008年05月21日

「不入地」をめぐる状況〜西国に分布する幕府領荘園(1)

鎌倉時代の最大の荘園領主は、鎌倉幕府でした。と言うとちょっと驚きかもしれませんが・・・。

幕府(将軍家)が本所で、領家の地位にある荘園は、今日残る断片的な史料中から拾ってみるだけでも150を超え、女院領や摂関家のもとに集積された荘園群に比肩し、またはこれを上回る規模をもつそうです。

信濃諏訪社も、遠江笠原庄も、ともに関東が荘務権を行使する、幕府領荘園(関東御領)であり、国衙領を一国中に散在する大荘園と見れば、関東御分国、武蔵、相模国の郡や郷も、まったく同じ存在といえるでしょう。

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2008年05月20日

「不入地」をめぐる状況〜「悪遠江守」の誅殺から霜月騒動まで(4)

1一条次郎殿(甲斐国の名族、武田義信の嫡子) 
2十郎左衛門尉殿(相模三浦介の庶流、佐原十郎左衛門義連
3森入道殿(初代政所別当、大江広元の子、毛利西阿)
4中城介殿(執権相模守時頼の母の兄、秋田城介義景)
5城陸奥入道殿(義景の嫡子、陸奥守泰盛)
6潮音(ちょうおん)院殿(泰盛の妹、執権相模守貞時の母)
7当御代(秋田城介時顕)

鎌倉時代を通じて、都合八名の預所(惣自動)が、笠原庄を支配しました。
ですが、身を全うすることを得たのは、わずか三名にすぎません。五名は誅殺されるか、自ら命を絶っています。この間、笠原庄のうえをいくたびか、守護領となる機会がおとすれました。にもかかわらず、八名の中に、守護またはその関係者が一人も含まれていないのは、偶然ではありえないでしょう。おそらく、歴代の幕府首脳は、国司によって立荘され、国支配のための拠点として得る可能性をもつ、この荘に、守護所の支配が及ぶことを好まなかったのでしょう。遠江の守護人は、初代の六波羅探題、連署として、執権泰時の治世をたすけた、北条時房の一流でした。これほどの有力者の分国にさえ「不入地」のくさびは、しっかりと打ち込まれていて、鎌倉中後期での守護の領域支配は、幕府自身の意思により、発展をはばまれた・・・と言えるでしょう。

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2008年05月19日

「不入地」をめぐる状況〜「悪遠江守」の誅殺から霜月騒動まで(3)

1一条次郎殿(甲斐国の名族、武田義信の嫡子) 
2十郎左衛門尉殿(相模三浦介の庶流、佐原十郎左衛門義連
3森入道殿(初代政所別当、大江広元の子、毛利西阿)
4中城介殿(執権相模守時頼の母の兄、秋田城介義景)
5城陸奥入道殿(義景の嫡子、陸奥守泰盛)
6潮音(ちょうおん)院殿(泰盛の妹、執権相模守貞時の母)
7当御代(秋田城介時顕)

わーい(嬉しい顔)泰盛没落後、笠原庄の預所(地頭)職は、故相模国時宗の後室(貞時の母)の手に移ります。
6潮音院(ちょうおんいん)殿、とよばれるこの女性は、故わーい(嬉しい顔)泰盛の妹で、同荘は、没収地とはされず、なお安達家家領としての可能性を残したことになるでしょう。北条嫡流家の当主(得宗)の母は「大方殿」と称され、幕府政治にもかなりの影響力をもっていたことが知られるのですが、大方殿の所領もまたある種の特権を有していたようです。
大方殿領内に流れ込んでしまった木材を引き取るべく、連署の地位にある有力者が得宗家の公文所にかけ合ったところ、公文所の上級職員は「大方殿の公文所へ申し入れてください」と答えたとか。この事例で見ると、「大方殿」えお領主と仰ぐ笠原庄は、得宗家公文所から独立し、守護所の介入も許さない「不入地」であった可能性が少なくないです。時宗未亡人が1306(徳治元)年になくなると、笠原庄は、霜月騒動の際、同荘で自害した、城太郎左衛門尉宗顕の子、7秋田城介時顕(最後の得宗・北条高時の後見となる)に継承されていきます。

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2008年05月18日

「不入地」をめぐる状況〜「悪遠江守」の誅殺から霜月騒動まで(2)

1一条次郎殿(甲斐国の名族、武田義信の嫡子) 
2十郎左衛門尉殿(相模三浦介の庶流、佐原十郎左衛門義連
3森入道殿(初代政所別当、大江広元の子、毛利西阿)
4中城介殿(執権相模守時頼の母の兄、秋田城介義景)
5城陸奥入道殿(義景の嫡子、陸奥守泰盛)
6潮音(ちょうおん)院殿(泰盛の妹、執権相模守貞時の母)
7当御代(秋田城介時顕)

毛利西阿は、宝治合戦の当日、三浦本宗家に身を投じて自害しました。没収地となった笠原庄は、合戦の最大の功労者、4中城介殿、安達義景に与えられ(このとき相模毛利荘も義景の所領となったらしい。霜月騒動と呼ばれる弘安8年11月17日の合戦当日、義景の子、城十郎判官入道がユヤマ、つまり毛利庄の飯山観音にのがれたことから、そのように推測しました)義景卒去後は、その嫡子5城陸奥入道殿、つまり執権北条時宗の義兄として、モンゴル来襲前後の鎌倉幕府をささえた安達泰盛の所領となりました。1285(弘安8)年11月、泰盛は一門や支持者の人々とともに滅亡しますが(これが霜月騒動)、泰盛の甥の一人、城太郎左衛門尉宗顕(むねあき)は「遠江において自害」と伝えられています。泰盛の代官として、笠原庄の支配にあたっていたのでしょう。

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2008年05月17日

「不入池」をめぐる状況〜「悪遠江守」の誅殺から霜月騒動まで(1)

1一条次郎殿(甲斐国の名族、武田義信の嫡子) 
2十郎左衛門尉殿(相模三浦介の庶流、佐原十郎左衛門義連
3森入道殿(初代政所別当、大江広元の子、毛利西阿)
4中城介殿(執権相模守時頼の母の兄、秋田城介義景)
5城陸奥入道殿(義景の嫡子、陸奥守泰盛)
6潮音(ちょうおん)院殿(泰盛の妹、執権相模守貞時の母)
7当御代(秋田城介時顕)

ちっ(怒った顔)盛連は在京中、桂川の川面を活動領域としている桂供御人(かつらくごにん・供御人天皇家に直属する人々。漁民が多く含まれる)たちの保護者的な存在となるなど、関東の有力者としては目新しい行為がすくなくなかったようです。
そんな彼を、平安京の人々は「爆弾悪遠江守」と呼びました。

1233(天福元)年、御成敗式目制定の翌年5月、いったん関東にもどっていたちっ(怒った顔)盛連は、幕府当局者の制止にもかかわらず上洛を企て、ついに路次で討ち取られてしまいます。北条泰時の治世下、非命に倒れた、おそらくただ一人の有力御家人だったのではないでしょうか。彼の遺児たちは、今日の感覚からすれば不思議に感じたでしょうが、まずます北条嫡流家への傾斜を強めて、宝治合戦では、三浦本宗家の人々を離れ、北条時頼の許にかけつけます。が、笠原庄は、ちっ(怒った顔)盛連が討ち取られた時点で、三浦葦名氏の家領から失われ名簿の3森入道・・・つまり相模毛利庄を名字とする毛利季光(法名西阿)が、あらたに笠原庄地頭となったのです。

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2008年05月15日

「不入地」をめぐる状況〜国司が地頭を兼ねる荘園(4)

ブティック盛連は、北条嫡流家の当主と特別な関係にあったようです。

北条泰時は、若年のころ、三浦介義村の婿となり、嫡子時氏をもうけましたが、いつしか解消され、義村の女子は、ブティック盛連とのあいだに三人の子息を生みました。おそらく、東国の武士社会では、妻の許に夫が通う習慣がまだのこっていて、三浦、北条両氏の関係が損なわれることはなかったのでしょう。
承久の乱の後、六波羅探題となった若い時氏の後見役を、ブティック盛連は引き受けたようです。

藤原定家の日記「明月記」の1226(嘉禄2)年正月二十四日の条に、「さいきん上洛した遠江守なにがしは、探題(時氏)の母を妻としているそうだ。上洛は、関東の許しによるらしい」と記されていて、「関東」は、執権北条泰時の謂でしょう。
ここで注目すべきは、ブティック盛連が遠江守になっていたことであって、当時の笠原庄は、現在の遠江守を地頭に仰いでいた・・・と言えるでしょう。国司と笠原庄・二つの要素は、立荘後約70年の歳月を経て、再び一体化し、時期的に見て、いやみ房の兄が、遠江守の庁宣を得るべく赴いた地を、笠原庄の地頭政所に求める考え方も成立するかとおもいます。

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2008年05月14日

「不入地」をめぐる状況〜国司が地頭を兼ねる荘園(3)

1一条次郎殿(甲斐国の名族、武田義信の嫡子) 
2十郎左衛門尉殿(相模三浦介の庶流、佐原十郎左衛門義連
3森入道殿(初代政所別当、大江広元の子、毛利西阿)
4中城介殿(執権相模守時頼の母の兄、秋田城介義景)
5城陸奥入道殿(義景の嫡子、陸奥守泰盛)
6潮音(ちょうおん)院殿(泰盛の妹、執権相模守貞時の母)
7当御代(秋田城介時顕)

1一条次郎の笠原庄支配は、わずか3,4年で終わります。1184(元暦元)年6月、幕府の酒宴の席で、頼朝の命を受けた武士によって殺されたそうです。甲斐源氏の人々に対する鎌倉殿の猜疑心が背景にあり、駿河、遠江両国から、かれらは急速に排除されていきます。

2十郎左衛門尉義連は、三浦介義澄の弟。平家討伐戦に従い、ひよどり超の逆落としでは、大将軍の先陣をつとめ、和泉、紀伊両国の守護人となります。義連は、13世紀のはじめに没し、笠原庄でのその地位は、嫡子盛連に伝えられたでしょう。名簿の23の間に位置する人物です。

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2008年05月12日

「不入地」をめぐる状況〜国司が地頭を兼ねる荘園(2)

現在、荘の鎮守社に伝わる名簿を見ると、歴代の預所(地頭)たちが下記としてあげられます。

1一条次郎殿(甲斐国の名族、武田義信の嫡子) 
2十郎左衛門尉殿(相模三浦介の庶流、佐原十郎左衛門義連
3森入道殿(初代政所別当、大江広元の子、毛利西阿)
4中城介殿(執権相模守時頼の母の兄、秋田城介義景)
5城陸奥入道殿(義景の嫡子、陸奥守泰盛)
6潮音(ちょうおん)院殿(泰盛の妹、執権相模守貞時の母)
7当御代(秋田城介時顕)

最後の「当御代」という表現は、この名簿が、6潮音院の後継者、つまり鎌倉時代最後の預所(地頭)のとき、作成さたことを示します。1から7まで。いずれもそのときどきの幕府政治史に重要な役割をはたした人々ばかりです。彼らの軌跡をたどりつつ、幕府による佐原荘支配の状況を、できるだけ具体的に見てみることにします。

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2008年05月11日

「不入地」をめぐる状況〜国司が地頭を兼ねる荘園(1)

遠江国南部、遠州灘にのぞむ海岸線がゆるやかなアーチ型を描いて広がる、そのほぼ中央
に、笠原荘と言われる荘園がありました。

この荘は、12世紀の半ば、平治の乱の直前、遠江守となった平重盛によって、一つの郡が、そのまま立荘された経緯を持っていて、重盛自身を初代の本所、領家と仰ぐようで(重盛は陸中海岸南部や伊豆半島の相模国に隣接する地域の荘園領主でもあり、平家一門中、東国の国々の海ともっとも深い関わりをもつ人物でした。彼の死後、東国に反乱が起こるのは、恐らく偶然ではありえないでしょう)。

笠原荘での重盛の地位は、鎌倉幕府の首長(将軍家)に継承され、以後、鎌倉時代の終焉に至るまで、幕府有力者が預所、地頭両職を兼任して荘の支配にあたりました。

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2008年05月10日

「不入地」をめぐる状況〜国の一宮、守護不入地となる(3)

毎年、社頭に催される流鏑馬は、国内の地頭御家人のこぞって勤仕するところであったようで、いま、上社に伝わる1329(嘉暦4)年分の注文によれば、御射山(みさやま)の祭りだけで、14、5番の流鏑馬が奉納され、勤仕者には、北条一門をはじめ「鎌倉中」の名だたる有力者が含まれています。

この盛儀に、信濃国の守護人は、主催者たりえず、重時流北条氏の流れをくむ人々は、国内守護領(たとえば筑摩郡浅間郷など)の地頭として、他の24、5名の御家人とともに流鏑馬の役を勤仕するにとどまるのでした。

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2008年05月09日

「不入地」をめぐる状況〜国の一宮、守護不入地となる(2)

鎌倉幕府の支配圏を国ごとに見てゆくと、既述のような状況に出会うことが、少なくないようです。

国衙を支配下に置いて、事実上、国司の代行者でもあるような守護の分国内に、守護所の立ち入りをあらゆる形であれ認めないという「不入池」が設定され、しかも地頭は、関東有数の権力者です。

信濃国は、六波羅探題や連署をつとめた北条重時の分国で、かれの子孫に守護職が伝えられてゆきますが、国の一宮として、信濃一国中の荘公領に田地をもつ、諏訪社は、上(かみ)社、下(しも)社ともに、社を束ねる大祝(おおはふり)の一族が、北条嫡流家の当主の、もっとも信頼する家人(御内人)となっていて、社全体が嫡流家の家領に組み込まれていたふしがあります。

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2008年05月08日

「不入地」をめぐる状況〜国の一宮、守護不入地となる(1)

守護は、国内の要衝地の地頭職を、いくつか兼ねるのを慣わしとしています。

国衙の周辺の荘公領や、他国と境を接する境界領域の郡(奥郡とよばれ、郡全体が、しばしば一つの荘園となる)の多くは守護領となって、守護所の直接支配下におかれます。
多田院もまた摂津北西部の広大な山林をふくみ「奥郡荘」と呼ぶにふさわしかったそうです。

ですが、摂津守護職を兼ねる六波羅探題は、多田院に一歩たりとも立ち入ることを許しませんでした。北条嫡流家当主(得宗)の権威が、多田院を、守護所(あるいは探題府)の力が一切及ばない「聖域」たらしめたのでした。


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2008年05月06日

「不入地」をめぐる状況〜鎌倉の下知のみを受ける地(4)

西国の国々には、守護所、つまり関東の出先機関の立ち入りを一切受け付けない「本所一円地」と呼ばれる領域が、なお広く存在した・・・・と言われています。
このような荘公領の内部に、たとえば殺害事件が生じた場合、現地の責任者(預所であることが多い)が犯人(容疑者)をとらえ、荘の境界まで出向いた守護使に身柄を引き渡すのが、ならわしだったそうです。

ですが、多田院は「本所一円地」ではありえません。地頭は、北条嫡流家代々の当主であって、摂津一国中での、鎌倉幕府の、おそらくはもっとも強固な支配圏に他ならないでしょう。

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2008年05月04日

「不入地」をめぐる状況〜鎌倉の下知のみを受ける地(3)

多田院御家人は、しばしば他領を往来し、いくつかの痕跡を史料に残しています。

すでに泰時のころ、夜討の疑いをかけられたメンバーがいたそうで、多田院の御家人たちは、あるときは「悪党人」を扶持し、あるいは「悪党」と共に摂津国内外の所々を荒らしまわり、乱暴狼藉を働きました。正応(1288-93)前後と推定される紙背文書は、鴨社領長洲御厨に乱入した彼らについて言及して、以下のように述べています。

加島庄悪党に多田院御家人が加わって御厨に夜討をかけ、焼き払うべく相談致しました。そのような内容の自白状を書いた者の身柄を守護所に召しおきましたところ、多田院政所代の道教及び同院御家人仲基が多数をひきいて御厨に乱入し、12、3日の間、ひどい狼藉に及びました。

この仲基なる人物は、多田院御家人たちの連署状の第八位に署判を加えていて、また政所代道教は、鎌倉から派遣された北条嫡流家の家人(御内人)です。かれらの身柄を押さえるためには、まず鎌倉へ注進することが必要で、嫡流家の公文所から「奉書(ほうしょ)」が六波羅へ送られて、はじめて検断方(六波羅の侍所)が動き出します。
この間、前後一ヶ月を要し、犯人の追及は極めて困難となったでしょう。摂津国と周辺地域の「悪党」たちの活動は、多田院に備わる、この特権を盾としつつ、活発化していったのではないかと推測します。

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2008年05月03日

「不入地」をめぐる状況〜鎌倉の下知のみを受ける地(2)

多田院には、特別な性格をもつ武士たちが住んでいました。多田御家人と言います。

第二次モンゴル来週の翌々年、堂塔修理のため現地入りした勧進上人へ差し出された連署状には、源景弘以下16名の連署があり、これは同時期に若狭国の御家人総数にほぼ等しいそうです。

彼らは、摂津国の御家人として勤むべき諸役を免除されていて、多田院の堂や塔の修復に加わり、儀式の場を警固することが「御公事」でした。

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2008年05月01日

「不入地」をめぐる状況〜鎌倉の下知のみを受ける地(1)

支配圏が入り組み、錯綜する状況は、幕府の地方統治自体の中にも立ち現れて来ています。
まず、北条泰時が関東へ帰って執権となってから、六波羅の後任者にあてて書き送った書状を紹介します。

摂津ひらめき多田院というところを知行しております。そこは将軍家の先祖の御領で、昔より今に至るまで、守護所その他、どのような勢力家も、たやすく使いを入れたことはないのに、貴君の御代官が、もしかしたら、そのような先例を知らなかったものか、何回も使者を入れて、身の代などを取った、という知らせが鎌倉まで届いています。御代官の現地入部を止めるよう、貴君から下知して下さい。もしも重い罪の者が逃げ込むような事態が生じた場合は、まず鎌倉まで知らせてください。

多田院は、ぴかぴか(新しい)多田満仲の廟所で、したがって源氏将軍家ゆかりの地です。原文で「くたん(件)の所ハきみのせんその御りゃう(廟)にて」とは、そのような意味で、承久の乱後の時点での多田院が、モータースポーツ鎌倉幕府の将軍家の所領たることを、必ずしも意味しません。
ですが、正地頭が執権その人であることは、多田院を特別な荘園のようにしたのかもしれません。
「むかしよりいまにいたり候まて、すこ(守護)ならひにいかなるけもん(権門)よりも、さう(左右)なくつかいなといる事も候ハす候」といおう泰時書状の表現に、もし誇張が含まれているとしても、このとき以降、多田は探題府の下知を受けず、守護所の支配下にも入らず、鎌倉の北条嫡流家の公文所の命令のみに従う存在となったのです。

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2008年04月29日

守護人と国司〜六波羅探題府の支配圏(4)

播磨といい、丹波といい、ともに朝廷支配圏の中核を形成する国々であって、両国の荘公領からの貢納物は、平安京の生活を支える一大基盤をなします。そのような国々の国衙と在庁を、ぴかぴか(新しい)探題府は、ほぼ完全な支配下に収めました。

東国の国々での朝廷支配の痕跡を、常陸国に見出す事ができるならば、播磨、丹波両国は、ちょうど逆の事例であって、ぴかぴか(新しい)六波羅の強い影響力のもの、両国の国衙は、守護所自体と化していたと言えるかもしれません。

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2008年04月28日

守護人と国司〜六波羅探題府の支配圏(3)

隣国、播磨国では状況はいっそう顕在的だったようです。

後嵯峨上皇没後、天皇家は両統に分かれ、播磨は、持明院統(後深草-伏見-後伏見と続く流れ)の知行国となって、朝廷の年中行事を支えますが、この国の在庁たちの上位者(庁直)は、関東御家人でした。かれの任務について言及する史料は、「当国の守護人が未補の状況にあるとき、国内の検断権は、ふるくからのしきたりに依り、毎度庁直に仰せ付けられている」と述べています。「未補の状況」とは何でしょう?

実はここに播磨の特性があります。

第二次モンゴル来襲直後から、同国の守護職は、代々の六波羅北方探題によって伝領されていたため、探題交代期の空白が、そのまま探題の兼帯する国に波及せざるを得ませんでした。北方探題不在期は、モンゴル来襲後の半世紀に3,4回確認され、播磨国では、そのたびごとに在庁の最上首が、守護の代行者となる状況が生じたのでしょう。

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2008年04月25日

守護人と国司〜六波羅探題府の支配圏(2)

メモ行隆申す、丹波在庁の間の事。仰せ、先ず武家に仰すべし。その後、国司に仰すべし」。
これは、治天の君、後嵯峨上皇の側近(院近臣)の日記です。

治天の君のもとには、荘園の領家や預所職をめぐる争いや、朝廷の年中行事に関する諸問題が、ひっきりなしに持ち込まれ、それらの訴を、一つ一つ裁いていくのが、上皇にとっての政務でした。ただし、上皇の前に訴訟関係者が立ち入ることは許されず、院御所に仕える殿上人が、取次ぎ(申次)役をつとめます。
院政をささえり人的基盤は、この側近者たちであって、かれらはたんなる伝達役ではなく、一件の内容を知り、対応策を心得てなければなりませんでした。丹波国の国衙に、おそらく生じたと思われる紛擾を、如何にして沈静化させるか・・・。上皇は、院近臣の助言を受けつつ、国衙より先に「ちっ(怒った顔)武家」に伝えることを命じました。丹波国の在庁たちの支配者は、「ちっ(怒った顔)武家」つまり同国守護職を兼帯するひらめき六波羅探題(南方)だったのです。

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2008年04月23日

守護人と国司〜六波羅探題府の支配圏(1)

ここで視点を変えて、鎌倉幕府の西国支配の拠点、六波羅について考えてみます。

六波羅の地は、もと平家一門の根拠地で、頼朝上洛の際、営まれた宿舎が、探題府の原形となったようです。「南方」「北方」と称されているように、二人の探題の居住区は、別々でした。付近一帯は、探題の家人や探題府の関係者、そのまた縁につらなる人々が家を構え、小幕府の観を呈していたそうです。
鎌倉の侍所に相当する機構を「検断方」といい、探題の有力御家人が頭人(とうにん)をつとめました。訴訟審理機関は、4、5方に分かれた引付からなり、頭人は代々京都に移住すす御家人(在京人という)です。

探題は在京人に対し、指揮権をもつけれども、かれらは「外様」、つまり、基本的には探題と同格の人々なのであって「検断方」とはおのずと別の範疇に属します。探題の直接統率下には、意外な武士たちの姿がありました。探題が守護を兼ねる国々の御家人と、その郎党たちです。

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2008年04月22日

守護人と国司〜前大宮司の告発(3)

神官の職自体、または職に付けられた田地をめぐる相論になると、もっと具体的な区別がありました。

訴の提起先について、この郷の給主職は摂関家の政所、あの村の屋敷地は関東の引付、という風に、一つ一つ決まっていたらしいです。
前者(摂関家の政所が取り扱うべき地)は、幕府草創以前からの開発地を基調とし、後者(関東への出訴を必要とする地)は、幕府による寄進地を含みます。関東御家人の立場をもってすれば、開発地が私領、寄進地が公領、と成るはずですが、鹿島社の上級神官たちは、前者を「職領」と表現し、後者を「相伝所領」と考えました。

このような価値観は、たとえば渋谷定心、の置文を支える論理とは対極をなす考え方であって、鹿島社の人々は、自分たちの基本的位置を、やや朝廷寄りのところに見出した、といえましょう。

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2008年04月20日

守護人と国司〜前大宮司の告発(2)

勘解油小路鐘名の日記の一つをあげてみます。

第二次モンゴル来襲の年、盗人が「開かずの御殿」に入って神宝が失われる、という事件が起こりました。不祥事です。
先年まで大宮司の職にあった有力者は、ただちに、現在の大宮司が召使う下人を真犯人として告発する申状を認め、とおく摂関家の法廷に訴えました。その申状に言う。
「社頭に盗人が入った場合、まず事件を京都に申し上げ、御判断を仰いだ上で、大宮司の沙汰として、鎌倉の法廷(侍所)において具体的な審理を遂げるのが先例でありますのに、今回、大宮司は、張本以外の余党を捕らえ、守護職(このころの守護職は小田氏)につきだしてしまいました。これは、旧儀に背く措置といわなくてはなりません。」大犯三箇条に含まれるような事件であっても、鎌倉へ出訴する前に、摂関家へ報告するのをよしとするような気風が、社にはありました。

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2008年04月19日

守護人と国司〜前大宮司の告発(1)

錯綜する領域支配圏の境界に生きる人々の状況は、常陸国の大社、鹿島社に、もっとも具体的なかたちで現れます。同社の神官たちも、朝廷と幕府双方のに仕える身でした。

大宮司(だいぐうじ)および大禰宣(おおねぎ)の補任権は、幕府成立後も摂関家の、言ってみれば氏の長者の行使するところであって(鹿島自体が摂関家を本所とする荘園です。この関係は17世紀以前に神官の相互の争いは 摂関家の政所で審理が行われるのが、ならわしでした。摂関系の家司と、五位蔵人を兼ねる、勘解油小路鐘名の日記(勘仲記というらしい。兼仲は摂関家と上皇あるいは、天皇双方に仕えていたようです)は、多くのページを、手許に集まる文書の裏を返して用いて、鹿島社の人々の訴訟を、何通も見だすことができます。

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2008年04月16日

守護人と国司〜公家、武家兼帯の人々(8)

1297(永仁5)年3月、鎌倉徳政令が発せられると、師行はただちに沽却地(田六反、屋敷二箇所)のとりもどしを申し立て、留守所下文をかちとりました。

永仁徳政令は、御家人の質入地、沽却地の無償取り戻しを主眼としている法で、総社宮神主が、御家人身分を保持していたことは、まず確実です。あるときは朝廷の徳政令のもと、御家人や北条氏の家人から所職を回復し、あるときは関東の徳政令を利用して沽却地をとりもどす・・・といった具合です。

常陸総社宮の神主、清原師行の出処進退は、朝廷と幕府に両属する人々の、生き方の縮図でもありました。

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2008年04月15日

守護人と国司〜公家、武家兼帯の人々(7)

弘安9年2月の国司代下文に話を戻します。

この時の徳政令の最大の受益者の一人は、総社宮の神主、清原師行です。彼は、何年か前に、自身の存在基盤でもある、総社神主職を、北条一門の家人、石河兵衛入道に、おそらく借銭の担保として、取られてしまいました。鎮西の社では、このような場合、銭主が実際に新神主となって乗り込んでくる事例もあったようです。

国司代は「早く石河兵衛入道の非分の競望を停止せしむべし」つまり石河某の神主職知行を由なしとして、師行に、もとの如く神主職を返付します。朝廷の支配権は、徳政令という形で、常陸国衙に付属する宗教施設の上に及びましたが、清原師行自身、知行国主〜目代(国司代)の支配系列に属していた・・・とは必ずしも言えないことでしょう。

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2008年04月13日

守護人と国司〜公家、武家兼帯の人々(5)

□(武)家御分

一所 田三丁 御領主名超兵庫大夫入道殿
一所 田三反 三河前司

□(公)家武家兼帯人々

在庁
一所ならびに田七反 大掾時幹(ときもと)
三所ならびに田小  大掾次郎経幹
一所        馬場左衛門次郎
一所ならびに田五反 大掾孝幹女子


上記は、常陸総社宮に伝わる、一枚の紙片です(もとは何枚も貼り継がれていたとか?)。
冒頭には、「□(常)陸国惣社敷地、知行人数ならびに田畠坪付の事」という見出しが記されていたそうです。ただ読下すと、総社宮の境内に何丁にも及ぶ田や屋敷地(一所、または三所、と記される)が存在するかのような印象がありますが、総社宮は比較的小規模の施設で、実際の状況は、おそらく、そうではなかったでしょう。
名超兵庫大夫入道と三河前司は、ともに鎌倉時代最後の三十年ころ、常陸の荘公領に所領をもった、北条氏一門の人々と見られ、名超兵庫大夫入道は真壁郡に設定された幕府領荘園(関東御領)の、そして三河前司は信太郡の半分がそのまま形を変えた大荘園、信太庄の、それぞれの関係者である可能性が大きいようです。彼らは、鎌倉方の有力者で、神主をはじめとする総社宮の人々から一反また一反と、在庁名を構成する田地を買い取りました。

鎌倉時代の末に至っても、依然として社領沽却は続いたのであって、上記の一紙片は、車外に流出してしまった沽却のリスト、と捉えて良いでしょう。

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2008年04月12日

守護人と国司〜公家、武家兼帯の人々(4)

前述の留守所下文は、前年の弘安8年7月の亀山上皇院宣を現地に伝えるのが目的であって、趣旨は、御家人や郎党身分のものたち、つまり関東方の人々の買得した在庁名(稲富名に限らず)の田畠を、無条件で本主(売り手、つまり神主や他の国衙職員)方へ取り戻すことに在ります。

それはまさしく、徳政令と呼ばれるにふさわしい状況で、常陸の在庁名は、とおく京都朝廷の発令する徳政令を、生きた法として受容しつつあったようです。


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2008年04月05日

守護人と国司〜公家、武家兼帯の人々(6)

「□(公)家武兼帯人々」の箇所には、見せ消ち(「兼帯」のように、本文の脇に印をつけて抹消の意を示す)が施されいます。

ですが、この措置は「武家」に対応する小見出しとして「在庁」を立てようとしたためであって、史料表現自体の誤りではありません。「公家」は、天皇かあるいは朝廷を、そして「武家」は、鎌倉幕府を意味します。

常陸国を代表する関東御家人、常陸大掾の一族は、14世紀に入っても、なお朝廷と幕府に両属すいる人々なのですね。

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2008年04月04日

守護人と国司〜公家、武家兼帯の人々(3)

翌年の弘安9年2月、留守所は「国司代左近大夫将監橘朝臣」の名においおて、再び下文を発しました。

国司代」は、先代の知行国主、花山院の地位を引き継ぎいだ、京都の上級貴族の目代として、現地に赴き常陸大掾氏以下の在庁たちの指揮者となったのでしょう。

(第二次モンゴル来襲の翌々年、弘安6年正月6日の払暁、比叡山の僧兵たちが六基の神輿を擁して内裏になだれこみ、そのため天皇は他に移らねばなりませんでした。自邸が仮の内裏となることを拒んだ花山院長雅は、次天の君、亀山上皇の怒りに触れ、常陸国を没収されました。あたらしい知行国主は、土御門実定です。)

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2008年04月02日

守護人と国司〜公家、武家兼帯の人々(2)

総社宮神官に名田を返しあたえる留守所下文は、次のように言います。

「先代の国司、花山院大納言の時代、稲富名から離れている田地をもとに戻し、名を再興するよう、御下知があった。ところが、この田地四反については、未返付のままである、との訴に接したので、もとの如く宛ておこなうことにする。」

稲富名の再興は「国司」つまり常陸国を知行する花山院長雅(亀山上皇の近臣)が執り行っていたのでした。

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2008年03月31日

守護人と国司〜公家、武家兼帯の人々(1)

常陸国での朝廷の支配圏は、より顕著な形で史料の上に現れているようです。

1185(弘安8)年正月、常陸留守所は、府中左斜め下総社宮(そじゃぐう)に仕える神官の一人に対し、稲富名(いなとみみょう)を構成する田地四反を返し与えました。左斜め下総社宮は、国司の参拝に便ならしめるため、一宮をはじめ、国内の主立つ社を勧請した施設です。神主以下、左斜め下総社宮の神官たちは、国衙所在地周辺に荘公領に一反、また一反という感じで設定された在庁名を知行するならわしですが、稲富名は、まさしくそのような性格の所領であって、常陸国衙領の基底部をなします。
この所領の支配者、つまり神官に田地を返し与えた主体はだれでしょう?

東国の在庁官人たちのほとんどが、鎌倉幕府の御家人でした。留守所下文の最上位に署判する常陸大掾氏(だいじょうし)もまた、れっきとした関東御家人です。が、稲富名は、関東の支配圏の外にあったようです。

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2008年03月30日

守護人と国司〜東国に生まれた朝廷支配圏(5)

前述の日記の書き手(記主と呼びます)は「庁官職(ちょうかんしき)」を与えられていたそうです。
鎌倉時代の中院家の上野国知行は、関東の承認のもと、現地へ目代を送って国衙在庁、つまり留守所を形成している関東御家人たちのうえにも、一定の影響力を及ぼしていたことになるでしょう。同国守護職を伝領して、また国衙近傍の地を支配する秋田城介(安達氏)との折合いは、どのようにしてつけられていたのでしょう?

隣国の下野国では、承久の乱の翌々年、那須郡の一部が伊勢大神宮に寄進され、幕府当局者は、在庁の有力者を現地へ派遣して、荘園(御厨)の領域確定につとめたことが知られています。北関東の一郭に、朝廷側の領域支配圏があらたに生じたのです。

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2008年03月28日

守護人と国司〜東国に生まれた朝廷支配圏(4)

一方。東国の国々の中にも、朝廷のメンバーの知行国がありました。

上野国は、宇多源氏の一流、中院家が、鎌倉時代のはじめから国務を伝えていて、南北朝時代初期の中院家嫡子の日記には「関東代々吹挙の地なり」とあります。「吹挙」は、鎌倉幕府によって代々得分権が保障された地、という意味でしょうか??

この記事は、牡羊座後醍醐天皇より召し上げられた国務を再び取り戻したときのもので、貧窮化する主家を立ち去った青侍(下級の家司)たちが姿を現す中、まず目代の補任を行った上で、当主が「上分所の人給」つまり知行国主の得分をじっさいに受け取る人物を郷ごとに決定した、と言われています。

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2008年03月26日

守護人と国司〜東国に生まれた朝廷支配圏(3)

幕府知行国(関東御分国のこと)、とくに駿河、相模、武蔵の国々は、国衙領といい荘園といい、しずれも関東御家人の本領(名字の地)によって埋め尽くされていて、朝廷方の勢力の入る余地は、個々の単位所領の次元でも、きわめて小さかったと思われます。摂関家や女院の家領注文(荘園名と得分を書き連ねたもの)にも、三カ国の荘園は、地頭請(地頭が現地を支配して荘園領主は年貢を受け取るのみ)と記されている場合がほとんどです。

渋谷定心の置文が示すように、これらの国々での開発地(根本私領)が、幕府の日常生活を支えたのであって、関東御分国は、国衙に対する支配のあり方から見ても、また御家人領の稠密性からみても、鎌倉幕府の金城湯池でした。

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2008年03月25日

守護人と国司〜東国に生まれた朝廷支配圏(2)

鎌倉幕府は、相模、武蔵、駿河、越後四カ国を知行国として支配しましたが、各国の国務は、特定の家もしくは機構にゆだねられました。
つまろ、相模国は政所、越後国は政村流北条氏、そして武蔵、駿河国は、泰時-時頼-時宗とつづく北条嫡流家当主の、事実上の家領(分国)でした。

嫡流家は、武蔵・駿河の守護職も兼ねていたので、この両国は、鎌倉時代を通じて、嫡流家のもっとも強固な支配下におかれたということになります。
両国の国司(守)の地位は、陸奥守・相模守とともに、鎌倉幕府を構成する人々によって、望みうる最高の官途とみなされましたが、国衙在庁たちの指揮権は、鎌倉の得宗公文所が行使する形でした。
現在の国司(守)が庁宣(在庁への命令書の形をとる)を実際に書き与える、遠江国の事例は幕府の知行国でないために用いられた便法、と見なすこともできます。

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2008年03月24日

守護人と国司〜東国に生まれた朝廷支配圏(1)

鎌倉時代の朝廷は、国ごとに国司の収入(具体的には国衙領の年貢)の受領者を、天皇家の家長(政務をとる上皇、‘治天の君’と言う)が指定する慣わしでした。受領者を知行国主といい、天皇家のメンバーや大臣、大納言クラスの公卿、そして由緒ある寺社が、北は陸奥国から南は薩摩、大隅国に至るすべての国のうえに各々臨み、代理人(目代)を現地に送って国衙、国衙領(郡、または郷【ごう)】の支配に当たらせていました。

知行国主は、子弟や自らの政所の上級職員たhしを国司に推薦する権利がありましたが、子の場合、国司は実権を持たない名国司(みょうこくし)で、国務には関係しませんでした。

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2008年03月21日

守護人と国司〜国司、幕府統治権を執行!(6)

守護人と国司。前者は鎌倉側、後者は朝廷方が、それぞれ国ごとに任命する官職です。

守護人はすべて関東御家人で「鎌倉中」の有力者たちによって占められてますが、国司が京都の廷臣ばかりとは限りません。「鎌倉中」に数えられるほどの家の当主は、多くの場合、国々の守に任ぜられた経験を持ち、いやみ房の事件前後での遠江守の中にも、鎌倉幕府のメンバーが確かに存在しています。

いやみ房の兄が、国衙目代と在庁たちの手になる判決案をささげて安堵をもとめた「こくし」は、おそらく、守護人とならぶような有力者であったのでしょう。その意味からすれば「こくし」が兄に書き与えた「あんとのちゃうせん」も、鎌倉幕府の統治権の一部、と見なすことができるでしょうが、京都側の人物が守に任ぜられる場合、自然と別の状況が生じたでしょう。

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2008年03月19日

守護人と国司〜国司、幕府統治権を執行!(5)

敗訴したいやみ房は、土地の有力者をかたらって、兄を脅かし、ついに兄の所領
の後継者を夜討ちにかけてしまいます。事件は守護所に知る所となり、「さかみ
のかうのとの」つまり幕府連署の地位に在った相模守北条時房から、出頭を促す
御教書が再度下された、と言います。

13世紀、おそらく30年代の遠江国では、土地をめぐる裁判権と、夜討容疑者の
召喚(殺害、夜討、大番催促、大犯三箇条に由来する検断権)を、国司(遠江国
)と守護人相模守時房が、分かち合っていたことになるでしょう。

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2008年03月18日

守護人と国司〜国司、幕府統治権を執行!(4)

以上の事件は、武蔵国金沢の律宗寺院、称名寺の僧が、受け取った書状を、テクストを写す料紙として用いたため、今日に伝わったそうです。紙の価値がすごく高かった時代、公卿も僧侶も、公私の別を問わないで、手許に集まる文書類を、せっせとため、一定の大きさに裁断し、霧を吹きかけ伸ばした上で、紙背に経典や注釈書を写し取り、または日記を綴っていきます。
このようにして生き延びた文書(紙背文書)は、当時の人々にとって当たり前なのですが、現在の私たちの想像に及ばない状況を、はっきりと浮き上がらせているものが少なくありません。

金沢文庫の典籍類の紙背として伝わる、何千通もの文書は、そのような事例に満ちていますが、いやみ房と兄の対決に関する報告は、鎌倉時代の地方統治機構の在り方を示す、最上の素材といえるでしょう。幕府草創から半世紀の歳月を経て、東国の入り口となり、かつ関東が統治にもっとも意を用いた国々の一つに、国司が赴任し、庁宣によって判決を下していたのですから・・・・。

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2008年03月17日

守護人と国司〜国司、幕府統治権を執行!(3)

いやみ房と兄は「国の在庁、御目代」の面前で対決することになりました。


幸いにも謀計は見破られ、兄の僧は、国の在庁(現地の有力者たち。国衙の上級職を兼ねていました)と目代(国司の代理人)の合議による、勘草(判決案)をもって国司の居住地へ赴き、所領を安堵する遠江守の「ちゃうせん(庁宣)」つまり現在の命令書を、申し給わることができたのでした。

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2008年03月16日

守護人と国司〜国司、幕府統治権を執行!(2)

御成敗式目が制定されたころ、東国の国々を徘徊する、二人づれの、この時代の表現で言うと「悪党」がいました。いやみ房と兵部阿闍梨という。

いやみ房は遠江国の生まれらしく、殺人を犯して逃亡し、親は科料(罰金)を納めて、子の罪の及ぶのを免れました。兵部阿闍梨の方は、幕府の命令書を偽作した咎で、鎌倉の牢に討ち入られ、何とか出獄すると、今度は甲斐国へ行き、国衙の有力者、野呂介の急死は子息弥二郎の毒殺による、と申し立て、弥二郎を陥れようとしました。

こんな二人が、遠江国衙の近辺に姿を現し、いやみ房にとって兄に当たる僧の所領を奪い取るべく、謀計をめぐらしました。

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2008年03月13日

守護人と国司〜国司、幕府統治権を執行!(1)

鎌倉時代、とくに中期以降の地方制度は、朝廷と幕府の統治圏が互いに入り組んで、複雑な状況を呈していました。個々の荘公領に、預所と地頭が別々に支配圏をもち、国ごとに、平安時代以来の国司(目代)と、鎌倉幕府によって送り込まれた守護(守護代)が存在します。

南北朝時代になると、後者の力が前者を圧倒するに至り、統治圏の並存は、鎌倉時代固有の現象・・・と言っていいでしょう。歴史家は、時代の固有性をその時々の土地制度のあり方にみることが多いようなのですが、荘園や国衙領に関する叙述は、とかく術語的な表現羅列になって敬遠されがちです。今回は、錯綜する領域支配圏の状況を、可能な限りですが、具体的に見ていこうと思います。

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ニックネーム ちこりん at 00:32 | Comment(0) | TrackBack(0) | ■複雑化する領域支配権■