2005年07月21日

●源義経●〜手(グー)一の谷の合戦(18)

ビール芭蕉の一の谷めぐり

江戸時代の俳人・眠い(睡眠)松尾芭蕉は、紀行文『笈の小文』に、1688(貞享5)年4月に須磨を訪れた際の事を記述指しています。山上から、手(グー)一の谷安徳天皇が滞在していたあたりを見下ろした眠い(睡眠)芭蕉は、幼い天皇が母にとりすがって船に乗り込む様子などを目に浮かべて、「長い時を経ても、哀しみがいまだにこの浦にとどまり、波の音にさえ愁いが多い」と述べています。

眠い(睡眠)芭蕉は平家武将のゆかりの史跡も訪れています。その一つ家福祥寺(通称須磨寺、現在の神戸市須磨区須磨寺町にある)は、義経が奉納したという敦盛の青葉の笛熊谷作の敦盛の全身像平家の赤旗などが保管され、境内には、義経が敦盛の首をあらためる際に座ったという義経腰掛の松、敦盛の首を洗ったという敦盛首洗い池などが今でも残っています。寺の近くには敦盛首塚もあります。
毎年、旧暦の2月7日には、敦盛忌の法要が営まれています。

敦盛をはじめ、平家一門には悲劇となった手(グー)一の谷合戦は、義経には輝かしい勝利でした。ですがこの勝利が、後に、義経の人生を狂わす一因になるとは、皮肉な物です。

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福祥寺・敦盛首塚】〜「歴史の扉 〜史跡を訪ねて〜」様より

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須磨寺・福祥寺<神戸観光壁紙写真集>様より
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2005年07月20日

●源義経●〜手(グー)一の谷の合戦(17)

CDヒヨドリとワシの関係

手(グー)一の谷の合戦を詠んだ川柳は色々とあって、江戸の人々の、源平合戦に対する認識が伝わってきて面白いです。


ひよ鳥の道をば鷲が能(よく)おしえ」(『誹風柳多留』三十八編)


平家物語』を知っていればピンと来る歌です。鷲は、鵯越の道案内をした携帯電話鷲尾三郎義久をさします。ひよどりと鷲との対比も冴えています。


一の谷六の方から坂落し」(『誹風柳多留』四十編)


サイコロを思い浮かべてみましょう。一の裏側が六になり、手(グー)一の谷の背後から急襲された様子が、ぱっと連想できます♪


青葉に添えて実の入らぬ首一つ」(『誹風柳多留』百十九編)


「実の入らぬ」は、まだ成人前の敦盛をさします。天秤座熊谷敦盛の首を義経に見せた後、敦盛の持っていた青葉の笛を添えて、父経盛に届けました。このように敦盛の最期を詠んだ川柳も多く見られます。
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2005年07月19日

●源義経●〜手(グー)一の谷の合戦(16)

ぴかぴか(新しい)温情派の義経

浄瑠璃・歌舞伎の「一谷嫩軍記」(宝暦元年<1751>・浄瑠璃初演)では、敦盛は後白河院の子という設定で、それを知った義経のはからいにより命を救われます。平家討伐の際、義経天秤座熊谷に、

「此花江南の所無なり。一枝(いっし)を伐(き)らば一指(いっし)を剪(き)るべし」(この花は中国の江南にはない貴重な花だから、もし枝を折って盗む者がいたら一指を切って罰せよ)

という高札を渡します。それには高貴な敦盛を助け、「一子を斬って」身代わりにせよという意図が隠されていました。獅子座熊谷はそれを悟り、敦盛を討つと見せかけて、我が子小次郎の首を義経に差し出します。天秤座熊谷敦盛平清宗に渡し、義経の許しを得て出家します(三段目「熊谷陣屋」)。
また、文武に優れた薩摩守忠度のエピソードも魅力があります。義経は、平忠度の陣営を攻める時、岡部六弥太に、忠度の歌「さざなみや志賀の都はあれにしを昔ながらの山桜かな」が『メモ千載和歌集』に載ることを伝えさせます。感激した忠度は、六弥太に討たれると約束をします(二段目「莵原の里」)。平家武将の悲劇を描くにとどまらず、義経の、武士としての温情をプラスした所に見所があります。


メモ千載和歌集・・・略称は千載集。後白河院の命により、藤原俊成が着手し、俊成の私撰集『三五代集』を基に編纂されたという勅撰和歌集の一つ。歌数は1288首。ほとんどが短歌で構成されている。


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熊谷次郎直実の像・埼玉県熊谷市】〜〜「歴史の扉 〜史跡を訪ねて〜」様より
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2005年07月18日

●源義経●〜手(グー)一の谷の合戦(15)

台風愛馬を背負った武将

手(グー)一の谷の合戦は、江戸時代の浮世絵の題材としても、たびたび取り上げられています。

歌川国芳(くによし)の浮世絵「一ノ谷合戦 ひよ鳥越より須磨(または江戸)の浦を見る図」が印象的です(早稲田大学演劇博物館蔵。トップページから、データベース→カテゴリー検索の‘浮世絵’→検索ページの‘Search’→「画題等」欄に‘一ノ谷’と入れ、検索ボタンをクリックすると一の谷合戦の浮世絵が出てきます)。
これは三枚一組の絵で、右方には鵯越の急斜面を下る義経一行、左方には熊谷直実と平敦盛の組討ち(この左方の絵はネットでは見れないようです)、屋島へと落ち行く平氏の軍船が描かれています。手(グー)一の谷合戦の重要な点をおさえた図と言えましょう。
義経一行に注目すると、断崖の下をのぞき込むパスワード弁慶(ネットでは見られないようです)を先頭に、義経、秩父荘司63732畠山重忠が続きます。63732畠山重忠は武蔵国秩父(埼玉県秩父市)の武将で武勇、人柄ともに優れた模範的人物として伝わっています。その63732重忠が先にも述べたように馬をちゃんと背負っています♪

実はこの浮世絵は江戸時代に好んで読まれた『源平盛衰記』に登場するエピソードを絵画化したものです。
63732重忠は、

「子供が親の世話になる場合もあれば、親が子の世話になる場合もある。ひとつ馬をいたわってやろう」
と言って、四尺七寸(約1.42メートル)以上ある大きな馬を、手綱や鞍をつけるための腹帯で十文字にひきかけられ、鎧の上に背負って斜面を下りたと言います。さらにまた、図では怖がらせないように馬の目を覆ってやっています。これも愛馬をいたわる63732重忠の優しさなんですね。

ちなみに、(以前御紹介しましたが)当時の馬は、現在、我々が見慣れている競走馬のサラブレッドよりもかなり小さい体格だったそうです(過去の記事参照→http://genji7.paslog.jp/article/11494.html)。それならば、馬を背負う話もイメージしやすいです。しかし、63732重忠は鵯越からではなく、手(グー)一の谷の西手から馬に乗って攻め入ったという説もあってこの逸話が真実であったかどうかはわかりません。これは、63732重忠の武勇伝の一つで、合戦のパートナーである馬を大事にする、武士のあるべき姿を伝えているのだと考えた方がよいでしょう。
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2005年07月17日

●源義経●〜手(グー)一の谷の合戦(14)

時計一の谷合戦余話〜演劇敦盛最期

平氏が一の谷の合戦で敗れたので、天秤座熊谷直実は平氏の大将を討ち取って手柄にしようと海岸のほうへ駒を進めました。すると沖にいる船目がけて、海にざざっと馬を乗り入れて、五、六段ほど泳がせている一騎の鎧武者を見つけました。

あれは大将軍とこそ見参らせ候へ。まさなうも敵にうしろを見せさせ給ふものかな。かへさせ給へ」(『平家物語』巻九「敦盛最期』」)

そこにいられるのは平氏の大将軍とお見受けします。敵に後ろをお見せになるのは卑怯ですぞ。さぁこちらにお戻りなさい。
天秤座直実は視線の先の平氏の武者に向かってこう叫びました。これを聞いて引き返してきた平氏の武者が、波打ち際にさっとあがろうとするところに、天秤座熊谷は自分の馬を押し並べて、むんずと組みましたが途端、勢い余って馬から落ちました。天秤座熊谷は相手を取り押さえて首を斬ろうと兜を押し上げて見ると、その武者は16、7歳ぐらいで、薄化粧をして、歯を黒く染め、美しい容貌をしておりました。我が子の小次郎の姿と重なりました。
「助けよう。ここで討たなくとも、勝つはずの戦に負けることもまさかあるまい。我が子小次郎の軽傷さえ、親の自分は辛く思っているのに、この殿の父は、我が子を討たれたと聞いてどんなにお嘆きになり事であろう。あぁ、何とかお助けしたい」
そう思って後ろを見ると、味方の63730土肥実平63814梶原景時らの軍勢が五十騎ほどでやってくるのが見えました。

「ここで彼の命を助けたところで逃げ切れないだろう。他の者の手にかけるぐらいなら自分が・・・」
天秤座熊谷は流れ落ちる涙を押さえて、若武者の首を斬りました。その首を鎧直垂をとって包もうとすると、腰に錦の袋入れた笛をさしていました。
「あぁかわいそうに、今日の明け方、城の内で管弦をしていたのは、この人々でいらっしゃったのだ。今味方には東国の兵が何万騎かあるだろうけれども、戦陣に笛を持っていく人はまさかあるまい。身分の高い人はやはり優雅なものだ」
と言って、義経に見せたところ、これを見る人は皆、涙を流しました。後に聞くところによると、修理大夫経盛の子息で、大夫演劇敦盛といって生年17歳であったと言います。演劇敦盛が最期まで腰に差していた笛は、祖父の忠盛が笛の上手であって、霧鳥羽院より賜ったものを父親の経盛が相伝し、それを演劇敦盛が名人であったので持っていたのだと言われています。笛の名は「小枝(さえだ)」(他の伝承では「青葉」)と言いました。

尚、「人間五十年、下天の内を比ぶれば、夢幻の如くなり」は幸若舞『敦盛』の一説ですが、
戦国時代に天下統一を目指した織田信長が好んで舞った舞です。「幸若舞」は中世から近世にかけて、「」と並んで武士達に愛好された芸能。
題材は17歳の若武者・平敦盛を討った天秤座熊谷直実が、生命のはかなさと、武士の業をかみ締める部分で歌われました。「下天(げてん)」とは仏教用語の「化天(化楽天=欲望界)」のことを指し、「人間の生涯などあっという間」という内容が、まさしく信長はその生き方に共感を覚えたのでしょう。


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【須磨寺〜源平の庭】枯山水調の庭。敦盛(左)、直実(右)の像が対峙する〜「歴史の扉 〜史跡を訪ねて〜」様より

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平敦盛像<神戸観光壁紙写真集>様より

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熊谷直実像<神戸観光壁紙写真集>様より
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2005年07月16日

●源義経●〜手(グー)一の谷の合戦(13)

パンチ父をかばった若武者・平知章

手(グー)一の谷合戦では、平家側は重要な地位にたつ人や血気盛んな若武者が多数亡くなっています。
その中で平知盛の子・知章は、雷生田の森から父と監物太郎頼方の主従3騎で汀の方へ落ちていく途中、源氏の兵に囲まれたのでまず父を逃がし、監物太郎と共に源氏の兵と戦い討死しました。享年16歳。

このことは、『平家物語』(巻九)にも見られます。

「新中納言知盛の郷は、雷生田の森の大将軍にておはしけるが、その勢、 皆落ち失せ、討たれしかば、御子武蔵の守知章、侍に監物太郎頼方、主従三騎、汀の方へ落ち給ふ處に、ここに児玉党と覚しくて團扇の旗さしたる者どもが、十騎ばかり、鞭鐙を合せて、おしかけ奉る。監物太郎は、究竟の弓の上手なりければ、取って返し、真先に進んだる旗差が首の骨を、ひやうっぱと射て、馬より倒(さかさま)に射落す。
 その中の大将と覚しき者、新中納言に組み奉らんとて、馳せ並ぶる所に、御子武蔵の守知章、父を討たせじと、中に隔たりおし並べ、むずと組んで、どうと落ち、取って押えて首をかき、立ち上らんとし給う所に、敵の童、落ち合せて、武蔵の守の首を取る。監物太郎、落ち重なり、武蔵の守討ち奉ったりける敵が童をも、討ちてけり。その後矢種のあるほど射盡し、打物抜いて戦ひけるが、弓手の膝口をしたたかに射させ、立ちも上らで、居ながら討死してけり。」


また、同じく『平家物語』には父・知盛が子の死を悲しむ有名な一説が見られます。

「その後新中納言知盛の郷、大臣殿の御前におはして、涙を流いて申されけるは、『武蔵の守にも後れ候ひぬ。監物太郎をも討たせ候ひぬ。今は心細うこそまかりなって候へ。されば、子はあって、親を討たせじと敵に組む見ながらいかなる親なれば、子の討たるるを助けずしてこれまで逃れ参って候ふやらん。あはれ、人の上ならば、いかばかり、もどかしう候ふべきに、わが身の上になり候へば、よう命は惜しいものにて候ひけりに、今こそ思ひ知られて候へ。人々の思し召さん御心の中どもこそ、恥しう候へ』とて、鐙の袖を顔に押し當てて、さめざめと泣かれければ、大臣殿、『まことに、武蔵の守の、父の命に代られるこそありがたけれ。手もきき、心も剛にして、よき大将軍にておはしつる人を、あの清宗と同年にて、今年は十六な』とて、御子右衛門の督のおはしける方を見給ひて、涙ぐみ給へば、その座にいくらも並み居給へる人々、心あるも心なきも、皆鐙の袖をぞ濡されける。」

知盛の子に対する悲しみが伝わってくる一説です。
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2005年07月15日

●源義経●〜手(グー)一の谷の合戦(12)

モバQ平家方諸将の最期

最期まで山ノ手の陣に踏みとどまっていた侍大将、越中前司盛俊平清盛の側近・平盛国の子)は猪俣党の小平六則綱の為に討ち取られました。彼は平氏軍の総崩れの中で、はじめから討死の覚悟を決め、壮烈な戦いを続けましたが、ついに力及ばず、乱戦で猪俣のために討たれました。

また、山ノ手の大将軍・通盛は、静かなところで自害しようと、東をさして逃れ出たところ、近江の佐々木成綱(父は佐々木広定)、武蔵の大井資景ら七騎に取り囲まれ、討たれてしまいました。
通盛の弟・能登守教経は平氏随一の武勇の士といわれた人物でしたが、源氏の急襲を受けた直後から狂乱の状態となり、乱戦の中に戦死しました。もっともこの教経については、後の霧屋島牡羊座壇ノ浦の合戦で能登守教経と名乗るものが出たことから、手(グー)一の谷での討死を否定する説があって、また、霧屋島のそれは教経の替え玉であったという説もまります。いずれもあまり信じられませんが、教経の武勇を惜しむ余り、狂乱の果てに乱戦の中に倒れたという現実を、なんとか美化しようと努力した結果の作為かもれません。彼の死骸を安田義定の郎党が見つけて、首を打ち取ったというのが事実ではないでしょうか(しかし、あえてここでは生存説をとります)。

さらに通盛のもとで戦っていた弱冠17歳の弟・業盛(なりもり)は、辛くも敵中を破って海浜に出て、沖の船を漕ぎ寄せる間、しばらく佇んでいましたがそこを常陸国住人、土屋四郎吉安・五郎重行の兄弟に討たれたと言われています。

手(グー)一の谷の西ノ手の大将軍薩摩守忠度は、百騎ばかり従えて、時々馬をとめて戦いながら、ゆっくりと退いていました。そこへこれまた猪俣党の岡部六弥太忠純というものが追いついて、名乗りを求めました。忠度は、「味方である」と言って打ち過ぎようとしましたが、岡部が彼を見るとかね黒の歯をしているのを発見。そこで「源氏には、かねをつけた武者はいない、これはきっと平家の公達に違いない」と思い、いきなり闘いをいどみました。忠度の従えた百騎は、一人残らず逃げてしまったので、忠度は刀をふるって応戦し、ついに岡部を組み伏せました。しかし、今まさに首をかかんとした時、岡部の郎党が馳せ来って、忠度の右手を肘の所から切り落としてしまいました。この深手に、忠度は今はこれまでと思い、念仏を唱えつつ静かに首を打たせました。岡部は、大将軍を討ったとは思いましたが、その名がわからない。ところが忠度の箙に結び付けてあった紙に、

行(ゆき)くれて木の下かげをやどとせば花やこよひのあるじならまし   忠度 」
とあったので、はじめてこれが薩摩守忠度とわかりました。
これは『平家物語』に見える有名な一説です。

経盛の嫡子、皇后宮亮経正は、汀近くで川越小太郎重房に討たれ討死。重盛の子で僅か14歳の師盛は、主従7人ほどで小舟に乗って逃れようとした時、波打ち際で舟が転覆し浮き沈みしている所を、63732畠山重忠の手によって討たれました。

同じく経盛の次男・若狭守経俊は鵯越を守備していたと言われますが定かではありません。西出の浜に落ち延びたところを、範頼の郎党・名和太郎 に追い迫られ討ち取られました。弱冠18歳だったと言われています。
また、清盛の八男清房は義弟・清貞と共に兄知盛の下で雷生田の森にて奮戦。しかし、範頼軍に突破され、単身(若しくは清貞とともに)で敵陣に突入し討ち取られてしまいました。

(武蔵守知章、従五位下で無官であることから「無官大夫」と呼ばれた敦盛も討死。二人については後述)


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【平経俊の墓】〜「歴史の扉 〜史跡を訪ねて〜」様より
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2005年07月14日

●源義経●〜手(グー)一の谷の合戦(11)

ひらめき平氏の犠牲者

「今度討たれ給へるむねとの人々には、越前三位通盛・弟蔵人大夫業盛・薩摩守忠度・武蔵守知章(ともあきら)・備中守師盛・尾張守清貞・淡路守清房・修理大夫経盛嫡子皇后宮亮経正(しゅりのだいぶつねもりのちゃくしこうごうぐうのすけつねまさ)・弟若狭守経俊・その弟大夫敦盛、以上十人とぞ聞こえし」(『平家物語』・巻九「落足」)

手(グー)一の谷では、平氏の中でも指導的な立場にある重要な人物が相次いで討ち死にを遂げた他、大手の生田の森の副将軍でした本三位中将重衡が生け捕られました。
重衡は、乳母子の後藤兵衛盛長とともに西を目指して落ちていきましたが、63814梶原景時らに追われ、馬が矢に倒されたため、そこで捕らえられてしまいました。)

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【平重衡 とらわれの遺跡】〜「歴史の扉 〜史跡を訪ねて〜」様より
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2005年07月13日

●源義経●〜手(グー)一の谷の合戦(10)

ふらふら平氏軍の敗走

義経の奇襲によって手(グー)一の谷の本陣が混乱に陥っている頃、山ノ手の城戸口にも源氏の大軍が襲いかかりました。これはおそらく義経と分かれた義経の本隊で、鵯越の本道をまっすぐに下って、島原・妙泉寺に寄せたものと考えられます。この方面の源氏の指揮者は誰であったのかは明らかになっていません。平氏側の防禦配置と戦死者とを考え合わせ、『平家物語』以下の記述から想像すると、教経師盛らを討ち取ったという安田義定の軍勢であった可能性が高いです。

しかし『玉葉』には、この日の合戦の状況を述べた中に、「多田行綱山方より寄せ、最前に山手を落とさる」とあって、源氏一門の多田蔵人行綱が山手の城戸口を攻略したことになっています。安田義定63730土肥実平以下とともに明石方面を迂回した軍勢であったのかもしれません。この点ははっきりしませんが、山ノ手の平氏軍が、大将軍通盛をはじめ教経師盛らいずれも、背後からは西ノ城戸を破って侵入した源軍に脅かされ、また前面からはこの山ノ手攻撃軍に攻められ、抗戦およばず防禦陣地を破られたのでした。

それはすでに巳の刻(午前十時)に近くなっていた頃でした。雷生田の森で一進一退の戦いを続けている範頼は、手(グー)一の谷方面に黒煙の上がるのを認め、義経の奇襲のことは知らないから敵に内応者が出たものと考えました。そこで戦況が有利に展開したと察して勇気を奮い、全軍に前進を命じました。源氏の大軍は再び大手の城戸に突入しました。
その頃平氏側では手(グー)一の谷方面が破られ、山ノ手が危なくなったので、重衡が八千の軍勢をつれて、その方面に救援に赴いたため、大手の雷生田の森知盛のみで防戦しなければなりませんでした。知盛の軍勢もよく戦いましたが、西の方面の黒煙がいよいよ激しくなるのを見て、次第に戦意を失っていきました。そしてついに、先途と強攻する源軍の前に防禦線を保てず、海浜を西へと退却。
こうして勝敗の帰趨は決したのでした。源氏の軍は四方から平家の陣地内に乱入しました。そこでもまた血生臭い戦闘が繰り返されました。やがて平氏軍が総崩れとなるのも時間の問題でした。乱戦の中に平氏軍の諸将は相次いで倒れ、戦死者は千余人にのぼりました。生き残った者は先を争って海上にのがれ、沖に待機していた船にたどり着きました。総大将の宗盛は、安徳天皇を擁して讃岐(香川県)の屋島に逃れました。
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2005年07月12日

●源義経●〜手(グー)一の谷の合戦(9)

ぴかぴか(新しい)逆落としは、坂落とし

「○○越」というのは山越えの道筋を言います。「鵯越」も実際は、摂津国夢野(神戸市兵庫区)から六甲山脈を高尾山の西で越え、藍名を経て、播磨国三木(三木市)の方面へ向かう間道、とくに藍那辺までの山路だと言われています(水原説)。

延慶本・四部合戦状本と言った『平家物語』でも古態の本には、手(グー)一の谷の北方高山地帯をいう名、あるいはそこを通る一つの山路として当地名を正しく用いていますが、時代が下がるに連れて混乱し、まったく誤って鵯越手(グー)一の谷の城の背後の断崖の名とし、その断崖をまるで「逆落とし」したかのように描いてしまいます。

しかし、義経の実際の足取りは「ぴかぴか(新しい)逆落とし」などといったものではなく、六甲山脈を越えた所から西へ山伝いにたどり、一の谷の北にある鉄拐(てっかい)山から急峻を駆け下ったとされています。


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                   【六甲山からの神戸市】

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ひらめきX地点が山田町藍那です
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2005年07月11日

●源義経●〜手(グー)一の谷の合戦(8)

雷生田の森の激戦

大手の城戸に向かった範頼の大軍は、雷生田の森の敵陣を前にして、夜の明けるのを待っておりました。そしてこの方面でも、搦手の合戦が始まった卯の刻頃に、源平たがいに矢合わせをして合戦が始まりました。搦手の合戦が始まった事を知った範頼は、全軍に進撃を命令し、武田有義63652千葉常胤63814梶原景時らの精鋭は、一挙に城戸をうち破らんと攻めかけました。しかし、十分に防備を整えていた平氏の陣地はきわめて堅固で、高櫓の上から、選りすぐった射手の注ぐ矢は篠突く雨のごとくで、攻め懸ける源氏の大軍をくぎ付けにするほどでした。

また、この方面の平軍の大将・知盛および重衡は音に聞こえた武略の将です。その作戦も見事でありました。源軍が矢ぶすまの前で動きが取れないのを見て、逆に城戸を開き、一騎当千の兵ども二千余騎が寄手の真っ只中に切り込みました。源軍では63814梶原景時もうやだ〜(悲しい顔)景季の奮戦など、後世に語り伝えられるほどのものがありましたが、勝敗は容易に定まらず、一進一退する状態でした。


平家物語』では、
「惣じて源平乱れあひ、入かへかへ、名のりかへかへ、おめきさけぶ声、山をひびまし、馬の馳せちがふ音をいかづちの如し。射ちがふる矢は雨のふるにことならず。手負をば肩にかけ、うしろへひきしりぞくもあり。うすでおふてたたかふもあり。いた手負て討死するものあり。或はおしならべてくんでおち、さしちがへて死ぬるもあり、或はとつておさへて頸をかくもあり、かかるもあり、いづれひまありとも見えざりけり」

と語られています。

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生田神社】社境内には、梶原景季の「梅箙」の碑などがあります。
「歴史の扉 〜史跡を訪ねて〜」様より
ニックネーム ちこりん at 17:20 | Comment(4) | TrackBack(0) | ●源義経●一の谷の合戦

2005年07月10日

●源義経●〜手(グー)一の谷の合戦(7)

ひらめき坂落とし


「源平の軍士等互に混乱し、白旗・赤旗色を交へ、闘戦の体たらく、山を響かせ地を動かす」(『吾妻鏡』・寿永3年<1184>2月7条)

源平の両軍入り乱れての戦いは一進一退のまま、その勝敗はなかなか定りませんでした。そこにまたしても義経の奇襲です。

7日の寅の刻(午前4時頃)、義経CD三浦義連ら七十余騎の精鋭を引き連れて、敵陣を見下ろす鵯越の山上に集結して機会を窺っておりました。
この時、すでに眼下の手(グー)一の谷陣地一帯は、激戦の真最中でした。

「一の谷の上、鉢伏磯の道と云ふ処に打登り遥かに差覗きて谷を見下せば、軍陣には楯を突き並べ、士卒は矢束うぃ寛(くつ)ろげ、〜中略〜大手の戦ひは、はや半ばと見え、鬨(とき)の声矢叫びの音山を穿ち谷を響かし、源平赤白の旗春風に靡(なび)く有様は、劫火の地を焼くも斯くやと思ふばかりなり」(『源平盛衰記』)。

そこで義経は何頭かの鞍を置いた馬を追って急坂をを降りさせました。脚を折り転がってゆく馬もあれば、無事に降りてゆく馬もありましたが、そのうちの三頭が無事着地しました。これを見た義経が、

くはおとせ(そら降りろの意。)義経を手本とせよ
と言って、先頭をきって駆け下るや、続いてCD三浦義連が「三浦の人々にとって、これくらいの崖道は馬場のようなものだ」(『源平盛衰記』)と壮語して駆け下り、それに続いて大勢が一気に駆け下り。平氏の屋形に火をつけました。これが世に言う義経の「ぴかぴか(新しい)鵯越の逆落とし」の奇襲戦法です。

一方の『源平盛衰記』では、土地の猟師携帯電話鷲尾義久に案内され、義経が「鹿が通るところを、馬が通れないはずはない」と言って、馬で一気に駆け下り、63732畠山重忠が馬を労わり背負って下るエピソードが有名ですが、こちらは『平家物語』を元に脚色されたものと思われます。
また、『義経記』には手(グー)一の谷合戦の具体的記述はありませんが、堅固な手(グー)一の谷の軍陣を、地理もわからず兵士の数でも劣っていた義経が攻め落としたことは「凡夫(ぼんぷ)の仕業ならず(常人にできることではない)」と、63814梶原景時が賞賛する場面が有ります。これは、義経に好意を抱いていない63814梶原景時ですら、武将としての彼の功績を認めたという特別な意味を持ちます。

背後からの奇襲に平氏軍は総崩れとなりました。

携帯電話鷲尾義久・・・鷲尾荘司武久の子。三郎・熊王丸とも称されました。丹波国多紀郡鷲尾の住人で、『平家物語』によると、猟師として手(グー)一の谷合戦の際に、義経軍の道案内をし、源氏に勝利をもたらしたと言われています。
恩賞として、義経より「」の一字を与えられ、「義久」と名乗ることを許されました。その後も義経の郎党として活躍し、奥州・衣川館襲撃時に戦死しました。

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【戦の濱の碑・須磨浦公園】〜「歴史の扉 〜史跡を訪ねて〜」様より
ニックネーム ちこりん at 15:04 | Comment(8) | TrackBack(7) | ●源義経●一の谷の合戦

2005年07月09日

●源義経●〜手(グー)一の谷の合戦(6)

ひらめき熊谷・平山の先陣争い

先陣の高名にはやる天秤座熊谷直実父子は、6日夜半、義経の陣を密かに抜け出し、鵯越から一の谷の後方の山に通ずる多井畑(たいのはた)【神戸市須磨区】を経て、一の谷の海岸に出ました。

一の谷に近い塩屋(一の谷の西約二キロの所)にはすでに63730土肥実平の本隊が待機しておりました。二人は夜陰にまぎれて、波打ち際を一の谷の西の木戸口に向かい、
「武蔵国住人、熊谷次郎直実、子息の小次郎直家、一の谷先陣ぞや」

と大音声で先陣の名乗りをあげました。しかし、平氏の武士たちは「夜中に何をわめくか。ほっておけ」とばかりに相手にしません。するとそこに同じような事を考えて、水瓶座平山季重が一騎、一足遅れてやってまいりました。

ようやく夜が明けようとした卯の刻(午前六時ころ)に、天秤座熊谷が改めて名乗りをあげますと、平氏側では飛騨三郎左衛門尉景綱越中次郎兵衛盛次上総五郎兵衛尉忠光悪七兵衛景清ら二十三騎が木戸を開いて迎え討ちました。水瓶座季重天秤座熊谷に負けじと戦い、城へは天秤座熊谷より先に斬り込みました。こうして、一の谷での戦いの火蓋は切って落とされたのです。

ちなみに、天秤座熊谷らは次第に疲労し、水瓶座季重の郎党一人が討たれ、天秤座直実の子・直家も疵を受けました。そして天秤座直実水瓶座季重も危うくなった時、明石方面を迂回してきた63730土肥実平田代信綱以下の七千余騎が、この城戸に殺到したため、一番乗りの天秤座直実以下の面々は、かろうじて討死をまぬかれたと言われています。



天秤座熊谷直実・・・武蔵国熊谷郷の豪族。保元の乱平治の乱では源氏方として参戦。しかし、源氏離散後は平知盛に仕えました。頼朝挙兵にともないこれに従軍、その後も平氏討伐戦で活躍。特に一の谷合戦で、息子直家と同じ年ぐらいの敵将平敦盛を泣く泣く討ち取った話は有名。これを境に戦場からは離れましたが、叔父との所領問題に敗れたのちは法然に帰依し、出家しました。

水瓶座平山季重(すえしげ)・・・父は平山直季(なおすえ)。バースデー武蔵七党の一流で、武蔵国多西郡船木田荘(ふなきだしょう)平山郷を本拠としました。頼朝が挙兵をすると馳せ参じ、平氏追討に参戦。その後は義経軍に属して、宇治川・手(グー)一の谷合戦で活躍しました。特に手(グー)一の谷における天秤座熊谷直実との先陣争いは有名。戦後、頼朝の許可なく右衛門尉(うえもんのじょう)に任官したため、頼朝の怒りを買いますが、後に許されて奥州討伐に参戦。

バースデー武蔵七党とは、主に武蔵国を中心とした平安時代後期から鎌倉時代にかけての武士団の総称。他に横山党、児玉党、猪俣党、村山党、野与党、丹党、西党、綴党、私市党などがいます(「七党」とは後世の呼び方で、数え方は7つとは限らない)。南北朝時代には、武蔵七党の武士団が結束して白旗一揆とよばれる地域集団となりました。

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熊谷直実<矢先稲荷神社蔵>さんより
ニックネーム ちこりん at 22:55 | Comment(2) | TrackBack(3) | ●源義経●一の谷の合戦

2005年07月08日

●源義経●〜手(グー)一の谷の合戦(5)

ぴかぴか(新しい)鵯越へ!

ぴかぴか(新しい)三草山で平氏軍を破った義経軍は、6日の早朝には、播磨の三木の近くまで兵を進め、ここで兵(『平家物語』では一万余騎)を二手に分け、63730土肥実平ら(『平家物語』では七千余騎)を手(グー)一の谷の西の木戸口に遣わして、義経(『平家物語』では三千余騎)は軍勢を途中でさらに二分し、摂津源氏でこの辺りの地理に詳しい多田行綱を鵯越の本道に進ませて、自身は七十余騎の精鋭を引き連れて、鵯越の間道を進み、一の谷の背後に出ました。

一方、手(グー)一の谷に構える平氏(『平家物語』では十万余騎としている)は、東の生田の森知盛、重衡の兄弟に守らせて、西の木戸を忠度に、山の手の木戸にあたる鵯越の麓を通盛、教経、業盛の兄弟にそれぞれ守らせました。

尚、大手に向かった範頼の軍は、昆陽から西国街道をまっすぐ進んで西宮に出て、海岸沿いに生田口に至ったものと思われます。攻撃を7日朝と定めていたのだから、この範頼軍はかなり時間的な余裕があって、接近を続けながら搦め手の軍の到着を待ったものと思います。


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【一の谷源軍進路推測図】
・・・三草山合戦
青線・・・範頼軍
水色線・・・資盛軍敗走路
紫線・・・義経軍
緑線・・・義経軍(土肥実平隊)
赤線・・・義経軍(多田行綱・安田義定隊)
(注)鵯越町近辺は多田・安田の本隊が攻め入り、義経は鉄拐山を越えて一の谷陣屋の背後に出た説をとりました。
ニックネーム ちこりん at 17:27 | Comment(4) | TrackBack(0) | ●源義経●一の谷の合戦

2005年07月07日

●源義経●〜手(グー)一の谷の合戦(4)

むかっ(怒り)後白河法皇の策謀

むかっ(怒り)後白河法皇は、平氏を討つ事に若干のためらいを感じていました。それは安徳天皇と皇位のしるしであるぴかぴか(新しい)三種の神器が平氏の側にあることから、なんとしてもこれを無事に迎えとりたいからでした。
むかっ(怒り)法皇の周囲では、正月20日頃から26日にかけて、和平の使者を出してぴかぴか(新しい)神器の無事をはかるか、追討使をただちに出発させるかにつき、色々と論議が行われていたようです(『玉葉』)。そして、結局は、一方で和平の使者を送ることとしながら、他方では源氏の諸将に進発を命ずるという矛盾した方策をとる結果となってしまいました。

すなわち『玉葉』によれば、23日に一旦は追討のことに決しながら、なお神器を無事に迎えとることが断念できず、26日頃になって平氏追討をやめ、和平の使いとして静賢法印を遣わすことにし、その事を平氏に伝えたようですが、また同じ26日には追討使が京都を進発する・・・といった状態です。この間の事情は、その前後家系がはっきりしていなくて、おそらく数日のうちに、色々な意見が出て、院の当局者の間でも、たびたび手違いが起こったとも考えられるし、またむかっ(怒り)法皇以下が故意に平氏を謀るため、和平の態度を示しながら、同時に追撃を命じたものとも考えられます。

このあたりの事情については、どのように判断するかは別としてむかっ(怒り)法皇から平氏に対して和平の予告があった事だけは確かなようです。手(グー)一の谷合戦が終わった後、屋島に退いたもうやだ〜(悲しい顔)平宗盛にたいして、むかっ(怒り)法皇は再び安徳天皇ぴかぴか(新しい)神器との帰洛を要求しましたが、それに対するもうやだ〜(悲しい顔)宗盛の返事が『吾妻鏡』に収められていて、その書状の中に、手(グー)一の谷合戦の直前に、むかっ(怒り)法皇側からの働きかけがあったことがはっきりと述べられています。
それによれば、京都から平氏に
「近日和平の取計らいがあるから安徳天皇ぴかぴか(新しい)三種の神器を奉じて都へ帰られたい。その和平の使いは2月8日までに送るから、それまでは決して戦を始めてはならない。この趣は源氏の将士にも言い含めてあるから、そのつもりで待っていなさい」との意味のことを申送った事、またその書状が2月6日にぴかぴか(新しい)平宗盛の手元についた事が明らかです。

この『吾妻鏡』に収録されたもうやだ〜(悲しい顔)宗盛の書状が後世の偽作ならばそれまでの話ですが、ここでいう和平の使いのことは、『玉葉』にある静賢法印が使節を命ぜられたことと合致しますし、またその前後の院当局の動きから見ても、これを事実と考えてよいと思います。正月末か、2月初めに和平を予告した書状がむかっ(怒り)法皇側から出された事は確かです。
ところが先に述べたように、源氏の諸将が追討使として正月26日に京都を出発した事も事実のようで、このことが明らかになったためか、静賢法印は使節を辞退してしまいました。そのため和平の使いのことは沙汰闇になったようです。また一方では追討使として京都を出た源氏軍も、2月2日頃までは先に進まず、大江山のあたりに留まっていたと言います(『玉葉』)。これが事実ならば、彼等はしばらく和平のことについて結果の出るのを待っていたかもです。緊迫した状態の中で、すべてに行き違いがあったようでもあります。でも結果的には、平氏が和平の使いの期限と思った8日より以前に合戦が起こり、また勝敗が決しています。『吾妻鏡」によれば、源平両軍が最初に戦端を開いたのは2月5日夜ですので、ぴかぴか(新しい)宗盛が京都からの書状を見た時には、すでに前線では戦闘が開始されていたことになります。平氏側としては、むかっ(怒り)後白河法皇の謀略に陥ったものと判断する他なかったでしょう。


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【三草山・山頂】
ニックネーム ちこりん at 17:30 | Comment(3) | TrackBack(1) | ●源義経●一の谷の合戦

2005年07月06日

●源義経●〜手(グー)一の谷の合戦(3)

ぴかぴか(新しい)三草合戦

2月5日の戌の刻(午後八時頃)のことです。
義経は、63730土肥実平を呼んで、

「平氏はここから三里離れて、ぴかぴか(新しい)三草山の西の麓に大軍で控えているということだが、それを夜討ちにすべきか、明日にすべきか」

と相談しました。すると、63730実平の傍らに控えていた田代信綱が進み出て、
「明日になれば平氏の兵力も増すことでしょう。今の兵力なら、圧倒的にこちらのほうが有利です。夜討ちにするのがよいかと思います」
と主張し、63730実平もこれに同調しました。一行はすぐさま行動を開始しますが、暗さに案じて小野原の民家や野山に火をかけ、昼のような明るさの中を三里ほど進んで、資盛軍を急襲しました。

合戦を明日と見ていた資盛軍は、この義経軍の奇襲によって瞬時に潰走しました。
平家物語』では、資盛軍のこの時の狼狽ぶりは「弓とる者は矢を知らず、矢とる者は弓知らず」という有様で書かれています。

また、『源平盛衰記』によれば、、この時平氏の軍の中にいた普光寺(ふこうじ)広次が源氏に内応し、陣中の諸所に火をかけたため、平軍はいよいよもって乱れた立ち、同士討ちも多く、たちまち崩れ去ったと言われています。尚、この普光寺広次は田代信綱の亡き父、白川の中将為綱の譜代の臣でしたが、為綱が京都で病没して家名が断絶した後平氏に仕えていました。たまたま為綱の遺子信綱が外祖工藤茂光の手によって伊豆で成長し、この源軍に加わっている事を知り、旧恩を忘れえず、平氏を裏切ったものと説明されていますがもとより真偽は明らかではありません。しかし、このような合戦で、敵に内応するものがあったことは当然考えられるところです。

また、同じ『源平盛衰記』には、義経があらかじめ平氏方に放った間者の話が出てきます。それは熊井太郎忠基という者ですが、義経が彼に意を含めた上に、故意にこれを譴責して追放し、平氏の軍に潜入させたものです。そして三草合戦に先立って、平軍の内情を義経に通報したばかりか、さらに一の谷の陣を攻略する際にしても、有利な情報を提供しています。ですがこの説話も、どこまで信じられるか疑わしいです。

こうしてぴかぴか(新しい)三草山の戦いに敗れた資盛有盛らは、加古川を南に下り、播磨国高砂(兵庫県高砂市)から船に乗って讃岐国屋島(香川県高松市)へ渡り、師盛は平内兵衛(へいないびょうえ)・海老二郎を連れて一の谷(神戸市須磨区)に逃れ着きました。
ニックネーム ちこりん at 23:25 | Comment(4) | TrackBack(4) | ●源義経●一の谷の合戦

2005年07月05日

●源義経●〜手(グー)一の谷の合戦(2)

ネット三草山勢揃

2月7日の卯の刻(午前六時頃)が攻撃開始の時と決まりました。京都を出発した源氏の軍は、二手に分かれ、大手を攻める範頼軍は、小山朝政(ともまさ)・武田有義下河辺行平63652千葉常胤63732畠山重忠63814梶原景時をはじめとする五万六千騎(『玉葉』では源氏の軍をわずかに二、三千騎とし、『平家物語』では五万余騎としている)が、海岸に進んで、東から正面の生田の森を攻めることとなり、4日の夕刻に、摂津国の昆陽野(こやの)【兵庫県伊丹市】に陣を構えました。

一方、搦手を攻める義経の軍は、安田義定大内惟義田代信綱63730土肥実平CD三浦義連平山季重(すえしげ)・熊谷直実をはじめとする二万余騎(『平家物語』では一万余騎としている)が、丹波路を回って播磨に入り、一の谷の西北を襲うことになり、5日、三草山の東、小野原(兵庫県篠山市)に陣を構えました。

これを迎え撃つ平氏軍は、資盛・有盛・師盛(もろもり)の兄弟(重盛の子)を初はじめとする七千余騎(『玉葉』は二万騎、『平家物語』では三千余騎としている)が、義経軍と三里(12km)隔てた三草山の西の麓に陣を構えることとなりました。
ニックネーム ちこりん at 17:25 | Comment(2) | TrackBack(0) | ●源義経●一の谷の合戦

2005年07月04日

●源義経●〜手(グー)一の谷の合戦(1)

新月平氏追討の宣旨

さて、いったん都落ちした平氏ですが、四国の屋島に拠って勢力を回復し、さらに摂津国の福原にまで進み、一の谷陣を構えて京都復帰を目指しておりました。

平氏が構える一の谷は、北側を険しい山々に囲まれていて、南側には海が広がる天然の要塞でした。その入り口は狭くて奥は広く、岸は高くてまるで屏風を立てたのと同じような感じでした。北の山際から南の海の遠浅まで、大石を重ね上げ、大木を切って逆茂木(バリケード)につくり、深い所には多くの大船を並べて、1かい楯をつくり、城の正面の高矢倉には、一騎当千と名の高い四国・九州の兵士達が甲冑弓箭を身に付けて、雲霞のように並んでおりました。

平氏追討か和平か。義仲滅亡後の朝廷は、この二つの矛盾する意見に揺れていました。1183(寿永2)年8月、朝廷は後鳥羽天皇2践祚しましたが、「ぴかぴか(新しい)三種の神器」(鏡・剣・神爾<勾玉>を言い、皇位継承のしるし)がないため天子としての形式が備わっておりませんでした。
たらーっ(汗)安徳天皇と「ぴかぴか(新しい)三種の神器」が平氏側にあり、朝廷としてはこれを何とか無事に取り戻したいと思っていました。そのため、平氏との和議を望む声も少なくなく、平氏に使者を派遣して、翌年2月8日に和平の使者を出発させる旨を伝えました。

しかし一方で、平氏が都落ちする際、これを裏切ったむかっ(怒り)後白河法皇は、その復習を恐れてもおりました。正月26日、むかっ(怒り)法皇頼朝に対して平氏追討の宣旨を、さらに29日には、義仲方武士追討の宣旨を正式に下しました。これを受け、26日(『玉葉』による。『吾妻鏡』では29日、『平家物語』では2月4日)範頼義経に率いられた源氏の軍は京都を出発しました。

1かい楯・・・楯を横一列に垣根のように並べ立てたもの。

2践祚・・・天皇の位を継ぐこと。
ニックネーム ちこりん at 14:16 | Comment(6) | TrackBack(3) | ●源義経●一の谷の合戦