平家方諸将の最期最期まで山ノ手の陣に踏みとどまっていた侍大将、越中前司
盛俊(
平清盛の側近・平盛国の子)は猪俣党の小平六則綱の為に討ち取られました。彼は平氏軍の総崩れの中で、はじめから討死の覚悟を決め、壮烈な戦いを続けましたが、ついに力及ばず、乱戦で猪俣のために討たれました。
また、山ノ手の大将軍・
通盛は、静かなところで自害しようと、東をさして逃れ出たところ、近江の佐々木成綱(父は佐々木広定)、武蔵の大井資景ら七騎に取り囲まれ、討たれてしまいました。
通盛の弟・能登守
教経は平氏随一の武勇の士といわれた人物でしたが、源氏の急襲を受けた直後から狂乱の状態となり、乱戦の中に戦死しました。もっともこの
教経については、後の
屋島・
壇ノ浦の合戦で能登守
教経と名乗るものが出たことから、
一の谷での討死を否定する説があって、また、
屋島のそれは
教経の替え玉であったという説もまります。いずれもあまり信じられませんが、
教経の武勇を惜しむ余り、狂乱の果てに乱戦の中に倒れたという現実を、なんとか美化しようと努力した結果の作為かもれません。彼の死骸を
安田義定の郎党が見つけて、首を打ち取ったというのが事実ではないでしょうか(しかし、あえてここでは生存説をとります)。
さらに
通盛のもとで戦っていた弱冠17歳の弟・
業盛(なりもり)は、辛くも敵中を破って海浜に出て、沖の船を漕ぎ寄せる間、しばらく佇んでいましたがそこを常陸国住人、土屋四郎吉安・五郎重行の兄弟に討たれたと言われています。
一の谷の西ノ手の大将軍薩摩守
忠度は、百騎ばかり従えて、時々馬をとめて戦いながら、ゆっくりと退いていました。そこへこれまた猪俣党の岡部六弥太忠純というものが追いついて、名乗りを求めました。
忠度は、「味方である」と言って打ち過ぎようとしましたが、岡部が彼を見るとかね黒の歯をしているのを発見。そこで「源氏には、かねをつけた武者はいない、これはきっと平家の公達に違いない」と思い、いきなり闘いをいどみました。
忠度の従えた百騎は、一人残らず逃げてしまったので、
忠度は刀をふるって応戦し、ついに岡部を組み伏せました。しかし、今まさに首をかかんとした時、岡部の郎党が馳せ来って、
忠度の右手を肘の所から切り落としてしまいました。この深手に、
忠度は今はこれまでと思い、念仏を唱えつつ静かに首を打たせました。岡部は、大将軍を討ったとは思いましたが、その名がわからない。ところが
忠度の箙に結び付けてあった紙に、
「
行(ゆき)くれて木の下かげをやどとせば花やこよひのあるじならまし 忠度 」
とあったので、はじめてこれが薩摩守
忠度とわかりました。
これは『
平家物語』に見える有名な一説です。
経盛の嫡子、皇后宮亮
経正は、汀近くで川越小太郎重房に討たれ討死。
重盛の子で僅か14歳の
師盛は、主従7人ほどで小舟に乗って逃れようとした時、波打ち際で舟が転覆し浮き沈みしている所を、
畠山重忠の手によって討たれました。
同じく
経盛の次男・若狭守
経俊は鵯越を守備していたと言われますが定かではありません。西出の浜に落ち延びたところを、
範頼の郎党・名和太郎 に追い迫られ討ち取られました。弱冠18歳だったと言われています。
また、
清盛の八男
清房は義弟・
清貞と共に兄
知盛の下で
生田の森にて奮戦。しかし、
範頼軍に突破され、単身(若しくは
清貞とともに)で敵陣に突入し討ち取られてしまいました。
(武蔵守
知章、従五位下で無官であることから「
無官大夫」と呼ばれた
敦盛も討死。二人については後述)

【平経俊の墓】〜「歴史の扉 〜史跡を訪ねて〜」様より